「千尋観音」に託す「犠牲を無にしないで」の願い
千尋が脇見の運転者によって命を奪われた現場は、千尋の愛犬サム(遺影に抱かれています)との毎朝の散歩コースでもありました。
遺された私たちは、長女に替わってサムを散歩させ、現場に花を供える度に、千尋の無念を想い涙していました。
事件から4年後、現場に観音像を建立し、「犠牲を無にしないで」という長女の願いを託しました。
聖千尋観音
- 建立地:
- 千歳市北信濃770番地
市道東7線,「(株)ダイヘン」前 - 建立年:
- 1999年10月25日(4年目の命日)
- 碑 銘:
- 私の犠牲を無にせず
子どもやお年寄りも
安心して歩ける
人にやさしい社会を
創って下さい - 制 作:
- 石像彫刻師 長岡 凞山(きざん)
建立メモ
制作いただいたのは、滝川市の石像彫刻師、長岡凞山氏です。山崎石材さんから紹介いただき、師には、千尋の写真を持参して家族の願いを伝えご依頼しました。
師の全霊をこめて制作いただいた「聖千尋観音」は、千歳市(建設部道路管理課)への石仏設置の申請を経て4年目の命日に建立しました。
(2010年、市道の改良工事に伴い、台座が現在のように改築されました。)

千歳市北信濃770番地
(市道東7線,「(株)ダイヘン」前 JR千歳線長都駅から徒歩12分)
聖千尋観音が本に紹介・記録されました
~「交通安全を語る仏さま」釈 地縁著~
この本の著者である、釈 地縁さん(しゃく ちえん:ペンネーム,札幌市在住の元道職員)とは,北海道交通事故被害者の会が主催するフォーラムで知り合うことが出来ました。
釈さんは、2020年8月に自費出版された本の中で,「聖千尋観音」を記して下さる(表紙写真とp55)とともに、被害者の会が会報やフォーラムで訴えている切なる願い~犠牲を無にせず,交通死傷ゼロの社会を創って欲しい~を全編に込めて下さいました。
釈さんは,出版に至る経緯を自身のサイトで次のように記されています。
「北海道の道端で交通安全を見守っている、お地蔵さんや観音さんをお参りしてきました。おもに平成22年から26年にかけてのことです。
拝顔した仏さまは一カ所一体として約300体です。そのうち交通事故死者の慰霊や交通安全祈願のために建立されたと思われる仏さまは170体ほどで、90%がお地蔵さんでした。お参りを重ねている間に、道端から姿を隠した尊像があることを知りました。
“交通戦争”を伝えている仏さまの記録を、今のうちに残しておく必要があると考えました。」
(釈さんのサイト「交通安全を語る仏さま」https://bhj380.jimdofree.com/ より)
そして釈さんは、沢山の方に道端の仏様の願いを知っていただきたいと、この本を全道163か所の公立図書館に寄贈されていますので貸出可能です。
またPDFでダウンロードして読むことも出来ます。
https://drive.google.com/file/d/1OZ9vxTUvg0MbFO2JChBkdUTgGJShVUaY/view
皆さまへのお願いです。是非この本を通して、全道170体の尊像をはじめとする安全な社会を願う「声なき声」に耳を傾け、交通死傷ゼロについて語り合って下さい。
(2020年10月、25年目の「遺された親」)
ページ
カテゴリーごとの投稿
- カテゴリー: 交通死ー遺された親の叫びⅡ(最新〜2013)
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- 「交通犯罪の刑罰の軽さを問う」北海道交通事故被害者の会 誌上フォーラムの記事紹介
- 【報告】被害者の会 会報65号の発行
- 「交通安全を語る仏さま」(釈 地縁著)の本が、「ふるさと自費 出版大賞」の「優秀賞」を受賞しました
- 【報告】被害者の会 会報64号の発行とホームページリニューアルのお知らせ
- 「隠れ人身事故」の問題が国会で取り上げられ、国家公安委員長が背景の把握を明言しました
- 自動運転への幻想は「クルマ優先社会」の麻痺を助長する 自動配送ロボットの歩道走行(規制緩和)に反対する意見書の取り組み
- 【報告】会報63号(2021年2月)を発行しました
- 「交通事故は本当に減っているのか?」(加藤久道著 花伝社)刊行に励まされ
- 世界道路交通被害者の日 いのちのパネル展 の報告
- 聖千尋観音が本に紹介・記録されました
- 【報告】会報62号(2020年8月)を発行しました
- 被害者の会の気田さんが報道番組で時効廃止を強く訴えられました
- コロナ禍に世界は「非常事態宣言」、しかし交通死傷は「日常化された大虐殺」
- 【報告】サイト開設20年の想い(年表付)
- 【報告】会報61号(2020年1月)を発行しました
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- 【報告】7・24 札幌シンポ「市町村における被害者支援」の記録と道条例
- 【報告】旭川飲酒暴走事件(その3)2017.8. 旭川地裁は危険運転で懲役10年の判決
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- 【報告】飲酒運転根絶へ、道条例が制定・施行
- 【報告】ワールドディ・北海道フォーラム(11月20日)のテーマは 「ゾーン30」と「歩車分離信号」
- 【報告】砂川5人死傷事件(その3)2016.11. 札幌地裁は両被告に求刑通り懲役23年の判決
- 【報告】砂川5人死傷事件(その2)2016.11. 傍聴報告
- 【報告】砂川5人死傷事件(その1)2016.10. 公正な裁きを願って
- 【報告】7・13 飲酒運転根絶の日のとりくみ
- 【報告】旭川飲酒暴走事件(その2)2016.7. 旭川地検は危険運転罪に訴因変更!
- 【報告】旭川飲酒暴走事件(その1)2016.6. 危険運転への訴因変更を求めます!
- 【訴え】高速道路の120キロ容認は大問題、犠牲ゼロに規制の徹底を
- 【報告】「スローライフ交通教育の会」、会報19号を発行
- 【報告】 軽井沢ツアーバス転落事故への想いが記事に
- 【報告】ワールドディ 北海道フォーラムに60人(11月19日報告)
- 【報告】小樽4人死傷事件(その4)2015.7. 札幌地裁は危険運転罪・懲役22年の判決。2015.12. 札幌高裁は被告の控訴を棄却
- 【お願い】 飲酒運転根絶道条例制定にご理解とご支援を
- 【報告】飲酒運転のない北海道を目指すシンポジウムに100人
- 【報告】「小樽事件からの教育・社会の課題」をテーマに公開シンポ
- 【報告】刑訴法(被害者参加制度)意見交換会と最高検通達
- 【報告】世界道路交通犠牲者の日 北海道フォーラム開催
- 【報告】小樽4人死傷事件(その3)2014.10. 危険運転罪への訴因変更なる
- 【報告】小樽4人死傷事件(その2)2014.10. 訴因変更署名について
- 【報告】小樽4人死傷事件(その1)2014.8. 札幌地検の対応についての見解
- 【報告】生命のメッセージ展 in 札幌 7月11~13日
- 【報告】7/20シンポ「ストーカー被害を止めるために」
- 【記事紹介】自動車運転死傷行為処罰法について
- 【報告】体験講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」続報(3月2日)
- 【報告】体験講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」への生徒の感想文から
- 【報告】自動車運転に係わる刑罰改正について
- 【報告】11・17 世界道路交通犠牲者の日・北海道フォーラムに70人
- 【報告】公開シンポ「クルマ社会と交通教育」
- 【報告】北海道で初、矯正施設での「生命のメッセージ展」
- 【トピックス】古屋国家公安委員長の問題発言、続報
- 【報告】被害者になるとは、どういうことか~市民レベルでのサポートのあり方を考える~
- 【トピックス】6月4日の古屋国家公安委員長の制限速度違反容認発言について
- カテゴリー: 交通死傷ゼロへの願い
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- 【報告】小樽4人死傷事件(その3)2014.10. 危険運転罪への訴因変更なる
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- カテゴリー: 世界道路交通被害者の日
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- カテゴリー: 交通教育
- カテゴリー: 交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)
- 【コラムNo.035】 2013/5/11 今こそ危険運転致死傷罪など刑法の全面的見直しを(その3)
- 【コラムNo.034】 2013/4/10 「クルマ社会」の麻痺を根底から問う
- 【コラムNo.033】 2013/1/15 新しい年に
- 【コラムNo.032】 2012/8/27 今こそ危険運転致死傷罪など刑法の全面的見直しを(その2)
- 【コラムNo.031】 2012/8/11 今こそ危険運転致死傷罪など刑法の全面的見直しを(その1)
- 【コラムNo.030】 2012/5/13 交通犯罪への刑罰について~特に危険運転致死傷罪に関わって~の覚え書き
- 【コラムNo.029】 2012/1/13 津田美知子さんの講演と雪山
- 【コラムNo.028】 2010/10/11 第9次交通安全基本計画(中間案)に対する意見
- 【コラムNo.027】 2010/4/17 希望
- 【コラムNo.026】 2009/7/13 「世界最先端研究の支援」をいうなら、「交通死傷ゼロ」に直結する、共生の交通社会のための速度制御カーとそのシステム研究を
- 【コラムNo.025】2008/1/12 福岡地裁の不当判決に怒り 高裁での逆転公正判決と刑法の再改正を求める(2/9一部改訂)
- 【コラムNo.024】 2008/1/8「いのち」でつながり、「希望」の「未来」へ
- 【コラムNo.023】 2007/12/25 高校生の感想文
- 【コラムNo.022】 2007/6/7「自動車運転過失致死傷罪」新設について
- 【コラムNo.021】 2007/1/1 貴重な一歩、法務省と警察庁が交通犯罪厳罰化の方針
- 【コラムNo.020】2006/1/10 犯罪被害者等基本計画」と「交通死ワースト返上」に思う
- 【コラムNo.019】2005/4/3 一筋の光、「犯罪被害者等基本法」施行とドクターヘリ本格運用
- 【コラムNo.018】2005/1/10 運転席の「装飾版」が全面禁止に
- 【コラムNo.017】2004/8/11 運転中の携帯使用は危険行為
- 【コラムNo.016】2003/7/8 交通安全への高校生の思い
- 【コラムNo.015】2003/7/5 断ち切れ「加害者天国」「危険運転致死」適用拡大を
- 【コラムNo.014】2003/5/28 「何年たっても」
- 【コラムNo.013】2003/4/14 「大人の方へ」
- 【コラムNo.012】2003/3/3 運命
- 【コラムNo.011】2003/1/16 「視点を変える」
- 【コラムNo.010】2002/11/27 生命のメッセージ
- 【コラムNo.009】2002/10/3 原因療法
- 【コラムNo.008】2002/8/26 償い
- 【コラムNo.007】2002/4/15 雪解け早く?道内交通死最悪ペース - 求められるのは具体的な「規制」
- 【コラムNo.006】2000/11/18 交通事故被害は「社会的費用」?!
- 【コラムNo.005】2000/7/15 ある判決
- 【コラムNo.004】2000/2/5 小学生殺害事件と「交通死」(3.9.加筆)
- 【コラムNo.003】2000/1/8「犯罪白書」にみる交通犯罪の扱いの軽さ
- 【コラムNo.002】1998/12/30 「交通死減少に」気を緩めないで
- 【コラムNo.001】1998/9 交通安全運動に思う
- カテゴリー: 論考・発言
- 【15】2021/10「ハートバンドの歩みと 基本法制定から16年の課題」~全国被 害者支援ネットワーク発行の記念誌に執筆~
- 【14】2020/12 内閣府主催「第11次交通安全基本計画(中間案)に関する公聴会」での公述人意見
- 【13】2018/2 札幌高裁研究会での講話 「交通事犯被害者の現状と願い」
- 【12】2015/11 内閣府主催「第10交通安全基本計画(中間案)に関する公聴会」での公述人意見
- 【11】2013/2 被害者理解のために~長女の交通死事件と被害者団体の活動~
- 【10】2012/7 法務省ヒアリングでの発言「司法手続への被害者参加など犯罪被害者等の権利を護るための要望」
- 【9】2011/9 ハートバンドの誕生と「いのち・きぼう・未来」
- 【8】2011/2 ロードキルが原因の交通事故をめぐる国家賠償裁判例を通して、生徒が学んだ野生生物と交通の課題
- 【7】2010/10 内閣府主催「第9次交通安全基本計画(中間案)に関する公聴会」での公述人意見
- 【6】2010/1 意見募集に応じ、法務省刑事局に提出した意見書「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方等について(意見)
- 【5】2008/4『スローライフ交通教育』の意義と教育現場での実践事例
- 【4】2007/2 法制審議会刑事法部会での意見書および発言詳細
- 【3】2005/11 全国大会での訴え「(交通)被害者のおかれている現状と願い」
- 【2】2005/2 交通犯罪被害者の願い(内閣府ヒアリングでの発言)
- 【1】2002/11 交通教育の課題 -子どもの命と人権を守るために-
- カテゴリー: 情報
- カテゴリー: 相互支援の記録(2000〜2013)
- 【No.010】 真島以明さん交通死事件
- 【No.009】 高橋真理子さん交通死事件
- 【No.002】 北広島市土場俊彦君事件、関連記事 06/03/24
- 【No.008】 白倉美紗さん交通死事件
- 【No.003】 竹田響ちゃん交通死事件、支援の記録
- 【No.004】 山下博之さん交通死事件、支援の記録
- 【No.011】 飲酒・ひき逃げ犯の厳罰化を求める署名運動
- 【No.005】 橘敏幸さん&白石乃郁さん交通死事件、支援の記録
- 危険運転致死罪適用を求める署名 横断歩道での安全無視の暴走は危険運転。犠牲を無にせず交通死根絶のため
- 【No.007】 眞下綾香ちゃん事件を支援の記録
- 【No.006】音喜多康伸君交通死事件、支援の記録
- 【No.001】運送業者の責任を問う斎藤さんの取り組み
- カテゴリー: 最新の記事
娘からの「問いかけ」に答えて
- 建立日
- 1999年10月25日(4年目の命日)
- 碑銘
- 私の犠牲を無にせず
子どもやお年寄りも
安心して歩ける
人にやさしい社会を
創ってください - 所在地(帰天地)
- 千歳市北信濃770‐7市道東7線
(株)ダイヘン前
私たちの最愛の娘千尋(ちひろ)は、1995年10月25日、学校帰りの歩行中、後ろからきた前方不注視のワゴン車に衝突させられ、わずか17歳(高校2年生)で限りない未来とその全てを奪われました。
「遺された親」である私と妻は、筆舌に尽くし難い悲しみと怒りで胸が張り裂けそうな日々の中、未だに、娘の仏前で「安らかに」と声をかけることはできません。
いつも娘から「私は、なぜこんな目に遭わなくてはならなかったの」「私がその全てを奪われた犠牲は(今の社会で)報われているの」と、問いかけられているような気がするからです。
「遺された親」として、娘の無念を胸に、この「問いかけ」に答えなければならないと思います。
犠牲を無にせず、現代の最大の人権侵害である交通犯罪・交通死傷被害を根絶するために、心の中の娘とともに、考え、行動し、発信し続けます。
貴女を決して忘れない

誕生
1978年5月12日、午後3時53分、待望の長子として稚内市立病院で産声をあげました。5日目、いろいろ悩んだ末に「千尋」と名づけました。アルバムには命名の由来を、次のように記してあります。
「ちひろ」について
1974年8月この世を去った、いわさきちひろさん。
童画家として沢山の絵を残し、子どものしあわせを願う母親として生き抜きました。いわさきさんの絵は、現在も私たちの心を暖かく包み、清しく生きることに力強い励ましを与えてくれています。いわさきさんの絵に描かれているような、優しく純真な女の子になって欲しいと願い“ちひろ”と名づけました。
「千尋」について
限りなく深い人間の一生を、より豊かに、より美しく生きるための道を、どこまでも尋ね求めて欲しいと願い、この字を選びました。
1978.5.17. 千尋のお父さんとお母さん
弔辞
弔辞 / 1995年10月27日 生徒代表:高橋暁子/村田茜
千尋は今どんなことを思いながら眠っていますか。
私は、千尋ともう話が出来ないなんて、会えないなんて信じたくありません。
学校のトイレで千尋が私に言ってくれた
「部活がんばってね」の言葉が最後だったなんて・・・。
もっとたくさんたくさん話をすればよかったね。
千尋は幼稚園時代からつづいていた唯一の友だちでした。
お互い転校して、去年10年振りに再会できたのに。
千尋と一緒にいた期間は3年間もないけど
数えきれないほどの思いでがあります。
一緒におままごとしたり、二人で怒られたこと。
今年の冬、一緒に富良野に2泊3日でスキーに行ったこと。
どれを思い出しても、二人でいた時間はとても楽しかったね。
二人でおそろいのスキーウエア買ったよね。私は黄色、千尋はピンクで
「また来年スキー行こうね。絶対行こうね。」って言ってたのに
もうスキーどころか会えなくなっちゃうんだね。
すごく明るい性格で、いつも私を笑わせてくれたよね。
その反面、すごく意志が強くて負けず嫌いだったよね
あまり体育が好きじゃなかったのに
バスケットボールになったら急に走り回ったり
「次のテスト、絶対ちひろがんばるから」ってよく言ってたよね
一緒に行くはずだった、修学旅行、ちひろすごく楽しみにしていたよね
11月4日一緒に買い物行くって言ってたのに
残念で、悲しくて、言葉にならないよ
まだまだ話したいこと、やまほどあるんだよ
やらなきゃいけない事、たくさんあるんだよ
でもね、ちひろは17年間という短い間だったけど
勉強も恋もいろんな事、すべてに精一杯生きてきたよね
私は、そんなちひろが、とてもうらやましかったよ
だから、私はこのちひろの命を決して無駄にはしない
私も、私たちも、ちひろの分までしっかり生きようって決めました
昨日も、今日も、明日も、これからずうっと
ちひろは私のかけがえのない友達の一人として、
心の中にしまっておくつもりです
ちいーちゃん ありがとう
1995年10月27日
生徒代表
高橋 暁子
村田 茜
弔辞 / 1995年10月27日 五井ますみ/今記代子
ちひろちゃん
突然の悲報に、稚内の私達は只々驚き、信ずることが出来ませんでした
千歳に来て2年目、17才のあなたは
母の背丈をはるかに越し、少しおしゃれで友達を大切にする
思いやりの深い、やさしい高校生でした
あなたの歩んで来た17年間は
お父さん、お母さんの二人の歴史でもありました
お父さん、お母さんは遠別で結婚し、9ケ月のお腹で稚内に転勤して来ました
1978年5月12日、元気に誕生しました
とてもすてきな名前、“ちひろ”とお父さんが名づけてくれました
2~3才のあなたは、お口の達者なオシャマさんで
おばちゃん達の方がタジタジとなる場面も数々あったんですよ
小中学校の頃のあなたは、少しはにかみやさんで
急に口数の少ない子になってきましたが・・・
家族の時間を大切にしていたお父さんお母さんは
まだ1才になったばかりの頃から、あなたと毎夏、キャンプに出かけていました
昨年の洞爺湖でのキャンプが最後になってしまいましたね
大きくなってからは、妹のさやかちゃんと4人で、沖縄へ、広島、長崎へと
お父さん、お母さんの平和への思いをしっかり受けつぐ子に成長しました
私達は、ちひろちゃんが手抜きをせずに一生懸命にとりくんだ
旅行記念の大きな壁新聞を、今も覚えていますよ
6家族18人で行った利尻富士登山も本当に楽しかったですね
バテてしまいそうになるお母さんを励ましながら、とうとう頂上に立った時の充実感!
覚えていますよね
稚内ですごした11年間は
私たち、お母さんの仲間のなかに、沢山の思い出として残っています
お父さんの転勤と、高校受験が重なった大変な時期をのりこえて
学校生活に楽しみが見えて来たこの時
アルバイトでためたお金をお小使いにすると、待っていた修学旅行
思春期特有の不安や焦燥感にゆれ動く心にも、少し落ち着きをとりもどしてきて
これからが素直な気持で、お父さんお母さんと大人同士のしっくりした関係が
出来あがっていく時
ちひろちゃん!
どうしてこんなに早くお別れしなければならなかったのでしょう
ダンベル体操で更にスマートになったお父さん
美人のちひろちゃんを誇らしげにあちこち連れ歩きたかったことでしょう
真紀子さん
同じ女性同士として、これからの人生を語り合いたかったことでしょう
さやかちゃん
先輩として、お姉ちゃんにいろいろ教えて欲しい
話し合いたい思いが一杯あることでしょう
洗濯で少し縮んだお父さんのセーターを
高校1年生の時から制服の上に着ていたというちひろちゃん
そのセーターを着て旅立っていかれました
いつもお父さんが一緒です
安らかにおねむり下さい
ちひろちゃんが身をもって私達に知らせてくれた事を教訓に
本当に一人一人の命が大切にされる世の中を作るため
ちひろちゃんの分まで多くの人達と手をたずさえ頑張ってゆきます
おじいちゃん、おばあちゃん
お父さん、お母さん、さやかちゃん達を、いつも見守っていて下さいね
ちひろちゃん、楽しい思い出をありがとう
安らかにおねむり下さい
合掌
1995年10月27日
五井 ますみ
今 記代子
千尋へ

従妹のひとみちゃん(左)と
「お姉ちゃんへ」
お誕生日おめでとう
プレゼント買ってこなくてゴメンネ。 修学旅行でなんか買ってくるからまってて
また一緒に買い物に行きたかった。 誕生日のプレゼントも選んでもらいたかった。
でも、清香はまだ信じられません
何日も会っていないだけで、いつか 帰ってきてくれるような気がするよ
だから、仏さんを拝んでも、おきょうを聞いても 涙はでてこない
清香はお姉ちゃんが 好きなのに、なんで泣かないのだろうと思ったりした
でも、夜寝る時とか、 悲しいことがあったら、お姉ちゃんに すごく会いたくなって
思い出して泣いて しまいます
だから、いつまでも清香のこと見守って 助けてください
かわいい妹 さやかより
1996年5月12日
「安心してね、チ-ちゃん」 亀田 美紀子
「チーちゃん」お誕生 日おめでとう。5月12日はあなたの21回目のお誕生日ですね。あなたが生まれた日の幸せな気持を思い出しています。あなたがいなくなってから今年で4回 目の誕生日を迎えました。花を手向けることしか出来なくなった今でも、生前と同じように、両親は花とケーキを用意し、妹のさやちゃんからも、あなた宛に自 分の小遣いから用意したのでしょう、かわいいアレンジメントが届けられていました。いつもと変わらぬ、あなたを祝う思いが伝わって胸が痛くなります。
朝、いってらっしゃいと送り出した娘が夕方には冷たくなって帰宅することなど、誰が想像したでしょう。平成7年10月25日「当時高校2年生で、学校からの帰宅途中、前方不注視の車にひかれ、貴方は二度と元気な姿では帰って来ませんでした。
あの日の悲しみを生涯忘れることは出来ません。冷たく冷たくなったあの白い唇にお母さんが紅をさす。その姿が頭から離れないのです。
「お母さん 二度と呼ばない唇に 母は紅さす ふるえる指で」
あの日から4年、今もあの日を想い出すと、涙がポロポロこぼれてきます。いろいろな行事がある度毎に、辛く悲しい時間を過ごしてきました。あなたの成人式の晴れ着、さやちゃんが代わりとなって着てみせてくれました。一瞬あなたが帰って来たような気がするほどに似てくるんですよね、姉妹は・・・。
「妹に 重ね合わせし晴れ姿 今日は千尋の 成人の時」
辛い想いを引きずりながらも、懸命に生活しているあなたの家族の姿を伝えることが、そして悲劇を繰り返さないでと訴えることが、叔母の私があなたにしてあげられるたった一つのことのような気がします。あなたが亡くなった場所に、今年も沢山の花が咲くでしょう。お父さんが、あなたの寂しくないようにと、その場所に花を植えているのです。
「愛し子の 終の場所にと花植える 父の想いの コスモスゆれて」
クルマ社会となった昨今、全ての人々が交通安全を心がけ、辛く悲しい想いをする人が一人でも減ってくれますことを祈ってやみません。どうか、どうか、悲劇を繰り返さないよう、突然、死に追いやられた人間の無念さ、その家族、周囲の人々の悲しみをハンドルを握る時、どうぞ心の片隅に思い起こして下さい。
チーちゃん。あなたの存在が大きすぎて、あなたの空白を埋めてやることなどできない自分たちであるけれど、あなたの家族を微力ながら支え続けて行こうと思います。安心してね、チーちゃん。
(1999年6月道警交通部編集「癒されぬ輪禍」掲載)
「チーちゃんへの約束」 亀田純平 (中学2年)
昨年、僕のいとこが交通事故で亡くなり、今年10月25日に一周忌を迎えます。この1年、何をしていても大好きだったいとこのチーちゃんを思い出します。5歳年上のチーちゃんは小さいころから僕を弟のようにかわいがってくれ、色々と面倒を見てくれました。僕にとっては実の姉のような存在でした。
そんなチーちゃんが亡くなったのは、大雨の降る10月25日の夕方、5時50分ごろでした。チーちゃんは学校からの下校途 中、自宅から5分とかからない道路で、ワゴン車にはねられ即死状態で亡くなりました。 その道路には歩道がなく、車道のわきは舗装もされておらず、雨が降れば大きな水たまりとどろでぬかるんでしまうような場所でした。左側にしか歩行者の通る 所がなく、またそこには街路灯もほとんどありませんでした。悪条件が重なっていたとはいえ、事故の原因はいとこの後方から来たワゴン車のドライバーが、ラ ジオの操作をしていて前を見ていなかったことでした。とても悲しい事故でした「そのドライバーさえ前を見て運転していれば・・・」、だれもが思いました。 修学旅行を二週間後に控え、一番楽しい時期を一瞬にして奪い去られてしまったのです。事故後、車道脇にはアスファルトの歩行者用道路が整備され、防護柵も 取り付けられました。チーちゃんの尊い命の犠牲があってこそ歩道ができたのです。
その日以来僕は、絶対に交通ルールを守ろうと心に決めました。学校への登下校時、友達と歩いていても僕はもちろんのこと、 友達にも信号無視をしないように言いました。それは、僕や周りの人々、その他たくさんの人々が交通安全を心掛け、事故にあわないこと、事故を起こさないこ とこそが、大好きなチーちゃんへの供養になると考えたからです。そしてもっとたくさんの人々に事故のことを知ってもらい、交通事故に充分注意するととも に、一人一人の命がたくさんの人に支えてもらっている命だということを、忘れないでいてほしいのです。
一周忌を間近に控え、僕がチーちゃんにしてあげられる、たった一つの事のような気がしてこの作文を書きました。書いている うちに何度も辛くなって涙がこぼれ、文章がとぎれてしまいます。チーちゃんを思い出すことがとても悲しいのです。こんな辛い思いをする人が一人でも少なく なってほしい一心で書きました。チーちゃんの家族はもちろん、僕達身内のもの達の心の叫びをどうぞ受け止めて下さい。チーちゃんのような事故を二度と起こ さないことがチーちゃんが尊い命をかけて教えてくれたことなのですから。
大好きなチーちゃん、どうぞ安からかにお眠り下さい。これから先も交通安全を心掛けます。チーちゃんに約束するよ。
平成8年度札幌市PTA安全互助会編 「第7回 交通安全作文コンクール作品集」(1996年12月)より
生命のメッセージ展と千尋
酒酔い、無免許で車を暴走させるという悪質運転者によって19歳の息子さんを奪われた鈴木共子さんが仲間と実行委員会を作って始めたメッセージ展です。私の娘(千尋)も「132命」となったの人型オブジェに加わり全国を回り「犯罪のない社会を」と訴えています
※中央が千尋 2007/7/21~22
(東京丸の内マイプラザ)
★2008年6月6日~6月8日
札幌で2回目のメッセージ展は無事終了しました
札幌エルプラザ、男女共同参画センター3階:「生命のメッセージ展」のロゴ入りハート型風船が目を惹きます。
閉会後、「いのちが大切にされる社会を」という願いを込め、天空に羽ばたかせました。
生命のメッセージ展in札幌
「生命のメッセージ展」のホームページへ
映画「0(ゼロ)からの風」のこと
奪われた、かけがえのない生命の尊さを伝えてゆきたい。
生命のメッセージ展の代表鈴木共子さんをモデルにした映画が作られました。
この映画は寄付・協賛のみで制作され、映画の純益は全て「生命のメッセージ展」 の運営・活動に寄付されます。
(以下は私の応援メール)
娘(前田千尋)が生命のメッセージ展に参加できたことで、遺された親である私も、共に生きているという一体感を持って日々「命の尊厳を」と社会に訴えることが出来ています。この映画を通してより多くの人たちが人間と未来への希望を語り合って欲しいと願っています。メッセンジャーの仲間たちと制作スタッフの皆さんにお礼と感謝を込めて。
(2006/12)
オブジェのメッセージ

(左)2001/7/7初参加の浜松市でのメッセージ展(正面左が千尋)
(右) 等身大オブジェに貼られた写真
前田千尋(maeda chihiro)
1978年5月12日生まれ
1995年10月25日17時50分、長女千尋は学校帰りの歩行中、後ろから来た前方不注視のワゴン車に5メートルあまりはねとばされ、頚椎骨折、頭蓋内出血により即死させられました。17歳5か月、3週間後の修学旅行を心待ちにしていた高校2年生でした。
加害者(35歳女性)は手数料のかからない6時までに銀行に着きたいと、ことさら急ぎ、時刻を知るためのカーラジオ操作で前方不注視のままクルマを暴走。赤い傘をさした長女を、ブレーキも踏まずにはねました。
通勤通学者が多い道路であることを熟知しながら、前を見ないで運転するという「未必の故意」に対し、札幌地裁は執行猶予付きの禁錮1年というあまりに軽い判決。公道上で、何のいわれもない人に、何の落ち度もないのに命を奪われる、まさに「通り魔殺人」的被害であるのに、裁判官は「数秒間のほんのちょっとした不注意であり、酒酔いとか、スピード違反とかでなく、往々にありそうな事である」と、娘の命の尊厳を踏みにじる発言。
千尋は、交通犯罪に寛容で、クルマの便宜のみを優先する、人命軽視、人権無視の「クルマ優先社会」の犠牲になりました。
《千尋へ》
あなたのことを思わない時はありません。
家族4人が揃っていた、きらめくような幸せの日々を悔しさと怒りとともに思い浮かべます。
かけがえのない「宝」を理不尽に奪われた「遺された親」は世をはかなみ、あなたの無念を思っては胸が張り裂けそうになりながら天国のあなたを悲しませたくないという一心で、精一杯生きています。
いつもあなたの遺影から「私は、なぜこんな目に遭わなくてはならなかったの?」
「私がその全てを失ったこの犠牲は、今の社会で報われているの?」という声が聞こえます。
全国を回って生命の大切さを訴え続けるあなたたちメッセンジャーに励まされながら、私たちも、犠牲を無にしないため、「クルマ優先社会」を告発し、交通犯罪を生まない社会づくりにとりくんでいます。
天国で報告し合える日まで待っていて下さい。
追伸
あなたが名付け親で、可愛がっていた「サム」は少し年をとりましたが、今も元気にわが家の癒し犬です。安心して下さい 。
2005年3月、父母より
(日本エディターズ 「生命のメッセージ展」実行委員会編、所収)
魂となったかけがえのない生命たちが今、あなたに語りかける
見果てぬ夢と生命への慈しみを
人が暴力的に生命を奪われることなく、せいいっぱい生きることができる社会を夢見ています。
戦争はない、殺戮はない、犯罪はない、被害者は生まれない世界。人は自然の摂理で生まれ、老い、自然に死んでいく。こんな当たり前のことを『夢』と語るのが悲しくもあります。
しかし現実には、多くの生命が犯罪や社会の不条理のもとに生命を断ち切られています。ひとつとして忘れることのできる命は在りません。私たちは、彼らの生きた証をたどり、大いに泣き、笑い、語りませんか。過去にしがみつくのとは違います。亡くなった生命が教えてくれることを探すのです。思い出をたどれば、心の傷に触れるでしょう。しかし、私たちは、逃げることなく現実と対峙しようと決心しました。
メインの展示は、ひとりひとりの等身大の人型と彼らの遺品の『靴』。靴は彼らの足跡=生きた証の象徴です。人型にはひとりひとりの素顔やメッセージを添えます。多くの人々が現実を知り、生命の重さを考えてもらうために、日本全国~世界各地へと拡げていきたいと願っています。
「生命のメッセージ展」は、暴力的に生命を断ち切られた彼らへのレクイエムであり、私たちの反省であり、夢への道しるべです。彼らはひと足先にもうひとつの『夢の世界』の門をくぐり穏やかに遊んでいることでしょう。私たちは「生命のメッセージ展」の空間に、そんなイメージを込めています。
「生命のメッセージ展」実行委員会
会場風景

(左)2006/10/6~8 宮崎市民プラザの千尋と仲間たち
(右)2006/8/18~20 栃木県宇都宮会場の千尋

2004/6/11~13 青森会場の千尋のオブジェとキュービックパネル
札幌会場(2008/6/6~8)で寄せられた「天国の手紙」より
前田千尋さんへ
初めてお便り差し上げます。
千尋さんの事故の事や、その後、千尋さんのお父様が苦しい思いを抱えながらも交通事故“ゼロ”を目指して一生懸命活動されている事を新聞で知り、切り抜き、何度も読んでおります。
私の妹もちひろといいます。(漢字は千裕と書きます)私も運転をする機会があります。ただただ安全運転に努めるだけです。
今、私は病気で仕事を退職しました。その事で気落ちしていたのですが千尋さんのお写真を初めてカラーで拝見させて頂き大切に大切に育った千尋さんなんだという事がより伝わりました。千尋さんの分も生きていきメッセージを伝えていかなくてはならないのだと思いました。
妹の千裕の名を呼ぶとき私の心には千尋さんのことも、千尋さんのお父さまの事も浮かびます。
交通事故がゼロになるように、私も何かできる事があればご協力したく思います。生命のメッセージ展、ありがとうございました。
2008.6.8. T.S.
in札幌、集合写真(右)
T.S.さん、心のこもったお手紙、ありがとうございます。
何度も何度も読み、その度に感謝し、そして勇気づけられています。何より、千尋が喜んでいると思います。北海道のメッセンジャー「11命」の家族と力を合わせて、2回目の「生命のメッセージ展in札幌」を開催しましたが、このメッセージ展を通して、大変多くの出会いと再会がありました。開催して本当に良かったと思っています(敏)。
2008/06/05, 北海道新聞夕刊コラム<まど>より
「生命」
「もうだいぶ落ち着きましたか」。
交通事故被害者の遺族らでつくる「北海道交通事故被害者の会」の前田敏章代表(58)=札幌市西区=は、こう尋ねられると、今でも胸が締め付けられる。
長女千尋さんが前方不注意のワゴン車にはねられ、十七歳で亡くなったのは十三年前。周囲が気遣ってくれているのは分かるし、確かに時間は流れた。それでも、「娘を失った悲しみは癒えることはないんです」。
車は便利な機械だが、運転手の一瞬の不注意で人の命を奪う凶器になる。
「遺族にとって交通事故は通り魔殺人と同じ。交通犯罪と言いたい」
定時制高校教諭の仕事の合間を縫って、高校生や交通違反者に遺族の思いを訴え続ける。
六年前から加害者の厳罰化などを国や道に求めているのは「運転手の不注意を許さない、『交通死ゼロ』の社会にしなければならない」と考えるからだ。
六日からは実行委員長として、札幌市内で事故や犯罪犠牲者の悲しみを伝える「生命(いのち)のメッセージ展」を開く。
千尋さんの靴や写真も展示し、事故撲滅への理解を深めてもらう。
「千尋の死を無駄にはしないよ」。今朝も、笑顔の遺影に誓った。
(五十嵐俊介)
座間の下宿屋からメッセンジャーの仲間たちが贈るバースデーカードより
前田千尋さんへ
2007年5月12日千尋さん29歳おめでとう
陽だまりの綿毛のようなほんわかした千尋さんが29歳だって、メッセンジャーの仲間たちはシンジラレナーイって言い合っています。だって笑顔がとっても可愛くていつまでも少女って感じなんだもの。でも本当はしっかりお姉さん ワカッテル!メッセンジャーの皆は千尋さんの周りになんとなく集まってしまいます。千尋さんはそんな雰囲気の持ち主なんです
バースデーカードを贈っていただいた群馬の山田大助くんのお母様へ
お誕生日カードが届きました。本当に嬉しかったです。
生前の優しかった娘のことを知っているかのような、娘にぴったりの言葉がたくさん綴られていました。山田大助君のお母さんに心からお礼を述べます。改めて、千尋は125命の家族のような仲間とともに、「千の風になって」あらゆる場所に、そして多くの人の心の中に吹きわたっているのだと思いました。皆さんのおかげです。
長女が迎えられなかった5月12日の誕生日の日は、北海道交通事故被害者の会の総会・交流会の日でした。生きていれば29歳、今年もケーキに無念のローソクをたて、家族で無言の決意を固め合い、私は準備もあり早々に会場へと向かいました。総会・交流会には36名が、そして夜の懇親会には23名が全道から集まりました。7年半の、これまでの会の歩みを、確かな前進面ととともに振り返り、現状の課題を見つめ、経験と知恵、そして元気と勇気を互いに分かち合った半日でした。
誕生日の日の報告をさせていただきました。
悪夢のような事件から12年目を迎えますが、これからも、心の中の娘とともに、いのちが大切にされる社会の実現に向け「たたかっていきたい」と思います。
2007年5月14日(敏)
メッセージ展会場で寄せられた「天国の手紙」より
前田千尋さんへ
17歳5か月。青春の日々のなか突然命を断ち切られたあなたも周りの人たちも信じられない思いでいっぱいだったと思います。
「交通事故は犯罪」
そのことに気が付かない人たちがどれだけいることか。でも、会場に来た人たちは、必ずそのことを知る。あなたの死から。
オブジェからあなたのいのちを感じます。あなたの死を決して無駄にしないようにと。
野谷 容子
野谷様。
メッセージを本当にありがとうございます。
大知君と千尋はきっと天国で出会って私たちを見守ってくれていると思います。これからもよろしくお願いします(敏)
三重会場(05/3/26~27)で寄せられた「天国の手紙」より
前田千尋さんへ
千尋さんは、僕と同じ17才の若さでなくなってしまった。なにも悪いことをしていな千尋さんが。どうして交通事故にあわなければならないのか。どうして17才という若者が事故にあわなければならないのか。
僕は車が好きなので将来車に乗る時に人を死なせてしまうと、どれだけ多くの人が悲しむか考えなければならない。
桑名工業高校2年 伊藤達也
前田さんへ
命のメッセージ展でおあいできてうれしいです。また、どこかでおあいできることを楽しみにしています。
みんなのちからですてきなメッセージ展。みなさんの心がすてきです。ありがとうございました。
津市 喜多田 有紀子・大
伊藤様、喜多田様
心のこもったメッセージありがとうございます。メッセージは娘の仏前に供えました。全国を旅する千尋への何よりの励ましです(敏)
青森会場(04/6/11~13)で寄せられた「天国の手紙」より
ようこそ青森へ
こんな形で青森へ来ていただく事になろうとは残念でなりません。ちひろちゃんと会ったのはひまわり畑の写真の頃が最後ですね。弘前へ家族で来てくれたのはもう少し前でしょうか。岩木山、記憶にありますか?
美しくやさしい娘になった千尋ちゃんが青森に来てくれた事、忘れません。
弘前市 神田富恵
神田さんご夫妻の青森会場での心からのご支援に深く感謝しています。札幌会場以来2年ぶりに夫婦で参加しましたが千尋が小学校3年のとき、家族で弘前へ花見に行き、泊めてもらうなどお世話になったことを思い出し胸が一杯になりました。これからもよろしくお願いします(敏)
熊本会場(03/8/1~3)で寄せられた「天国の手紙」より
天国の千尋さんへ
人は二度死ぬと言われています。理不尽に奪われてしまった千尋さんの命、お父さんお母さんや友人のみなさんはきっと忘れないと思います。千尋さんの命、もう一度奪われることがないように、会ったこともない私ですが、千尋さんのことを胸にとどめておこうと思います。
熊本市 松崎広太郎(16歳)
松崎さん、遠く熊本会場からのメッセージありがとうございます。犠牲を無にしないという若い人の言葉ほど力づけられることはありません。これからもよろしくお願いします(敏)
03/5/12 長崎会場への誕生日カード
天国の千尋へ
お誕生日おめでとう。いつも心の中の千尋と一緒に理不尽な「クルマ優先社会」を問う活動をすすめています。千尋も、全国で「命の重み」を訴え続けてください。
03/5/10 あなたの無念を思っては涙している父と母。
高知会場(03/3/11~16)で寄せられた「天国の手紙」より
天国の千尋さんへ
千尋Chan
メールでお世話になったりしています。HPとかでも。野口ゆうかです。
私の弟、温史がメッセ参加となりました。どうかよろしくお願いします。
03/3/ 徳島市 野口有香
野口さん、メッセージありがとうございます。千尋は温史さんとも天国で出会っていると思います。有香さんの、兄弟の会の活動など若い人のとりくみに励まされています。これからもよろしくお願いします(敏)
札幌会場(02/5/17~19)で寄せられた「天国の手紙」より
チーちゃん 5月12日 お誕生日おめでとう
24歳になったんだよね
どんなにかステキな女性になっていただろうかと想像するのが少し悲しいです。チーちゃん 天国から今日の日を見ていますか?これからもメッセージ展を通してチーちゃんも生き続けていって下さい。
02/5/19 札幌市 亀田美紀子(叔母)
月命日には欠かさず花をもってお参りに来ていただくなど生前と変わらぬ厚意に深く感謝しています。これからも見守ってくださいね(敏)
初めて千尋さんのお靴を拝見しました
細めのきれいな靴
千尋さんを知る手がかりが、また一つ増えて何だかうれしかったです。千尋さんのお父さま大活躍でした。北海道に来られて本当に良かったです。皆さんの心配りがありがたくて、気持ちよく過ごせた3日間でした。またそれぞれの生活に戻り、大変なことが多くあるかと思いますが。千尋さんをはじめとした天国のファミリーが私たちを見守ってくれていることと思います。
また千尋さんに川崎で、静岡で宇都宮でそして地元千葉でお会いできるのを楽しみにしています。どうもありがとうございました。
02/5/19 千葉市 井上郁美
井上様、暖かいメッセージありがとうございます。札幌でのご夫妻のご講演をしっかり活かして交通犯罪のない北海道をつくるために奮闘します(敏)
札幌開催の様子を伝える「被害者の会」会報9号

札幌から千尋の靴が加わりました
札幌会場 2002/5/17~19
山口県防府会場で寄せられた、「天国への手紙」より
千尋さん、この犬の名前は何というのですか?
この世では23歳と数えられるのかな。この世でできなかったこと、天国で全部楽しんでください。私の一人娘知子(21歳大学生)も、飲酒運転の犠牲となりました。
どうして どうして・・・
千尋さんとは同い年かな。もうそちらで会って話しているかしら。良い友達になってやってください。
2002年2月 島根県 大谷浩子
大谷さん、本当にありがとうございます。知子さんと天国で出会い、仲良くしていると思います。抱いている犬は「サム」、名づけ親も千尋です。(敏)
[toc]
刑事裁判の記録
検察庁への意見書
札幌地方検察庁御中
被告人の処罰についての希望 ―特に被害者の気持ちについての意見―
前田 敏章/真紀子
私たちは1995年10月25日、千歳市北信濃770番地で交通事故死した前田千尋の父母です。事故に関する供述は11月7日千歳警察署において、そして12月4日札幌地方検察庁において、それぞれ行いましたが、事故を起こしたAさんの処罰等についてその後さらに考えるところがあり、また、前記供述の際の言い足りない思いも含めて、少し整理ができましたので申し述べる次第です。
【Ⅰ】加害者の処罰について
加害者Aさんの処罰については、法律に従い実刑を望みます。先の供述で「法律に従い公正な」処罰を、という主旨を申しましたが、このとき私たちは、過失が重大な業務上過失致死は実刑が必定と勝手に思い込んでおりましたので、そのような表現をしたのでした。執行猶予になるということは私たちの本意ではありませんので申し添えます。
実刑を望む理由は、一言でいうなら長女の死を無駄にしたくないからです。娘は歩行者、子ども、老人などいわゆる「交通弱者」の安全が軽視されている「クルマ優先社会」の犠牲になったと考えています。車道を作ってクルマには便宜をはかるが、歩道の整備は二の次にするという行政にも問題がありますが、ここでは運転者の安全意識、とりわけ歩行者等の安全を守る意識の欠如について絞って述べます。
私たちも運転をしますから自分の反省を含めて思うのです。一般のマイカー運転者の中で、いったいどれだけの人がプロ的意識をもって歩行者等の安全確保を最優先にした運転を励行しているでしょうか。例えば電車の運転手は、当然にも安全重視の運転を専門的に訓練され、勤務時間等も安全にとって無理なく配慮されて運転に従事しているはずです。しかし、レールがなく一般の通行者と隔離されていない生活道路を走る自家用車の運転者はどうでしょうか。レールがなく自由度が大きい分危険度も大きいはずですが、それに見合う安全意識は極めて低いのではないでしょうか。クルマは歩行者に対し莫大な運動エネルギーの塊として迫ってきます。人の体重の数十倍もの鉄の塊ですから、たとえ低速度であったとしても容易にその命を奪い、若しくは頭部などに重大な損傷を与えるのです。
このような恐ろしいクルマを操作する運転者は、安全に関してプロ意識をもっているでしょうか。子どもが急に飛び出したり、お年寄りがふらふらと車道に出て来ることを常に想定してハンドルを握っているでしょうか。子どもやお年寄りがそうした行動をするのはごく当たり前のはずなのに、多くの運転者は道路がクルマのためだけにあるような錯覚をいつしか持っているのではないでしょうか。そしてこの倒錯は良く整備され普及した各種自動車保険によっても助長されてはいないでしょうか。
娘の加害者であるAさんの場合が正にそうです。現場は加害者の自宅から200メートルもない通い慣れた道です。最寄りのJR長都駅利用の通勤通学者が多いことは熟知しており、通行者の多い時間帯で日没が早い晩秋、暗い上に雨と強風です。加えて歩道が設置されていないという悪条件が重なれば、尚のこと神経を集中して安全運転を心がけるのが常識です。
しかし急ぐあまりの「前方不注視」。ここには歩行者保護の意識は豪もありません。人格的に特別な問題も見当たらない加害者でありながら、ごく基本的な安全運転が実行できていないところに、現在の交通事故、とりわけ歩行者事故の根の深さがあるように思うのです。
そしてまた、この加害者の場合果たして単なる「過失」に留まるのでしょうか。このような悪条件の中、一瞬でも注意を怠れば、ましてや前方から目を離せば、取り返しのつかない重大惨事になることは十分予想できたはずです。加害者の行為は「過失」ではなく、危険を予知しながらもあえてその危険を冒して行為した「未必の故意」に他ならず、正に「重大過失」です。
問題は、こうした重大過失(未必の故意)をいかにゼロに近づけるかということです。娘の事故後も同様な歩行者事故が毎日のように報じられていますが、その度に胸がおしつぶされる思いです。最愛の娘を失ってなお、この種の「過失」が懲りなく生じているのです。このままでは娘の尊い犠牲は報われません。心ない人たちが言うように、娘は「運が悪かった」「運命だった」「早く(潔く)忘れなさい(諦めなさい)」ということになってしまいます。加害者に対しても同じように「運が悪かった」で済まされてしまいます。
もし加害者が実刑ではなく執行猶予がついた場合、こうした風潮はより加速されることにならないでしょうか。損害補償など各種保険が「整備」されている今日です。「初犯だから」「故意ではないから」「加害者にも家族があり事情も理解できるから」「十分反省しており遺族に対する誠意も尽くしているから」等々の理由で刑罰が軽く扱われるとすれば、歩行者等の命がクルマの利便さと引き換えに不当に軽視される「クルマ社会」の問題は改善に向かいません。実刑を免れ、保険で経済的な痛手も負わず、それまでと変わらぬ生活を続けられる加害者。これでは、かけがえのない命を結果として奪った加害者の犯罪性が社会的に制裁されることにはなりません。以後同種の事故を無くすることにもならないと思います。
日々伝えられる交通事故のニュースで、私たちの感覚は麻痺し、交通事故をごく日常的な事象と受け取ってはいないでしょうか。毎年1万人前後が犠牲になるという確率の問題としてとらえ、根本的に事故を減らす方策が置き去りにされていないでしょうか。私たちも、そのような感覚麻痺に陥っていたことを否定できないからこそ言いたいのです。取り返しのつかない過ちを犯した加害者には、やはり生涯をかけて償って欲しいと思います。ハンドルを握るすべての人に、このような重大過失にはそれ相当の処罰があることを事実の重みをもって示していただきたいのです。
実刑を望むのは、単に感情的発露からのものではありません。
娘の不慮の死を知らされ、悪夢のような信じがたい事実に向き合わされた時、私たちは娘の成仏ばかりを願いました。さらに、私たちには当初事故の詳細が何ら知らされず、後ろからきたワゴン車にはねられ即死としか把握できなかったため、暗くて雨が降り制服も紺なので、運転者が注意して走っていたにもかかわらず発見が遅れた、避けがたい事故だったのではないかと勝手に思い込みました。そのため事故の当日、加害者のご主人が謝罪にきたとき、私たちは「着ているものも黒っぽくて見づらかったのでしょう。私たちも運転をしますから」という思いやりの言葉をかけているのです。さらに加害者が直接訪ねて来た10月28日に事故の様子を聞いたところ、加害者の母親が本人に代わって「150メートルほど手前では歩行者の姿は見えなかった。何かがぶつかって、不審に思ってUターンした。通りがかりの車に救急車の連絡を頼み、自分は看護婦でもあるので生き返って欲しいと念じて人工呼吸を試みた」と説明しました。それを聞いた私たちは、やはり「前方不注視」など重大過失があったことも知らないものですから、その事後措置に感謝し「看護婦の仕事をやめることなく頑張って欲しい」旨を述べました。
当時は、交通事故への怒りは強くありましたが、運転者への怒りはさほど無かったのです。これに対して加害者の父親が感謝していたことを鮮明に覚えています。また、当時私(敏章)が加害者へ寛大な気持ちをもっていたことは、私の勤務校である千歳高校定時制の受け持ち4クラスで、娘の事故について話した中でも触れていることです。
加害者への寛大な気持ちが変わったのは、12月4日にも供述しましたが、11月6日に事故の詳細を知ってからです。担当の巡査から「運転者が普通に前を見て運転していれば、こんなことにはならなかった」という説明を受け、娘の無念さを思い、娘がたまらなく可哀想になりました。そして改めて加害者への怒りがこみあげてきたのです。さらに、加害者は私が指摘するまで、車のカセット操作のため前を見ていなかったという重大過失について述べようとはしませんでした。11月17日に刑軽減の嘆願に同意を求めてきた加害者の職場の同僚に対して、私が嘆願を断った旨を聞いて初めて釈明にくる(11月20日)有様です。本当に心から謝罪するのであれば、先ず事実を隠さず話すことが当然と考えるのですが、加害者は母親が代わって説明した10月28日の話だけで、前を見ていなかったということは11月20日まで触れずじまいだったのです。
このことからも、私たちの加害者に対する気持ちは大きく変わりました。すなわち、加害者は運転していたときがそうであったように、行動はあくまで自分本位です。運転しているときは、手数料のかからない6時までに銀行へ行かなくてはならないから、危険を冒して変則ギアを最大回転比の5速に入れ、前を確かめず疾駆させました。事故後は被害遺族の気持ちなど顧みず、自分と家族の都合で実刑を免れるために嘆願署名など八方手を尽くすのです。
私たちはそんな加害者の非常識がわかりませんから、つい最近まで娘の仏前へのお参りを拒否したことも、感情的になって罵倒したということもありません。娘の成仏を考え、加害者の気持ちも配慮しお参りしていただきました。しかし、49日も過ぎ、徐々に加害者の反省の度合いや処罰のことが気になりはじめましたので、12月26日、加害者にそのあたりのことを聞いてみました。すると、嘆願書を進めていることについて「もし、実刑を受けると看護婦の仕事が続けられなくなると言われました。そうなると家のローンを払うのに困るので・・・」という答え。そして、私が「娘には何ら過失がなく、あなたの重大過失によって引き起こされた事故である。私たち遺族の気持ちは正当な処罰を受けて欲しいことだが、私どもの気持ちを逆なでする嘆願書はいったいどういうつもりで行うのか」と問うたところ、返ってきた言葉は「交通安全を進めるためと言われました。署名をすることによって交通事故に注意してもらうことができるので」。
あまりに身勝手な言い分です。加害者は刑を軽くしてもらうための「誠意」の証しとしてお参りに来ていたのでしょう。事故現場は先述したように加害者の家からすぐ近くですが、そしてそこには私たち家族と娘の友人たちがお花を供え、家族は日に2回犬の散歩の折に手を合わせているのですが、加害者がそこへ足を運んだ形跡がないことも、ようやく理解できるのです。そして「(周りの人が)こう言いました」などと主体性のない言動です。加害者も2児の母親であれば、子を失った親の気持ちを少しはわかっても良いはずです。償い方について自分なりの考えで行動することもできるはずです。
この加害者の例からも、娘の死を今後に生かし、歩行者の安全確保を貫くためには、交通事故加害者の量刑を重くして、命を奪うことの重大性を広くわかってもらうこと、そして免許取得の資格や、免許取得、更新の際に行われる安全教育の質を厳しく高めることこそ必要ではないかと痛切に考えるのです。
【Ⅱ】遺族の心情
最愛の娘を失った遺族の心情を重ねて述べます。
遺族の思いはもちろん当事者でなければわかるものではありません。私たちの娘は17歳と5か月でその全てを、そして未来を一方的に奪われました。子どもを先に亡くす事自体が稀有です。被害に遭わない人たちにとって、にわかに自分をその立場に置き換え、気持ちを測り知る事は困難でしょう。突然被害者という「当事者」になった私たちには、そのことが十分理解できるのです。そして、だからこそ、私たちは繰り返し、声を大にして述べなくてはと思うのです。
娘が亡くなってから、本当に辛く寂しい毎日です。日が経つにつれ悲しみはより深く重くなっていきます。娘が病魔に侵されたとか、自らの過失でというのであれば、これが娘に与えられた天命だったと何時か気持ちの整理のつく日が来るのかもしれません。しかし、私の娘は病とたたかったわけでもなく、避けがたい自然災害に巻き込まれたのでもなく、何か生命にかかわる過ちをおかした訳でもありません。自分の意志に反して、人為的な強制力をもってかけがえのない命を奪われました。仏前で手を合わせるたびに思うのは「無念だろう、悔しいだろう」という思いばかりです。いつまで経っても「安らかに眠って欲しい」という気持ちにはなれないのです。
事故の日、10月25日は朝から雨模様だったので、私は娘を長都駅まで車で送りました。「行ってきます」と明るい笑顔で別れた娘が、放課後も親しい友人数人と事故の直前まで楽しげに談笑していた娘が、友だちと別れ、電車を降りて十数分後変わり果てた姿になったのです。修学旅行を3週間後に控え、本当に楽しそうな青春真っ只中の娘でした。その日は友だちとの買い物の誘いを断り、「今日は早く帰って久し振りに母と妹と(私は定時制高校勤務のため夕食時不在)夕食を共にするの」と帰路を急いだ優しい娘でした。アルバイト先のラーメン屋のご主人と奥さんから「よく気がつく、優しい本当に良い娘だった」と自分の娘のように可愛がられた子でした。ボーイフレンドもいましたが、同性の友人も多く、みんなから「ちーちゃん」と呼ばれていました。事故後何度も大勢でお参りに来てくれ「千尋ちゃんの嫌いなところは一つもなかった」と懐かしんでくれていますが、本当に友だち思いの娘でした。「卒業したら同級生のいとこと一緒に、札幌のおばあちゃんの部屋を借りて、札幌で働くの」と生き生き語っていた娘でした。年頃になり髪や服装にこだわっていましたが、センス良く着こなすスタイリストの娘でした。思春期の親に対する反発も峠を越え、これから本当に良い母娘、父娘の関係ができると楽しみにしていましたが、もう二度とあの颯爽とした姿をみることも、優しい声を聞くこともできないのです。
事故があってから数日は正にぼう然自失。これは悪い夢に違いない、早く覚めて欲しいと思いました。浅い眠りから覚めるたびに娘のいない現実に涙しました。それ以降一時も娘のことを忘れることはありません。朝起きるたびに娘のいないことが悔しく、仏前でお参りするたびに娘の無念さを思います。食卓を囲む度に椅子や食器が3人分しかないことに悲しくなるのです。娘がボーイフレンドから貰い受け朝早く散歩させるなど可愛がっていた犬を、娘に変わって散歩させるのですが、その散歩コースに娘が轢かれた現場があります。花を飾りそこで手を合わせますが、やはり無念さがまずこみ上げます。中学2年の妹が寂しげながら健気に学習に精を出し、台所の手伝いをする姿を見て、姉がいればこれからの人生ずっと仲良くお互いに支えあうことができるのにと口惜しさで一杯になります。車の運転をするたびに、車の前部に激しく打ちつけられた娘の姿が想像され、どんなに痛かっただろうか、どんなに苦しかっただろうかと不憫に思います。雨の日の運転は特に、「どうして」「何故」と事故のことを思い起こします。娘と同じくらいの背格好で歩いている女性を見たり、制服姿の女生徒を見かけるたびに、もしや千尋ではと、思わず見つめてしまうのです。
家族の誕生日が来ようが、クリスマスが来ようが、正月を迎えようが、楽しい気分には一向なれません。昨年の正月、祖父母の家でいとこや親たちと夢中になって百人一首をしたことを思い出します。家族4人で富良野へ2泊3日のスキーに行き、娘の友だちが一緒で、朝から晩まではしゃいでいたこともよみがえってきます。巡ってくる月日や行事のたびに長女がいた時の楽しい一こま一こまが思い出され辛くなります。家族旅行や夏休みに恒例になっていた家族キャンプ、揃っての外食など、もはやこれまでのように出かけることはできません。楽しいことを企画することさえできないのです。全ての楽しみや喜びは数千分の一になり、悲しみは、分かち合う家族が欠けた分、幾万倍にも大きくなっています。
私たち家族は4人が揃ってはじめて家族なのです。長女が奪われてもうこれまでの家族には成り得ません。長女の千尋が生まれてこのかた、どんな思いで育てたか、また私たち親と妹が千尋からその可愛いらしさや優しさなどからどんなに心を和まされ、幸せを感じ、生きがいとなってきたか。その一端を知っていただきたく、わが家で発行した家族新聞を12月24日に提出しました。家族新聞のほかにも楽しかった家族の記録は、八ミリ映画やビデオ、写真などたくさんあります。娘が事故に遭う3日前にも娘の小さい頃撮影した成長記録の八ミリ映画を家族4人で観ていました。2人の娘は自分の幼い頃の可愛らしい姿やしぐさを見ながら、両親の愛情や家族というものを改めて実感してくれたものと思っています。世の親、家族の全てがそうであると思いますが、この世で一番大切なものは我が子であり、家族です。かけがえのない子どもの命、家族の絆、これを失った悲嘆を推し量っていただきたいと切に思います。
私たち家族の気持ちが安らぐのは、千尋の死が無駄でなかった、千尋は今も立派に生きていると実感されることなのです。千尋の死後、現場に歩道が作られました。事故が起こる前に作られていたらと悔やまれますが、その歩道を通るたびに千尋が生きていると、ほんの一瞬実感できるのです。この北海道いや日本中に歩行者保護のための道路整備がされて、危険箇所がなくなることを願うのです。運転をする者が、歩行者など交通弱者の立場になり、その保護を第一にハンドルを握るように、免許付与時の教育やその後の更新時教育など恒常的で抜本的な安全教育の確立を願うのです。これらなくして娘は浮かばれません。娘の尊い犠牲が無駄になります。
【Ⅲ】付言
千歳警察署での11月7日の供述の中に、「もし娘が右側を歩いていたら、事故に遭わなかったかもしれません」という主旨の部分があったと思いますが、誤解を招くと困りますので一言付け加えます。
この供述は私の意思ではなく、担当の巡査が「そうではないですか」と私を促し、私が同意しかねる旨を述べたにもかかわらず、「もし、ということで一般論だから」と、調書に加えることを繰り返したために入れられたものです。その時私は、事故の原因が運転者の「前方不注視」という重大過失であることを初めて知らされたショックから大変動揺しており、冷静な判断ができる精神状態ではありませんでした。しかし、その後現場を通るたびに、この供述に対して後悔の念が大きくなりました。
あの状況で、もし娘が右側を歩いていたらという想定をすることは全く無理なことです。私も札幌への用足しに良く歩きましたが、現場は左側が広く、少ない街灯も左側にしかなく、加えて排水用の雨水桝も左側にしかありません。右側の車道脇は狭い上に水溜りがひどく歩けないのです。さらに現場から150メートルほど手前にある踏み切りにも歩行者用のスペースは左側にしかありません。こうした状況から現場は誰しも左側を歩かざるを得ない所なのです。
また、このあたりは全体が低く、雨水桝の効率も悪くなっていたため、少しの雨で車道脇はぬかるみ、舗装した車道しか歩けない状況でした。これについては五島千歳市議が、事故後道路管理者の市側にかけあって、雨水桝の掃除をさせたことからも明らかなことです。
以上申し述べます。
裁判の記録
平成8年2月20日宣告
平成7年 第1295号 業務上過失致死被告事件
主文
被告人を禁錮一年に処する。
この裁判の確定した日から3年間
右刑の執行を猶予する
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、平成7年10月25日午後5時50分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、千歳市北信濃770番地付近を道路を長都駅前方面から自由ヶ丘方面に向かい時速約40キロメートルで進行するに当たり、前方左右を注視し、進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、車内設置のカーラジオに視線を移して脇見をし、前方注視を欠いたまま漫然前記速度で進行した過失により、進路前方左側端の車道上を同方向に歩行中の前田千尋(当時17歳)に気付かないまま同人に自車左前部を衝突させて同人を路上に転倒させ、よって、同人に頚椎骨折等の傷害を負わせ、同日午後6時43分、千歳市東雲町1丁目8番地医療法人同仁会千歳第一病院において、同人を右傷害により死亡させたものである。
(証拠の標目)
被告人の当公判廷における供述
被告人の検察官調書及び警察官調書
(現場通行人)の警察官調書
警察官作成の(1)実況見分調書(2)検視調書
医師○○作成の死亡診断書
(法令の適用)
罰 条 刑法211条前段
刑種選択 禁錮刑選択
刑の執行猶予 刑法25条1項
(量刑の理由)
本件は、被告人が前方注視を欠き、脇見をしたことにより、前方を同方向に歩行中の被害者に気付かず、被害者に自車を衝突させて死亡させたという事案である。前方注視という基本的な注意義務を怠った点で過失の内容が悪いこと、本件事故により被害者はほぼ即死に近い状態で17歳という若さでその尊い生命を奪われており、本人の無念さはもとより、これまで慈しみ育ててきた被害者の両親及び親族の気持ちを思うとき、本件によってもたらされた悲しみは筆舌に尽くしがたく、被害者遺族の被害感情が厳しく被告人に対して実刑を望む心情も十分理解できるのであって、結果が極めて重大であることなどに照らすと、本件の犯情は芳しくなく、被告人の刑事責任は相当に重いというべきである。
(中略:この箇所は事実に反するので削除)これらの事情を総合考慮すると、被告人に対しては、今回に限り、被害者の冥福を祈らせつつ、社会内において自力による更正の機会を与えるのが相当であると認められる。よって、主文のとおり判決する。
[検察官谷口照夫、弁護人(私選)○○各出席]
[求刑禁錮1年]
平成8年2月20日札幌地方裁判所刑事第三部一係
裁判官 長島孝太郎
刑事裁判を終えて
裁判を終えて その1
「主文、被告人を禁錮1年に処す。ただし、3年間刑の執行を猶予する」
2月20日、札幌地裁六号法廷に長島裁判長の声が低く響きました。
ある程度の覚悟をしていたとは言え、「執行猶予」という言葉を聞いたとき、「千尋。こんなこと絶対許せないね」と、手許の小さな写真に向かって心の中で語りかけました。
裁判長は続けて量刑の理由を述べました。「前方注視という基本的な注意義務を怠ったことは重大である。しかし(1)歩車道の区別が無く、被害者が左側を歩いていたという不運 (2)加害者側は事故後葬儀に20万円の香典をあげるなど、誠意をもって対応している (3)任意保険にも加入しており、示談が期待される (4)被害の遺族宅へ度々訪れているなど、深く反省している (5)小学生の子ども二人がいるなど、事情もある (6)前科が無い、ということから今回に限り執行猶予とする」
私はこの「情状酌量」の「理由」のメモを執りながら、何度も「ちがう、ちがう」とつぶやきました。歩車道の区別が無いところでの事件が運転者にとって「不運」であれば、運転者の安全運転義務は一体どこへいくのでしょう。道路は車のためだけにあって、歩行者は通行してはならないとでも言うのでしょうか。(3)(4)は事実と異なります。示談の予定はありませんでしたし、何より加害者は誠意のためではなく、自己保身だけのために、反省の風をみせ対応していたということが、裁判での供述はじめその言動から明らかなのです。さらに(5)(6)を殊更「情状酌量」の「理由」とされたことに、怒りを越えて呆れ果ててしまいます。
しかし、さすがに裁判長も良心の痛みを感じるのでしょう。次のように言葉を続けました。
「(この判決に際して)裁判所もいろいろ考えた。ただ、やはり数秒間のほんのちょっとした不注意であること。酒酔いとか、スピード違反とか、事後処置が悪かったとかそういうのでなく、往々にありそうな事である。被害者は家族新聞を出して成長を楽しみに見守ってきたそうだが、そうした被害者遺族の心情を考えると、被害者にとってはバランスがとれないという批判があるだろうが・・・」
裁判長は「苦汁に満ちた選択」をしたとの心情を吐露したのでしょう。しかし私にとってみれば、「苦汁に満ちた選択」ではなく「矛盾に満ちた選択」に他なりません。胸が張り裂けそうに悔しいのは、裁判長の先の言葉「往々にしてありそうな」こととして、かけがえのない千尋の死を不当に軽く扱ったことです。
これまでの判例が、交通事故加害者に対して不当に軽い刑罰で推移してきたという現在の「定型」が、この許されざる、矛盾に満ちた判決を生んだものと思います。そこには一人の裁判長の力ではどうにもできない、日本の司法、刑法の大きな矛盾が横たわっているのでしょう。
このままでは千尋の犠牲が無駄になります。私は今日改めて誓いました。千尋の死を無駄にしないため私の持てる力の限りを尽くすことを。
私のほんの少しの安堵感は、私たちの思いを「被告人の処罰についての希望-特に被害者の気持ちについての意見-」という意見書の形で裁判長に届けることが出来たことです。これは、友人の弁護士からの助言があってのことですが、「公訴は、検察官がこれを行う」とされ、捜査から起訴、裁判と全ての過程で被害者側遺族は蚊帳の外におかれてしまう現行制度の中で、出来得る限りのことをやりきりました。若しもっとこうすれば良かったという思いが残れば、千尋にも申し訳がたちません。 (1996.2.25.)
裁判を終えて その2
判決から10日以上経ちました。独りになると、言いようのない悲しさ、寂しさに包まれます。私のたずさわっている教育という仕事には意欲も充実感も感じられるのですが、それ以外の私的な事での充実感がありません。二女の清香がいなかったらどうなっているだろうと考えると恐ろしくなります。きっとぬけ殻のような生活になっているでしょう。妻も同じだろうと思います。清香もまた残された家族の絆を支えに平静を装い健気に学校生活に打ち込んでいるのだと思います。
加害者の処罰が決まり、改めて千尋の死の意味を考えます。そして、堂々めぐりのように同じところで思考が止まります。このままでは千尋はあまりにも不憫だ。千尋の無念を晴らすにはどうしたら良いのか。
いろいろな疑問も次から次へと広がります。一体時速何キロメートルで千尋は轢かれたのだろう。本当に40キロメートルだろうか。その速度でフロントガラスが割れるほどの衝撃を受けるのだろうか。現場検証はきちんとなされたのだろうか。
この事故を担当した司法巡査は、私が「(衝突時の)スピードは」と尋ねたとき「そのことは民事にかかわってくるので、言えません」という主旨のことを言いました。その後、その時の疑問を検察庁で尋ねたところ、応対した検事は「(警察は)あなたに伝える必要がないと判断したからでしょう」という木で鼻を括ったような言。さらに私の「5速なら時速60キロは出ているのではないか」という疑問に、「それはあなたの考えでしょう(あなたが口をだすことではない)」と突き放すような言い方。まさに、取り付く島がない検事の態度に、私は一縷の望みとして、きっと裁判の中ではこの辺りの詳細が明らかにされるのだろうと期待するしかありませんでした。しかし、裁判の中で担当の谷口検察官が起訴事実として述べた衝突時の速度は40キロであり、シフトの5速問題は取上げられることもなく、40キロは「確定」されたのでした。
こんなずさんな現場検証や捜査に基づいての裁判結果にどうして納得がいくでしょう。娘を失った悲しみに加えて、納得のいかない判決に甘んじなくてはならない苦しみ、かけがえのない宝である我が子の命を軽く扱われたやるせなさ・・・。 (1996.3.3)
長女も許さないと思います
【1】刑罰の軽さ
加害の責任を免罪し、人の命を軽く扱う行政と司法
娘の加害者は、別記裁判記録にあるように、「前方左右を注視し、進路の安全を確認しつつ進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、車内設置のカーラジオに視線を移して脇見をし、前方注視を欠いたまま漫然前記速度で進行した過失により、進路前方左側端の車道上を同方向に歩行中の前田千尋(当時17歳)に気付かないまま自車左前部を衝突させて同人を路上に転倒させ、よって同人に頚椎骨折等の傷害を負わせ・・・死亡させた」のであるが、判決は「禁錮1年、執行猶予3年」という信じがたい軽い刑である。
1999年10月1日付け「北海道新聞」には、「わいせつHP男に有罪判決」という見出しで、次のような記事が載った。「インターネット上のホームページ上に男女のわいせつな画像を掲載したとして、わいせつ図画公然陳列の罪」に問われた・・・・・に対し釧路地裁は『被告の行為はわいせつ性が高いが、本人も反省している』として懲役1年6か月、執行猶予3年を言い渡した。」
娘を殺した加害者の刑罰は、この犯罪より軽く扱われているのである。
【2】警察の対応
(1)事故の概要説明が初めてなされた場で直ちに遺族の供述調書をとられる矛盾
事故後の動転した状況の中であるが、私たちの「なぜ、どうして」という疑問に答えてくれず、警察からは病院での簡単な説明だけで、事故原因や加害者の処遇について何の音沙汰も無く、肝心な事故原因が知らされないまま葬儀を執り行わなくてはならなかった。
若し「前方不注視」という重大過失が原因ということを聞いていれば加害者側から香典など受け取ることはなかった。これが後の裁判で、加害者側の情状酌量の理由にされたことを知り、心底から悔しく思った。
ようやく警察から連絡があったのは、初七日も過ぎ事故から13日後の11月7日であった。この時初めて事故原因が加害者の前方不注視であったことを知るが、同時に被害者の心情や加害者への心情などを聞かれた。いわゆる供述調書を取られたのだが、その時初めて事故原因を知らされて、怒りと娘への不憫さで気が動転していた。その冷静に考えられない状況で、まだ考えもまとまらないうちに、半ば誘導尋問的に加害者への処遇についての意見などを求められ、答えさせられたという印象が強い。
例えば加害者は「深く反省しているように見受けられます」とか、「事故自体は不注意で起こしたと思いますが」というくだりがあり、後に検察庁に出向いてこの時の事情と厳罰を望むと言う心情を改めて訴えなくてはならないことになった。
(2)当事者である被害者や遺族が当然抱く疑問に応える場が全くなく、「死人に口なし」で加害者側の言い分だけが尊重されるという不公正
このときの司法巡査の対応で忘れられないことがある。私が事故原因に関連して、スピードは何キロだったのですかと聞いたところ、「そのことは民事にかかわってくるので(加害者に不利になることもあるので)言えません」と言われたのである。
【3】検事と検察庁の対応
後に検察庁で任意供述をした際にその疑問を投げかけたが、担当の副検事は「(警察は)あなたに伝える必要がないと判断したからでしょう」と木で鼻を括ったような返答。
また、私はその後加害者自身から、そのときシフトレバーは5速であったことを聞いていたので、時速40キロということが信じられず、そのことを取上げて欲しい旨述べたが、「それはあなたの考えでしょう」と、私が口を出すことではないとばかりにあしらわれ、全く取り合ってもらえない。さらには、出来上がった調書を確認する際に、嫌味のように「学校の先生は文章の間違いにはうるさいのでしょう」という始末。被害遺族の心情を逆なでし、こちらが悪いかのような信じられない検事の対応に、私の心はずたずたに傷つけられたまま帰路に着いた。
結局、刑事裁判は被害者ではなく国がその罪を罰するのだから、被害者や遺族であっても、第三者であり口をはさむことは不公正になる、ということであるらしい。この当然の帰結として、加害者だけの人権が擁護されることになるのである。
【4】裁判のこと
裁判当日、私は当事者である娘の遺影を大切に胸に抱いて札幌地裁に足を運んだ。傍聴席の真ん中に座り、お葬式で用意した大きな遺影を正面に向け開廷を待った。裁判長が現れ、間もなく開始と思ったがなかなか始まらない。暫く経って裁判長は検事を呼び、何やら打ち合わせをしていたが、次に検事は私を法廷の外に呼び出した。つまるところ、遺影をしまって欲しいとのこと。理由を尋ねたところ、被告への圧力になるという。
納得できなかったが、こうした事態に対する心の準備もなかったので、如何ともしようがなく、千尋に詫びながら膝の上に置いた。
裁判が終わってから、結局この遺影の件が、この裁判の性格ー被害者と遺族は蚊帳の外に置かれ、加害者の立場ばかりが尊重される司法制度ーを象徴していたことがよく分かった。
先ほどのスピードの件だが、案の定、裁判ではシフトが5速であった事実は取上げられることもなく、加害者の言い分どおりの40キロで事実確認がなされてしまった。
加害者は、自分を護ってくれる弁護士を立て、自己の「反省の深さ」と「過失の程度の軽さ」を「証明」する機会が与えられ、最大限それは生かされるが、被害者側には味方となってくれる弁護士は居らず、被害者の立場に立とうとしない検察官が半ば事務的に進めるだけなのである。
とりわけ、被害者への誠意の部分で、加害者は嘘の証言を繰り返したが、これについて私たち被害遺族は当事者であるにも拘わらず、この嘘を指摘する機会がなく、虚偽の証言が堂々と情状酌量の理由にされた。
このことは裁判記録のお粗末さにも表れている。裁判の中で繰り広げられた嘘や矛盾の供述などを、後に問題にしたいと、裁判記録を閲覧した。しかし記録は要旨のみの略式の記述で、事実確認は曖昧のまま。裁判記録の末尾には「この供述の要旨のみを記載することについては訴訟関係人が同意した」とある。遺族は訴訟関係人ではないので、このことも全く知らないままであった。
こんな不公正が許されるのか。担当の検察官がせめて加害者側の弁護士ほどに被害者の命の尊厳という立場で、遺族の心情を理解して事に当たることは出来ないのか。
声を大にして言いたい。
【5】加害者の不誠実極まる対応
一貫して自己保身を貫き、裁判でも嘘の供述をする (詳細は検察庁への「意見書」)という、不誠実な対応。さらに、裁判までは足繁く通い、仏前で頭を垂れていたが、3か月後の刑事裁判の判決後は一切姿を見せない。
2000.8.12.
Photo1
在りし日の千尋
友人からもらいうけ、「サム」と名づけて可愛がっていた愛犬とともに
1995年1月
娘の犠牲を無にしないためには、「事故」という名の「犯罪」を決して過去のものに塗り込めてしまわないことが大切と、千尋のことを想うたびに、いつも胸に刻んでいます。 いくら加害者を恨んでも、「クルマ優先社会」を呪っても、千尋は帰ってきません。
しかし、千尋をはじめ数多くの尊い犠牲が生かされず、今現在も同様事故が続発していることに黙っていることは出来ません。千尋が許してくれないと思います。
千尋が望んでいることは、犠牲を無にせず、人命軽視の交通犯罪を絶滅することだと思います。
そのために、今も日常のように起こっている交通犯罪が、どれだけ理不尽なものなのかを知って欲しい。そういう思いで事故を振り返り、作成しました。(2000.8.12.)
1995年10月25日(水)17:50
Photo2
事故を報道した「北海道新聞」
1995年10月26日付け
恵庭北高校2年の千尋はJR通学をしていたが、親しい友人3人と長都駅で別れ、徒歩で帰宅途中、後ろからきた前方不注視のワゴン車にはねられ、「頚椎骨折、頭蓋内出血」によりほぼ即死の状態でその命と未来、全てを奪われた。17歳5ヶ月だった。
加害者と車輌
Photo3
実況見分中、運転席に座る加害者と車輌の破損状況
(実況見分調書に添付された写真より)
A:放射状にひび割れ破損したフロントガラス
B:衝撃でへこんだ前部
C:同上
Photo4
加害車輌(Photo3のCの部分)を側面より撮ったもの。
衝撃の大きさを物語る。
(実況見分調書に添付された写真より)
二つの写真から、千尋はワゴン車の前部CとBで、腰、背中を強打し、その後フロントガラスAに後頭部を打ち付けられ、これが「頚椎骨折、頭蓋内出血」の致命傷になったと思われる。
体の前部および側部には傷等がないことから、千尋はワゴン車に真後ろから衝突されたものである。
現場と事件の概要
現場の様子
当時、片側3.5mの舗装された市道に歩道は未設置。道路わきの草地はぬかるみ、雨の時は水たまりができ、歩行者は道路の端を歩いていた。
10月25日17:50、雨のなか傘をさして家路にむかう千尋は、後ろからきたワゴン車にはねられ、A地点から左前方に4.6mとばされ、道路わきの草地に倒れた。
現場の見通しは良く、衝突地点Aの7m先に街路灯があり、明るかった。実況見分調書によると、ライト下向きでも40m手前からA地点の人を認めることができたという。また、千尋は赤い傘をさしており、この点でも運転者が正しく前を見て運転さえしていれば、衝突は避けられた。
加害者の行動
- 自動支払機の手数料がかからない6時までに市街の銀行に着きたいと、5:45ごろワゴン車で自宅を出たが、急いでおりラジオで正確な時刻を知りたいと思い、衝突地点の手前約30mから、カーラジオの操作を始めた。
- カーラジオの①スイッチを入れ、②ボリュームを調整し、それでも音が出ないので、③カセットのイジェクトボタンを押すという動作を行ったが、その間操作に気をとらて下を向き、前方を注視することなく、時速40~50キロで進行し、A地点で千尋をはねた。
- 衝撃を感じ、A地点から9m走った地点で顔を上げ前方を見た。フロントガラスの破損に気付き、「何かに衝突したと思い」
- さらにそこから22m進行したところで停止した。
- Uターンして、倒れている千尋を発見し、心臓マッサージをした。
(実況見分調書および加害者の供述調書より)
未だに残る疑問
Photo6
茄子川教授の鑑定書より
(96年5月15日撮影)
【その1】衝突地点は特定できるのか
衝突時の速度にも関係してくる衝突地点について、実況見分調書では加害者の言い分だけで特定されているが、現場にはブレーキ痕や破片という物証は一切なく、客観的根拠はないはずであるのに、なぜ特定できるのか。
民事裁判で事故鑑定を依頼した北海道自動車短期大学の茄子川教授も、この点について「実況見分調書現場見取図における衝突地点の認定には客観的な証明が見あたらなく疑問である」(96.6.13.鑑定書)という鑑定結論を出している。
【その2】衝突時の速度は何キロか
加害者は衝突時の時速を、警察の供述調書(10/26)では「約40キロメートル位」と供述し、私の前(11/21)では「50キロぐらい」と説明。また検察庁(12/4)では「40~50キロ」と供述した。そして判決では、加害者の言い分どおり「約40キロ」とされた。
しかし40キロという根拠は何もないはずである。むしろ、急いでおり、ラジオの操作に入る前にギアを最大回転比の5速に入れていた(本人が11/21に私の前で言明)というのであるから、また車輌の破損に残る千尋が受けた衝撃の大きさからすると、制限時速の50キロを大きく越えた60キロ前後ではないかと思われる。
上記茄子川教授の鑑定では「衝突地点には疑問があるが、飛ばされた距離4.6mおよびフロントガラスなどの破損状況から検討すると47~52km/hの速度で衝突したものと推定」さらに「飛ばされた距離が4.6m以上であれば、衝突速度はさらに高くなる」と述べている。
検察庁では5速の件は全く取り上げてもらえなかった。何を根拠に「約40キロ」と断定できるのか、大いに疑問。
断定するのであれば、車輌の破損状況を分析するなど、誰しもが納得できる、科学的、合理的な説明が必要である。
この点で、警察で事故の内容を聞いた時、私の「スピードはどのくらいだったのですか」という問に、担当の司法巡査が「そのことは民事にかかわってくるので(加害者に不利になることもあるので)言えません」と答えた言葉が気にかかる。
加害者も、そして警察も制限時速の50キロを十分に意識していたようなのである。「死人に口なし」、加害者本位の捜査や扱いが、いとも簡単に行われている。
こうした、客観的な裏づけもない、ずさんな実況見分調書を基に、刑事裁判は行われ、悪質違反の制限速度超過の可能性は不問にされ、判決では執行猶予がつけられた。最初から最後まで加害者の言い分のみが一方的に尊重されたのである。
娘の尊い犠牲が、このように、不当に、そして軽く扱われたことに対する無念の思い、悔しさ、怒りは、何年経っても消えません。むしろ大きくなるばかりなのです。
安全対策はなぜ事件後なのか
右側に敷設された歩道と、防護柵がある
簡易歩道敷設工事の写真
歩道未設置の「事情」
この「市道7線」は、歩道設置には十分な幅員(40m)がありながら、写真の手前(中央大通りから)と先(JR千歳線の先)は既に街路整備がされ、歩道も設置されていたが、現場を含む国道と鉄道の間約800mだけが未整備のまま放置されていた。
その理由は、国の街路計画が鉄道をオーバーブリッジで抜けるというものであり、一方JRは高架化も検討というはざまになり、整備が遅れているからという。(1995年11月16日千歳市議会会計決算審査特別委員会での五島市議の質問に答えた議事録より)
この箇所はJR長都駅から徒歩10分ほどのところであり、通勤、通学の歩行者や自転車など通行者は多い。 上記の決算特別委員会で五島市議が、娘の事故をとりあげ、街灯設置とともに歩道設置を促した結果、同年12月には簡易歩道が設置され、その後、Photo7にあるように防護柵も取り付けられた。
この経過は、自動車通行のために車道は優先して作っても、歩道設置は後回しで、歩行者、自転車利用者の安全は二の次、三の次にしか考えないという、日本の道路行政の典型例である。
歩道が設置されていればと悔やまれます。千尋は、歩行者の安全をないがしろにする、「クルマ優先社会」がもたらした行政の貧困の犠牲にもなったのだと思います。
娘はなぜ犠牲になったのか
1 加害者の前方不注視という重大過失
先を急ぐあまり、時間を確かめようとカーラジオの操作で脇見運転
2 行政の問題
市が歩道未設置の市道を放置
3 背景にある人権無視の「クルマ優先社会」
夢であれば早く醒(さ)めてほしいと何度思った事でしょう。朝、駅まで車で送り「行ってきます」と笑顔で別れた娘と言葉も交わすことなく、病院での変わり果てた姿との対面になろうとは。
1995年10月25日夕暮、当時高校2年生の長女千尋(ちひろ)は通学帰りの歩行中、後ろから来たワゴン車に撥ねられ即死。わずか17歳でその全てを奪われました。現場は千歳の市道で、歩道のない直線道路。事件の原因は、カーラジオの操作に気をとられた運転者が、赤いかさをさした娘に気づかず、5メートル余りも撥ね飛ばすという重大過失の「前方不注視」であり、娘に何らの過失も無かったことは裁判でも明らかにされました。
修学旅行を三週間後に控え、本当に楽しそうな高校生活の娘でした。その日は友だちとの買い物の誘いを断り、家族と夕食を共にするため帰路を急いだ優しい娘でした。髪や服装にこだわり、センス良く着こなすスタイリストの娘で、妹や母親と互いにアドバイスしていました。思春期特有の親に対する反発も峠を越え、これから本当に良い母娘、父娘の関係が出来ると楽しみにしていた矢先でした。
遺(のこ)された私たち家族の生活は一変しました。朝起きて食卓を囲めば、そこに居るべき長女の爽やかな笑顔はなく、二度とあのさっそうとした姿をみることも、優しい声を聞くことも出来ません。娘がボーイフレンドからもらい受け「サム」と名付けて可愛がっていた犬を、娘に代わって散歩させる度に娘の無念さを思います。街で娘に似た後ろ姿をみては立ち止まり、テレビを見ても、場面ごとに娘の事を連想し時に涙が溢れます。旅行に出ても、家族キャンプや家族旅行の長女の笑顔が浮かびます。家族4人の楽しかった思い出の全ては、淋しさと娘の無念さを思う悔しい過去に変わってしまいました。
何年経っても、娘のことを思わぬ日はなく、涙しない日はありません。「果無(はかな)し」という言葉が今の私たちの心境に最も近い言葉なのです。私と妻は二女の存在だけを支えに、張り裂けそうな悲しみに耐えて生きています。
娘は道路上で、何の過失もないのに、何のいわれもない人に、一方的に、限りない未来と生きる権利そのものを奪われました。どう考えても「通り魔殺人」的被害なのです。私は娘の仏前で未だに「安らかに」という声は掛けられません。千尋からいつも「私がどうしてこんな目に遭(あ)わなくてはならなかったの?」「私がその全てを奪われたこの犠牲は報われているの?」と問いかけられているような気がするからです。
「娘の死を無駄にして欲しくない」これが遺された者の痛切な願いです。歩行者、自転車という交通弱者が車に轢(ひ)かれたという報道に接するたびに、最大の人権侵害が日常的に横行している現実に「これでは娘は浮かばれない」と胸が痛みます。その意味では多くの遺族が訴えているように、交通犯罪に対する刑罰の軽さも指摘しなければなりません。娘の加害者も重大過失でありながら、禁固1年は執行猶予つきで、実刑なしというあまりに軽い刑です。厳罰の適用で交通犯罪を無くし、免許制度の厳格化、車道至上主義を改めて生活道路での歩行者優先を徹底するなど、被害ゼロのための抜本的施策を切に望みます。娘からの「問いかけ」に答えるために。
(1999年6月「癒(いや)されぬ輪禍」道警交通部編)
娘はなぜ犠牲になったのか、裁判はどのように行われたのか、加害者の処遇は
夢であれば早く醒(さ)めてほしいと何度思った事でしょう。朝、駅まで車で送り「行ってきます」と笑顔で別れた娘と言葉も交わすことなく、病院での変わり果てた姿との対面になろうとは。 1995年10月25 ... 2000.8.12. Photo1 在りし日の千尋 友人からもらいうけ、「サム」と名づけて可愛がっていた愛犬とともに 1995年1月 娘の犠牲を無にしないためには、「事故」という名の「犯罪」を決して ... [toc] 刑事裁判の記録 検察庁への意見書 札幌地方検察庁御中 被告人の処罰についての希望 ―特に被害者の気持ちについての意見― 前田 敏章/真紀子 私たちは1995年10月25日、千歳市北信濃7 ... 貴女を決して忘れない 誕生 1978年5月12日、午後3時53分、待望の長子として稚内市立病院で産声をあげました。5日目、いろいろ悩んだ末に「千尋」と名づけました。アルバムには命名の由来を、次のように ... 「千尋観音」に託す「犠牲を無にしないで」の願い 千尋が脇見の運転者によって命を奪われた現場は、千尋の愛犬サム(遺影に抱かれています)との毎朝の散歩コースでもありました。 遺された私たちは、長女に替 ...
手記:17歳で交通死した娘からの問いかけ
事件概要
刑事裁判の記録
千尋へ - 追悼と生命のメッセー ジ展
聖千尋観音