前田 敏章(千歳高校)
1 交通犯罪の犠牲になった長女
1995年10月、高校2年生の長女は、通学列車を降り自宅へと向かう歩行中、後ろから来たワゴン車に轢かれ即死させられた。原因は運転者のカーラジオ操作による前方不注視。通勤通学者も多い現場の市道には歩道が未設置であった。
以来、最愛の娘を理不尽に奪われた不条理に世をはかなみ、張り裂けそうな悲しみの日々のなか、「遺された親」として、娘からの「私がなぜ犠牲に?」「私がその全てを奪われたこの犠牲は報われているの?」という問いかけに答えるため、必死に考え行動をしてきた。その中で浮かび上がってきたのが、人命軽視、人権無視の巨大な「クルマ優先社会」である。
私はこれを告発し、交通犯罪絶滅の活動を続けているが、まだ娘に「安らかに」という声を掛けられない。同様の犠牲が今も繰り返され、「通り魔殺人」的被害であるのに、「事故だから、仕方ない」「運が悪かった」「金銭で解決すればよい」と軽く扱う異常な社会が続いているからである。最近も私の住む札幌で、自転車の小学生(7月19日)と中学生(7月25日)が相次いで横断歩道上で命を奪われた。
若者をターゲットに、クルマのスタイルやスポーツ性を強調し、バラ色の「クルマ社会」の一員となることを誘う自動車メーカー。そして一向に減らない犠牲。歩行者、子ども、お年寄りがクルマから受ける被害は重大な人権侵害であるにもかかわらず、「経済効率」を絶対視する「クルマ優先社会」は、この犠牲を「社会的費用」と容認する。
「加害者天国」といわれる現実も痛感した。娘の加害者を裁いた裁判長は、禁固1年、執行猶予3年というあまりに軽い判決の言い渡しの際に「数秒間のほんのちょっとした不注意であり、往々にありそうな事である」と述べた。犯罪白書は、交通事犯の起訴率低下(ここ十数年で70%台から10%台へ激減)について、こともなげに「国民皆免許時代に国民の多数を刑事罰の対象にはできない」「保険制度が普及し、補償が充実してきた」と不当な「理由」を並べる。
こうした潮流は学校教育にも確実に影響をおよぼし、「交通安全教育」は、大勢としてこの「クルマ優先社会」の構成員を再生産する役割を果たしている。若者を加害の立場に追い込むのは社会の責任でもある。以下、クルマによる人権被害根絶のための交通教育の課題について述べたい。
2 クルマ優先社会
「我々の社会がモノの生産を中心に動いてきたため、効率や利便性を重視するあまり、人間の生命を軽視する風潮を醸しだし、人間の生命にカネを支払うことで交通犯罪の処理を完結させてしまうという大勢に結びついた。このクルマ社会では、誰もが加害者になる可能性をもつから、クルマの事故を異常とは認識しないし、犯罪だとも思わない。人は誰も自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向をもっているから」(二木雄策著「交通死」岩波新書)との指摘にあるように、近代社会の成立要件である基本的人権が日常的に侵されていながら感覚麻痺に陥っているという事態の背景に、巧妙に形成された「クルマ優先社会」のイデオロギーがある。私自身も例外ではなかったと自省するが、他の問題では熱心に人権擁護に取り組む人たちも、こと「クルマ」に関しては人命尊重や人権意識が欠落する場合が多い。「クルマ優先社会」に異を唱える進歩的な研究者や知識人が少ないことで、人間性とともに生命をも乱暴に奪う資本の論理は、どこからも批判を受けることなく、深くはびこることになる。
3 深刻な子どもの犠牲
ユニセフ(国連児童基金)は、2001年2月、「豊かな国の子どもの事故死」という報告書で、加盟26か国の1991年から5年間の統計から、10万人当たりの事故死率を算出(最も少ないのはスウエーデンの5.2人、日本は8.4人)。最大の原因は交通事故で、事故死のうち41%を占めると警告している。
わが国では、1年間におよそ450人の子どもが歩行中あるいは自転車利用中に命を奪われ、負傷は7万人(うち頭部外傷などの重傷は2万5千人以上)にも達するという現実がある。「98子ども白書」は、「不慮の事故は子どもの最大の死因となっており、交通事故が62%を占め、15歳から19歳の年齢層では85%を占める。死亡例1例に対して入院を要する外傷が20~130例発生していると推計されており、この中には脊髄や頭部外傷などで重度の後遺症をもたらしている者も少なくない」と指摘する。
ここ北海道に限っても、高校生以下の子どもたちが歩行あるいは自転車通行中に、平均すると毎日5人が傷つき、毎月1人の割合で尊い命が奪われている(図1、2参照、これは道警の資料で、未報告の負傷もかなり多いと思われる)。また、筆者が5月に札幌市内T高校で行ったアンケート調査によると、「これまでに事故にあった経験」は1057人中188人(18%)に及び、入院・通院が27人(3%)、軽いけが101人(10%)、「クルマにより危険を感じたことがある」は、651人(62%)であった。子どもたちの置かれている危険な状況に慄然とした。
「事故」という言葉は「道理をもって防止することのできなかった危害」という意味合いで使われるから、子どもが被る交通禍も、社会が保護すべき最も大切な人権問題という観点が失せるのである。今一度子どもの権利条約に照らして、事態を見つめ直す必要がある。
図1、2は道教委資料より作成(2002年は10/15現在)
図1 道内児童生徒の被害死者数
図2 道内児童生徒の被害負傷者数
4 現行の「交通安全教育」の問題点
(1) 子どもに被害の責任を転嫁
現在の「交通安全教育」は、被害にあった歩行者、子ども、お年寄りにその責任が転嫁され、真の原因や社会的責任を隠し、モータリゼーション(自家用車の大衆化)を推進するイデオロギー形成に働いている。
(中略 会報1号参照)
こうした教育の指針となっているのが「交通安全教育指針」(国家公安委員会作成)である。ここでは、例えば、幼児に対して「安全に道路を通行するために必要な基本的な技能及び知識を習得させること」を目標に、「速度が速い場合、路面がぬれている場合等には制動距離が長くなることを理解させる」。さらに「死角」や「内輪差」についても「理解させましょう」というのであるから驚きである。児童期も同様で、生理的な発達段階からみて無理なことを教えようとすることで、被害にあったときの責任は社会ではなく子どもや親に向けられる。結果として危険な道路環境や運転者の問題は改善されず、交通弱者に向かって、相も変わらず「交通ルールを守ろう」と呼びかけるだけの偏った教育が続けられる。
(2)「交通戦争」に送り込む「運転者教育」の肩代わりを学校教育に
近年、学校教育を利用して児童生徒を「クルマ社会」へ適応させるという動きが強まりつつある。政府の「交通安全基本計画」には、「生涯教育体系としての運転者教育」が強調され、高校生に対して「免許取得前の教育としての性格を重視した交通安全教育」が明記されている。無秩序なモータリゼーション拡大と、これを可能にした国民皆免許の体制が人命軽視の「クルマ社会」を現出している元凶と考えられるとき、看過できない動きである。道内においても研究指定を受けた道南のS高校で自動車教習所において三年生全員を対象にした「教育」が行われた。
現状のクルマ社会に無批判な立場からは、「交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育むこと」(「免許前の若者に対する交通安全教育の推進方策に関する検討会・報告」)として「交通安全教育」が位置づけられるから、次のような物騒な表現も違和感なく使われる。「高校生諸君は、ほどなく運転免許証を手にして、くるま社会の一員となる日がくる。免許証を手にするということは、見方によれば、交通戦争の召集令状を手にすることと言えるかも知れない」(副読本「交通安全」西山啓著 一橋出版)。
戦争は人が起こすもの。「交通戦争」は誰が起こし、その犠牲は一体誰なのか。真剣に検証する必要がある。
5 「交通安全教育」の系譜と本質
(略)
6 これからの「交通教育」に求められるもの
今後のあるべき交通教育の基本視点と留意点について次のように考える。各教科や総合学習のテーマとして、またホームルームや生徒の自主活動、学校行事など特別教育活動のテーマや活動内容として体系的に構造化する必要がある。
(1) 「交通権」を基本に、「交通教育」として
- ◆運転免許を持つことを前提とし、その中で自分と他者の身を守る術を教える、狭い意味の「交通安全教育」ではなく、「交通権」(注)という概念を基本に据え、クルマ依存社会の問い直しや、自身の交通手段の選択につながる「交通教育」
(2) 「交通禍」を人権問題、社会問題として
- ◆交通禍による犠牲の非人権性。命の尊厳と命はあがなえないこと
- ◆運転行為のもたらす社会的責任。交通犯罪に関する法令の正確な理解、加害者の擁護に偏した日本の司法制度
- ◆交通弱者と公共交通機関整備の課題など現代社会の交通・運輸問題
(3) クルマに対する科学的で論理的な知見を
- ◆クルマのもつ強大な運動エネルギーと衝撃力などクルマの特性の理解、現時点では、クルマが他者を傷つけないという点において、人間の操作能力の限界を超えた危険な道具になっていること
- ◆錯視、錯誤など人間の生理的な特性。人間の注意力だけに依存することの危険性
- ◆道路を共用する歩行者、自転車利用者としての子どもお年よりの知覚、判断、動作能力などの特性と限界
- ◆青年期に特有な心理とクルマ
(4) 環境問題とあわせ、安全で豊かな交通環境を
- ◆クルマによる大気汚染や温暖化など、環境・エネルギー問題とクルマ
- ◆自転車利用の課題
- ◆幹線道路での歩車分離と生活道路での歩行者優先の確立。ボンエルフ(生活の庭)など街づくりの課題
※交通権とは「国民の交通する権利」であり、日本国憲法の第13条(幸福追求権)第22条(居住・移転および職業選択の自由)、第25条(生存権)、など関連する人権を集合した新しい人権である。(「交通権憲章」交通権学会編 日本経済評論社)
7 交通安全講話から
機会があって、いくつかの高校で「命とクルマ-『遺された親』からのメッセージ」というテーマで交通安全講話をさせていただいている。被害の実相や、遺された親の悲嘆と加害者に対する気持ち、「クルマ優先社会」の問題、被害ゼロのための安全な街路づくりの課題などを訴えているが、若者らしい率直な受け止めに励まされている。次はその感想である。
- 「今日講話を聞いたことで『死の運命』は、他人の絶対的な力によって押しつけられることではないと考え直しました。人には生きる権利と死ぬ義務があって、それは決して他者には手出しすることができない神聖な場所なのでしょう」(3年女)。
- 「俺は今まで『事故は仕方のないもの。罪になるのはひどいのではないか』と思っていました。でもその考えは改めることにしました。きっと事故は俺のような考えをもっている人が運転しているから起こるのでしょう」(1年男)。
- 「話を聞く前は『死んでから何年もたって、それでもまだぐだぐだと根に持って』とか『交通事故だからしょうがない』って思っていたけれど、よく考えたらそれは自分がその事故とは無関係だから言えるんだということに気がつきました」(1年男)
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(「未来をひらく教育」2002年秋129号 全国民主主義教育研究会発行より転載)
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論考・発言
【1】2002/11 交通教育の課題 -子どもの命と人権を守るために-
2002年11月1日
前田 敏章(千歳高校)
1 交通犯罪の犠牲になった長女
1995年10月、高校2年生の長女は、通学列車を降り自宅へと向かう歩行中、後ろから来たワゴン車に轢かれ即死させられた。原因は運転者のカーラジオ操作による前方不注視。通勤通学者も多い現場の市道には歩道が未設置であった。
以来、最愛の娘を理不尽に奪われた不条理に世をはかなみ、張り裂けそうな悲しみの日々のなか、「遺された親」として、娘からの「私がなぜ犠牲に?」「私がその全てを奪われたこの犠牲は報われているの?」という問いかけに答えるため、必死に考え行動をしてきた。その中で浮かび上がってきたのが、人命軽視、人権無視の巨大な「クルマ優先社会」である。
私はこれを告発し、交通犯罪絶滅の活動を続けているが、まだ娘に「安らかに」という声を掛けられない。同様の犠牲が今も繰り返され、「通り魔殺人」的被害であるのに、「事故だから、仕方ない」「運が悪かった」「金銭で解決すればよい」と軽く扱う異常な社会が続いているからである。最近も私の住む札幌で、自転車の小学生(7月19日)と中学生(7月25日)が相次いで横断歩道上で命を奪われた。
若者をターゲットに、クルマのスタイルやスポーツ性を強調し、バラ色の「クルマ社会」の一員となることを誘う自動車メーカー。そして一向に減らない犠牲。歩行者、子ども、お年寄りがクルマから受ける被害は重大な人権侵害であるにもかかわらず、「経済効率」を絶対視する「クルマ優先社会」は、この犠牲を「社会的費用」と容認する。
「加害者天国」といわれる現実も痛感した。娘の加害者を裁いた裁判長は、禁固1年、執行猶予3年というあまりに軽い判決の言い渡しの際に「数秒間のほんのちょっとした不注意であり、往々にありそうな事である」と述べた。犯罪白書は、交通事犯の起訴率低下(ここ十数年で70%台から10%台へ激減)について、こともなげに「国民皆免許時代に国民の多数を刑事罰の対象にはできない」「保険制度が普及し、補償が充実してきた」と不当な「理由」を並べる。
こうした潮流は学校教育にも確実に影響をおよぼし、「交通安全教育」は、大勢としてこの「クルマ優先社会」の構成員を再生産する役割を果たしている。若者を加害の立場に追い込むのは社会の責任でもある。以下、クルマによる人権被害根絶のための交通教育の課題について述べたい。
2 クルマ優先社会
「我々の社会がモノの生産を中心に動いてきたため、効率や利便性を重視するあまり、人間の生命を軽視する風潮を醸しだし、人間の生命にカネを支払うことで交通犯罪の処理を完結させてしまうという大勢に結びついた。このクルマ社会では、誰もが加害者になる可能性をもつから、クルマの事故を異常とは認識しないし、犯罪だとも思わない。人は誰も自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向をもっているから」(二木雄策著「交通死」岩波新書)との指摘にあるように、近代社会の成立要件である基本的人権が日常的に侵されていながら感覚麻痺に陥っているという事態の背景に、巧妙に形成された「クルマ優先社会」のイデオロギーがある。私自身も例外ではなかったと自省するが、他の問題では熱心に人権擁護に取り組む人たちも、こと「クルマ」に関しては人命尊重や人権意識が欠落する場合が多い。「クルマ優先社会」に異を唱える進歩的な研究者や知識人が少ないことで、人間性とともに生命をも乱暴に奪う資本の論理は、どこからも批判を受けることなく、深くはびこることになる。
3 深刻な子どもの犠牲
ユニセフ(国連児童基金)は、2001年2月、「豊かな国の子どもの事故死」という報告書で、加盟26か国の1991年から5年間の統計から、10万人当たりの事故死率を算出(最も少ないのはスウエーデンの5.2人、日本は8.4人)。最大の原因は交通事故で、事故死のうち41%を占めると警告している。
わが国では、1年間におよそ450人の子どもが歩行中あるいは自転車利用中に命を奪われ、負傷は7万人(うち頭部外傷などの重傷は2万5千人以上)にも達するという現実がある。「98子ども白書」は、「不慮の事故は子どもの最大の死因となっており、交通事故が62%を占め、15歳から19歳の年齢層では85%を占める。死亡例1例に対して入院を要する外傷が20~130例発生していると推計されており、この中には脊髄や頭部外傷などで重度の後遺症をもたらしている者も少なくない」と指摘する。
ここ北海道に限っても、高校生以下の子どもたちが歩行あるいは自転車通行中に、平均すると毎日5人が傷つき、毎月1人の割合で尊い命が奪われている(図1、2参照、これは道警の資料で、未報告の負傷もかなり多いと思われる)。また、筆者が5月に札幌市内T高校で行ったアンケート調査によると、「これまでに事故にあった経験」は1057人中188人(18%)に及び、入院・通院が27人(3%)、軽いけが101人(10%)、「クルマにより危険を感じたことがある」は、651人(62%)であった。子どもたちの置かれている危険な状況に慄然とした。
「事故」という言葉は「道理をもって防止することのできなかった危害」という意味合いで使われるから、子どもが被る交通禍も、社会が保護すべき最も大切な人権問題という観点が失せるのである。今一度子どもの権利条約に照らして、事態を見つめ直す必要がある。
図1、2は道教委資料より作成(2002年は10/15現在)
図1 道内児童生徒の被害死者数
図2 道内児童生徒の被害負傷者数
4 現行の「交通安全教育」の問題点
(1) 子どもに被害の責任を転嫁
現在の「交通安全教育」は、被害にあった歩行者、子ども、お年寄りにその責任が転嫁され、真の原因や社会的責任を隠し、モータリゼーション(自家用車の大衆化)を推進するイデオロギー形成に働いている。
(中略 会報1号参照)
こうした教育の指針となっているのが「交通安全教育指針」(国家公安委員会作成)である。ここでは、例えば、幼児に対して「安全に道路を通行するために必要な基本的な技能及び知識を習得させること」を目標に、「速度が速い場合、路面がぬれている場合等には制動距離が長くなることを理解させる」。さらに「死角」や「内輪差」についても「理解させましょう」というのであるから驚きである。児童期も同様で、生理的な発達段階からみて無理なことを教えようとすることで、被害にあったときの責任は社会ではなく子どもや親に向けられる。結果として危険な道路環境や運転者の問題は改善されず、交通弱者に向かって、相も変わらず「交通ルールを守ろう」と呼びかけるだけの偏った教育が続けられる。
(2)「交通戦争」に送り込む「運転者教育」の肩代わりを学校教育に
近年、学校教育を利用して児童生徒を「クルマ社会」へ適応させるという動きが強まりつつある。政府の「交通安全基本計画」には、「生涯教育体系としての運転者教育」が強調され、高校生に対して「免許取得前の教育としての性格を重視した交通安全教育」が明記されている。無秩序なモータリゼーション拡大と、これを可能にした国民皆免許の体制が人命軽視の「クルマ社会」を現出している元凶と考えられるとき、看過できない動きである。道内においても研究指定を受けた道南のS高校で自動車教習所において三年生全員を対象にした「教育」が行われた。
現状のクルマ社会に無批判な立場からは、「交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育むこと」(「免許前の若者に対する交通安全教育の推進方策に関する検討会・報告」)として「交通安全教育」が位置づけられるから、次のような物騒な表現も違和感なく使われる。「高校生諸君は、ほどなく運転免許証を手にして、くるま社会の一員となる日がくる。免許証を手にするということは、見方によれば、交通戦争の召集令状を手にすることと言えるかも知れない」(副読本「交通安全」西山啓著 一橋出版)。
戦争は人が起こすもの。「交通戦争」は誰が起こし、その犠牲は一体誰なのか。真剣に検証する必要がある。
5 「交通安全教育」の系譜と本質
(略)
6 これからの「交通教育」に求められるもの
今後のあるべき交通教育の基本視点と留意点について次のように考える。各教科や総合学習のテーマとして、またホームルームや生徒の自主活動、学校行事など特別教育活動のテーマや活動内容として体系的に構造化する必要がある。
(1) 「交通権」を基本に、「交通教育」として
(2) 「交通禍」を人権問題、社会問題として
(3) クルマに対する科学的で論理的な知見を
(4) 環境問題とあわせ、安全で豊かな交通環境を
※交通権とは「国民の交通する権利」であり、日本国憲法の第13条(幸福追求権)第22条(居住・移転および職業選択の自由)、第25条(生存権)、など関連する人権を集合した新しい人権である。(「交通権憲章」交通権学会編 日本経済評論社)
7 交通安全講話から
機会があって、いくつかの高校で「命とクルマ-『遺された親』からのメッセージ」というテーマで交通安全講話をさせていただいている。被害の実相や、遺された親の悲嘆と加害者に対する気持ち、「クルマ優先社会」の問題、被害ゼロのための安全な街路づくりの課題などを訴えているが、若者らしい率直な受け止めに励まされている。次はその感想である。
*****************
(「未来をひらく教育」2002年秋129号 全国民主主義教育研究会発行より転載)
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