七月末、札幌で開かれた交通安全セミナー。この種の講習には珍しく、講話の合間に、さだまさしの「償い」が流された。
横断中の人をひき、その人の奥さんに毎月送金をしていた青年が、七年後、奥さんから「誠意はわかった。主人を思い出すのがつらいからもう送金はしないで」との手紙をもらい、感謝するという歌詞である。
受講者は聞き入り、会場にやわらいだ空気が漂った。次の講話は私の番だった。テーマは「『遺された親』からの訴え」。「償い」について触れないわけにはいかず、こう切り出した。
「七年前、歩行中の高二の長女を『前方不注視』でひいた加害者は、刑事裁判が終わるまでの三カ月間、足しげく通って来たが、執行猶予のついた判決後は、お参りにも一切来ない不誠実な人だった。しかし仮にこの人が歌詞のように誠実な人でも、許す気持ちにはなれないだろう」
今年三月、新聞に「償い」という投稿が載った。十年前、小一の子どもを脇見運転の車にひかれて失った女性の方は、ラジオから流れる「償い」を聞いて涙があふれてきたという。青年の誠意に涙したのではなく、加害者もまた被害者と思われる悔しさなどで泣けてきたのだろう。
十歳の長男をトラックに奪われた京都の今井好子さんは「経済の発展を最優先とした日本社会では、暗黙のうちに被害者に耐え忍ぶことを美徳として押しつけ、悲しみや怒りの気持ちを表現し、正当性を自己主張するものを排斥してきたのではないか」と指摘する。
講話では「遺された親」の訴えとしてこう結んだ。
「犠牲者の身になって考えてほしい。理不尽に奪われた命は、決してあがなえない。『償い』は、犠牲を無にせず交通犯罪ゼロの社会を実現すること。事故だからと加害を容認するクルマ社会を問い直し、安全確認最優先の運転を」
(「北海道新聞」2002年8月26日夕刊のコラム「プラネタリウム」に掲載)