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書籍紹介 『交通死』-命はあがなえるかー

1997年8月31日

『交通死』-命はあがなえるかー

二木雄策著  岩波新書 518 岩波書店
1997年8月 630円

■購入 岩波書店 交通死 命はあがなえるか

 著者の娘さん(当時19才)は交差点を自転車で横断中、信号無視、前方不注視で直進してきた貨物自動車にはねられ死亡した。この本は娘さんの「戦後処理」として著者が闘い抜いた刑事裁判、民事訴訟の記録であり、被害の立場から現代日本の交通犯罪を告発した書である。

 かくいう私は、著者と同じく前方不注視の運転者により高校生の長女を轢き殺され、悲嘆に暮れている者である。私たち被害者の切なる思いを余すところなく代弁してくれている本書によって大いに勇気づけられた。交通犯罪による悲劇根絶を願うすべての人に読んでもらいたい一冊である。

 二章〈被害者抜きの形式裁判〉は交通犯罪を裁く刑事裁判の実情である。信じ難いことだが、捜査の段階から起訴、裁判と全ての過程で被害者側は蚊帳の外である。「公訴は、検察官がこれを行う」からである。公判においてさえ、被害者の側が本人に代わってその衷情を訴える機会は与えられない。これは、加害者側が情状酌量を求めて、証人を立て、あるいは被告人本人が、謝罪の実情や示談の進み具合などを裁判官に直接訴えることができるのに比べると明らかに不公平である。著者は「(裁判官・検察官・弁護人の)三者によって演じられた馴れ合いのパフォーマンス」「魂のない儀式」と断ずる。

 第三章〈軽すぎる刑罰〉では、交通殺人の量刑がバイク窃盗や短銃持ち込みと同等という実例をあげ、さらに最近の寛刑化傾向とその要因も述べて、交通犯罪に寛容な司法の問題点を指摘している。
 私が驚嘆したのは、第四章以下で展開される損害賠償を巡っての緻密な闘いとその分析である。最初私は、著者が経済学専攻の大学教授であるとしても、本人訴訟を選び、逸失利益の男女間格差など闘い続けた冷静さが理解できなかった。しかし最後まで読んで得心した。著者は「機械的・事務的に処理することで(交通)事故を日常の中に埋没させてしまっている、我々の社会の異常さ」を告発するために、そして「娘をあくまで人間として扱いたかった」という父親の思いから「闘った」のである。

 そこでは、日本の自動車保険が、損害賠償の本質を隠蔽し錯覚させる矛盾した制度であること。自動車事故を、社会が当然に負担すべき「費用」とみるような合意があるためか、加害者さえもが「不運」だったとされ、その責任が不当に薄められてしまう「人間よりも車を重視した異様な社会」であることなどが論理的に述べられる。(第四章〈ビジネスとしての賠償交渉〉)

 また、人命軽視につながる損害賠償の定型化・定額化を批判。賠償問題の解決は、加害者が、弁護士が、保険会社が、裁判官が、そして車を運転する人が、そもそも「命はあがなえない」という解決できない矛盾として認識するという、被害者への思いやりから途が開かれるとの訴えは共感的。(第六章〈定型・定額化している損害賠償〉)

 最後に「人間の死を日常の中に取り込んでしまい、それを異常だと認識しないことに戦争の真の異常さがあるとすれば、現在の日本はまさに交通戦争の真っ只中」という著者は、戦争を終わらせるには、まず「この社会に住む我々一人ひとりが戦争(=現在の「くるま社会」)の異常さを認識」しなければならない、と結ぶ。(終章〈日常化した交通事故〉)

前田敏章 (「脱クルマ21」第3号(生活思想社)1998.4.10.掲載)

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