論考・発言

【13】2018/2 札幌高裁研究会での講話 「交通事犯被害者の現状と願い」

2016年2月28日

札幌高等裁判所主催「犯罪被害者等の置かれた立場、状況等に関する理解を深めるための研究会」での講話「交通事犯被害者の現状と願い」(レジュメ・資料)より

2018年2月7日
於:札幌高等裁判所大会議室

北海道交通事故被害者の会 代表 前田敏章
(犯罪被害者団体ネットワーク・ハートバンド代表)

O はじめに:ご理解願いたいこと

  • 社会全体(法律・制度・行政・市民意識)で、犯罪被害者への理解を深めて欲しい
    (交通)犯罪被害者の痛切な思い:「こんな悲しみや苫しみは私たちで終わりにして欲しい」
  • 被害者の視点=命の尊厳=(交通死傷ゼロの)安全な社会=社会正義の実現(=社会進歩)
  • 交通犯罪の刑罰の適正化(結果責任と抑止を重視)の実現:人命を守る以上の法益(「法により保護される社会生活上の利益」)はない。 憲法13条を守るための刑事司法を。

1 被害の実相

(1)長女の事件と遺された親

 1995年10月25日17時50分、千歳の市道。高校2年生の長女千尋(ちひろ)は、学校帰りの歩行中、カーラジオ操作に気をとられ前方不注視のまま疾駆してきた35歳女性の運転するワコン車に後ろからはねられ、頸椎骨折等で即死させられた。加害者への裁きは、業務上過失致死(当時)禁錮1年・執行猶予3年というあまりに軽いものであった。

 長女は、公道で、何のいわれもない人の重大過失により、ー方的に命を奪われた。「通り魔殺人」的被害であり、「事故」(アクシデント:偶然の事)ではなく「末必の故意」による「交通犯罪」。

資料1 前田手記

手記 17歳で交通死した娘からの問いかけ

前田敏章

 夢であれば早く醒めてほしいと何度思った事でしょう。朝、駅まで車で送り「行ってきます」と笑顔で別れた娘と言葉も交わすことなく、病院での変わり果てた姿との対面になろうとは。

 1995年10月25日夕暮、当時高校2年生の長女千尋(ちひろ)は通学帰りの歩行中、後ろから来たワゴン車に撥ねられ即死。わすか17歳でその全てを奪われました。現場は千歳の市道で、歩道のない直線道路。事件の原因は、カーラジオの操作に気をとられた運転者が、赤いかさをさした娘に気づかず、5メートル余りも撥ね飛ばすという重大過失の「前方不注視」であり、娘に何らの過失も無かったことは裁判でも明らかにされました。

 修学旅行を三週間後に控え、本当に楽しそうな高校生活の娘でした。その日は友だちとの買い物の誘いを断り、家族と夕食を共にするため帰路を急いだ優しい娘でした。髪や服装にこだわり、センス良く着こなすスタイリストの娘で、妹や母親と互いにアドバイスしていました。思春期特有の親に対する反発も峠を越え、これから本当に良い母娘、父娘の関係が出来ると楽しみにしていた矢先でした。

 遺された私たち家族の生活は一変しました。朝起きて食卓を囲めば、そこに居るべき長女の爽やかな笑顔はなく、二度とあのさっそうとした姿をみることも、優しい声を聞くことも出来ません。娘がボーイフレンドからもらい受け「サム」と名付けて可愛がっていた犬を、娘に代わって散歩させる度に娘の無念さを思います。街で娘に似た後ろ姿をみては立ち止まり、テレビを見ても、場面ごとに娘の事を連想し時に涙が溢れます。旅行に出ても、家族キャンプや家族旅行の長女の笑顔が浮かびます。家族4人の楽しかった思い出の全ては、淋しさと娘の無念さを思う悔しい過去に変わってしまいました。

 何年経っても、娘のことを思わぬ日はなく、涙しない日はありません。「果無し」という言葉が今の私たちの心境に最も近い言葉なのです。私と妻は二女の存在だけを支えに、張り裂けそうな悲しみに耐えて生きています。

 娘は道路上で、何の過失もないのに、何のいわれもない人に、一方的に、限りない未来と生きる権利そのものを奪われました。どう考えても「通り魔殺人」的被害なのです。私は娘の仏前で未だに「安らかに」という声は掛けられません。千尋からいつも「私がどうしてこんな目に遭わなくてはならなかったの?」「私がその全てを奪われたこの犠牲は報われているの?」と問いかけられているような気がするからです。

 「娘の死を無駄にして欲しくない」これが遺された者の痛切な願いです。歩行者、自転車という交通弱者が車に轢かれたという報道に接するたびに、最大の人権侵害が日常的に横行している現実に「これでは娘は浮かばれない」と胸が痛みます。その意味では多くの遺族が訴えているように、交通犯罪に対する刑罰の軽さも指摘しなければなりません。娘の加害者も重大過失でありながら、禁固1年は執行猶予つきで、実刑なしというあまりに軽い刑です。厳罰の適用で交通犯罪を無くし、免許制度の厳格化、車道至上主義を改めて生活道路での歩行者優先を徹底するなど、被害ゼロのための抜本的施策を切に望みます。娘からの「問いかけ」に答えるために。(「癒されぬ輪禍」道警交通部編より。2004年改訂)

資料2 前田スライド

遺された親の苦悶:前田の講話スライド「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」より

 悲嘆と憎しみ、絶望と虚無感のなかで疲れ切り、抜け殻のようになった自分を隠し、世間の無理解に対し、感情を押し殺して表面をつくろい、「普通」に振る舞いながら、楽しい明日や未来は全く見えず、亡き長女のために、死んではならないから生きている。「心理的な死」「社会的な死」ということを実感

  • 辛いこと・・・亡き娘の誕生日、命日(毎月)、親戚の集まり、節目の行事(お正月、おひな様、こどもの日・GW、お盆、Xマス、年越し・・・)
  • 失った(使えなくなった)言葉・・・「おかげさまで」「新年おめでとうこさいます」「楽しみ」「充実」「生きがい」
  • 出来なくなったこと・・・家族の記録であるアルバムやビデオが観られない。趣味的楽しみ
  • 返答に困る言葉・・・「元気ですか」

資料3 小樽事件原野さん

小樽飲酒ひき逃げ事件で娘さんの沙耶佳さんを奪われた原野和則さんの言葉

「あえて娘を殺されたと言いますが、沙耶佳は一人娘で、私たち夫婦の身体の一部分でもありますし、心の全てだったのです。ですから現在、未来に希望とか目的もなく、死というものが身近なものになりつつあります。早く娘のもとに逝きたいという思いが毎日あって、ただ手ぶらで逝くわけにはいかないので、きっちり裁判員裁判で決着をつけてから、娘に報告できるものを持って逝きたいと考えています。」

(2015年1月、交通教育ジンポジウムにて)

(2)交通犯罪による、深刻な後遺障害の事例(重傷被害は死亡の8〜10倍)

  1. 遷延性意識障害:生命維持に必要な脳幹は生きている。
  2. 高次脳機能障害:交通事故などにより脳が損傷。外見では判断できず、本人や家族も認識しにくい。記憶障害、注意障害、感情障害、失語症、地誌的障害なとの症状がある。
  3. けがによる長期の後遺症

資料4 重症被害の会員の例

重症被害の会員、黒川さんの例

「44年前、17歳の時に酒気帯び運転の小型トラックに跳ねられ、脳挫傷で40日間意識不明の重症被害をうけました。半身に麻痺が残ったのですが、若く体力があったので、病院通いをしながら高校を卒業、就職も同とかできましだが、50歳を過きてから急に具合が悪くなり、歩くのがやっとです。既に時効で加害者からの賠償は受けられす、痛みと悔しさの辛い毎日です。」

(2015年5月、被害者の会の交流会での発言から)

(3)交通犯罪被害の深刻さと異常性

「日常化された大虐殺」

 2016年において生命・身体に被害を受けた人の数は65万1714人。
 このうち95.6%は、道路交通の死傷。

資料5 死者数

人命軽視の麻痺した「クルマ優先社会」による、「日常化された大虐殺」という現実

  • 2016年において生命・身体に被害を受けた人の数は、65万1714人。
     このうち95.6%は、道路交適の死傷。(H29年版「犯罪白書」より)
    ■交適死傷総数=62万2757人(死者5,278※厚生統計十負傷者61万7479人)
    ■殺人等一般刑法犯、死者:752人負傷者:2万8205人
  • 累積で戦後71年間(1946〜2016)の死者数は94万人、負傷者は4426万人(人口の3分の1)

人命軽視の麻痺した「クルマ優先社会」

 時間的空間的に分散して発生することによる感覚麻痺や、モータリゼーションに依存した消費社会によって形成された人命軽視の「クルマ優先社会」は、人の命を「仕方のない犠牲」とし、「便益」との「バランス」で考えることも可としている。

資料6

麻痺の例

  • 「事故だから仕方ない」
  • 「被害者は(加害者も)運が悪かった」
  • 「(誰もが加害者になりうる)過失犯だから罪は軽く」
  • 「お金で賠償すれば済む」...

※2016年3月策定の第10次交通安全基本計画に、「道路交通事故による経済的損失」として、「金銭的(人的)損失:1兆3590億円、非金銭的(死傷)損失:2兆3550億円」との記述がある。「9次計画」では、死亡1名あたりの損失額を2.6億円(うち非金銭的損失は2.3億円)、などと記述していた。

※1995年6月25日の朝日新聞記事(二木雄策著「交通死」岩波新書より)
「交通事故のように原因がはっきりしていれば、それなりに心の整理ができる」

(地下鉄サリン事件で大学生の子どもを失った父親)

「交通事故で死んだのならあきらめもつく」

(同じく、会社員だった息子を失った父親)

※宇沢弘文著「自動車の社会的費用」(岩波新書)より
「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しない限りにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」

※「(産業化された)危険社会」への警鐘
「今日ほどわれわれが新たな概念を必要としている時代はない」「危険を指摘する人間は『悲観論者』であり、危険を捏造する者であると誹謗される」「科学に対する批判や、未来に対する不安は「非合理主義」の烙印が押されてしまう、つまり、こうである。科学を批判し,未来に不安を抱くことは、諸悪の根源だ。快調に航海している船に波がつきもののように、進歩に危険はつきものだ。交通事故はその一例だ」
(ウルリヒ・ベック『危険社会』法政大学出版局1998年)

(4)未だ深刻な二次被害

 北海道犯罪被害者等支援条例案(2017年11月、道の素案→パブコメ終了→18年3月議会提案予定)の検討経緯で、「二次被害」の防止を条例に明記することを求める意見が反映。〈会報55号p12〉

資料7

二次・三次被害とPTSD

二次被害の定義

「犯罪被害者等が犯罪等によって被った害(一次被害)を原因として行政及び司法の担当者並びに市民等、事業者等及びマスメディア関係者等の偏見、無理解、差別等により被るプライバシーの侵害、名誉の毀損、精神的苦痛、心身の変調、経済的損失等の被害をいう。」

(「被害者が創る条例研究会」編集の「基本条例案」より)

三次被害

PTSD※など、被害経験に由来する本人自身の精神と身体状況の悪化や生活困難が長期化したもの。

PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)

 苦痛の体験があまりに強大すぎる~死の恐怖とか、全く予期できず考える事が不可能という体験~場合、耐える力(=自分を維持する能力)を溶かしてしまう。言葉的に耐える力がぶち抜かれ、感情的に耐える力も、情緒的、情動的、身体的に耐える力も、ズンと突き抜けて溶かしてしまう。そして、言葉を使って考える能力の部分も、視覚・聴覚を使って考える部分も、全部が混乱を起こす。症状として、怒りの爆発、唾眠維持の困難、集中困難、過度の警戒心、過剰な驚愕反応、フラッシュバックなどがある(精神科医、久保義彦氏の当会学習会でのお話より)

資料8 犯罪被害の心理的影響図

犯罪被害による心理的影響

(大和田攝子(2003)「犯罪被害者遺族の心理と支援に関する研究」より)

(5)犯罪被害者の苦悩(矛盾)

遺族は「代弁者」

 命を奪われた当人の無念は、遺された家族等によって代弁されるしかない。

被害者遺族(被害の当事者も同じ)にとって、もはや完全な「回復」はない

 元の姿で返してもらう以外完全な回復はない(「回復」の「空虚」性)のであるから、(そのような中で)いかなる支援や癒しを受けても、それは、本来あっては欲しくなかったという矛盾を抱えたこと(人との出会いも)であり、素直に受け入れられないという一面を持つ。

「損害賠償」や「慰謝料」を受ける矛盾

 命や健康を贖うことはできない。賠償や慰謝で「『一件落着』と納得したい世間」が辛い。
 私たち多くの被害者にとっては刑事裁判が全てであり、民事裁判は刑事裁判で明らかにならなかった事件の真相、原因などを明らかにし、故人の名誉を護る(長女の場合には過失ゼロということ)ためにのみ行う。

「被害者側」という言葉の不合理

 望んで被害者「側」になったのではない。自分の行った行為が因でその立場になった加害者とは本質的に異なる「立場」であるのに、「加害者側一被害者側」と同列視されるのは許されない。

被害者仲間との「哀しい」出会いという矛盾

 被害者の会は、そもそも生まれてはならなかった会であり、会員が増えて欲しくない会、早くその役割を終えたい会である。会の「発展」という言葉の矛盾がある。被害者団体の活動継続は困難で、常に存続の危機にある。

(6)被害者遺族が「生きる」理由・・・(私はの「遺志の社会化」のためにのみ必死に生きる)

人の死の4つの側面「死とどう向き合うか」(NHK出版アルフォンス・デーケン著)

  • 心理的な死・・・生きる目的・意欲の喪失
  • 社会的な死・・・社会や他者との関係性が希薄
  • 文化的な死・・・例えば音楽を聴けない、楽しめない
  • 肉体的な死・・・生理的な死

「回復」に必要な社会参加:対象喪失への適応の4つの基本課題(ウオーデン)

  • 喪失の事実を受容する
  • 悲嘆の苦痛を乗り越える・・・回避、否認はこの克服を妨げる
  • 死者のいない環境に適応する・・・死者の役割を身につけるような行動
    自分を責めたり、ひきこもりは適応を妨げる
  • 死者を情緒的に再配置し生活を続ける・・・死者の再配置:忘れることではなく、
    対象との新たな関係性の構築

「悲哀」について

 「適度の仕事、社会的役割が再起にプラスに作用していると考えられても、それは悲哀を軽減する処方箋としてではない。人はそれぞれに十分な悲しみを背負うことが許されている。悲しみとは愛の別のことばに他ならない。愛がないところに悲しみはない。愛の後には悲しみが来るのであり、悲しみは愛の予兆であり余韻であるともいえる。」

(「喪の途上にて」~大事故遺族の悲哀の研究~野田正彰著 岩波現代文庫より)

「遺志の社会化」ということ

 「亡き人の『遺志』なる実体を想定し、遺志を継承し何らかの形で社会的活動に変えることによって、故人の生命を永続させようという心理機制。
 遺族は『遺志の社会化』によって、『自らの再社会化』『社会関係の再構築』を行っている。」

(前記同)

2 北海道交通事故被害者の会の設立(1999年9月)経緯と活動概要

(1)会の設立と活動

資料9 会の概要

北海道交通事故被害者の会の活動概要

北海道交通事故被害者の会

 悲惨な交通事犯で最愛の家族を失った遺族や、体や心に深い傷を負わされた北海道の被害者でつくる会です。被害者どうしの相互支援と交流、犠牲を無にせず交通死傷被害根絶をめざす活動の二つを目的に1999年9月道警の呼びかけで発足し、以来(財)北海道交通安全協会の助成を受けながら活動しています。現在の会員数は121家族(114事例)で、およそ7割が被害者遺族、3割が怪我をされた方やその家族です。

〒060-0001 札幌市北区北30条西6丁目4-18 北海道交通安全協会内
Tel.011-299-9025 Fax.011-299-9026

〈活動内容〉

2017年5月の総会

(1)支援・交流

 月1回の世話人会・例会で、自助グループとしての支援、交流を行う。裁判について自主的に傍聴支援。医師や弁護土を講師にしての学習会なども実施。会報は年3回発行、通巻55号。

(2)事故防止活動

 被害の悲惨さ、かけがえのない命の大切さを訴えるため、発足以来、体験講話の要請に応えている。2011年より道警の事業「命の大切さを学ぶ教室」との連携もあり、中学・高校での回数が増えた。各種集会や矯正施設、免許停止処分者への講話も含め平成28年度は93回、受講者は1万8千人。2000年からの累計は1076回、受講者数は21万人。(2017年12末現在)

 また、北海道共同募金会の協力も得て、「いのちのパネル」と小冊子を作成。公共施設等で展示を行い、被害の実相と命の重さを訴えている。2017年は36か所、延べ136日の展示。2003年からの累計では347会場、延べ1543日間の展示。(前記同)
※写真は2017年11月16日、札幌駅地下歩行空間での「いのちのパネル展」(札幌市まちづくり局の協力、世界道路交通被害者の日に合わせて実施)

(3)公開フォーラム

 被害者の視点から、被害者の尊厳と権利の回復、および交通死傷被害ゼロを訴える「フォーラム・交通事故」を毎年開催し、関係機関や市民の方との連携を深めている。2009年からは、11月第3日曜日の「世界道路交通被害者の日」に連帯し、道や札幌市、そして民間団体の後援や協力を受け、「交通死傷ゼロヘの提言・北海道フォーラム」として開催している。

《これまでのテーマ》

  • 「これでいいのか交通事故」(2000 柳原三佳氏)
  • 「分離信号の必要性」(2001 長谷智喜氏)
  • 「事業用自動車の事故ゼロのために」(2001)
  • 「裁かれるのか、交通犯罪」(2002)
  • 「加害者天国ニッポン」(2003 松本誠氏)
  • 「歩行者と自転車の安全を考える」(2003)
  • 「高齢者を被害者にも加害者にもさせないために」(2004)
  • 「交通事故被害者の尊厳は守られているか~基本法とは~」(2005)
  • 「交通事故被害者の尊厳と権利をめざして」(2006)
  • 「被害者の尊厳と権利を護るために~基本法制定後の支援のあり方を考える」(2007 諸澤英道氏)
  • 「交通事犯被害者の現状と司法制度の課題~被害者参加制度と公正な裁判」(2008年)
  • 交通死傷ゼロヘの提言「まちと生命を守る脱·スピード社会」(2009 小栗幸夫氏)
  • 同「クルマ社会と子どもたち」(2010 今井博之氏)
  • 同「歩行者と自転車の道の革命~車道至上主義から道路交通文化の時代へ」(2011 津田美知子氏)
  • 同、シンポジウム「交通死傷被害ゼロのための刑罰見直しを」(2012)
  • 同「ワールドデイの今日的意義と日本の課題」(2013 小栗幸夫氏)※「交通死傷ゼロヘの提言」を採択。
  • 同「ゼロヘの課題と被害者の人権」(2014 島田尚武氏)
  • 同「飲酒運転根絶と交通死傷ゼロヘの課題」(2015 小佐井良太氏)
  • 同「ゾ一ン30と歩車分離信号の本格実施を」(2016 長谷智喜氏)
  • 同「安全運転教育・管理の問題点と、安全運転法の科学的な考え方・実行法」(2017年11月19日、松永勝也氏、写真)

(4)要請活動

 被害者の願いを24項目の「交通犯罪被害者の尊厳と権利、交通犯罪・事故撲滅のための要望事項」としてまとめ、内閣府、警察庁、法務省、国交省、厚労省に毎年提出。対道要請も行う。

資料10 北海道新聞記事

「北海道新聞」2017年11月28日

(2)当時(基本法以前)の「死人に口なし」「加害者天国」の実態

3 犯罪被害者等基本法(2004)、「基本計画」(2005年12月)の意義

(1)基本法は一筋の希望の光

基本法は、孤立無援で世間と隔絶された暗い穴蔵に押し込められたような被害者等にとって、一筋の希望の光でした。

(前文)「犯罪被害者等の視点に立った施策を講じ、その権利利益の保護が図られる社会の実現に向けた新たな一歩を踏み出さなければならない」
(第三条、基本理念)「すべて犯罪被害者等は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する

 基本計画の中での刑事司法の位置付け

「刑事司法は、社会の秩序の維持を図るという目的に加え、それが『事件の当事者』である生身の犯罪被害者等の権利利益の回復に重要な意義を有することも認識された上で、その手続が進められるべきである。この意味において、『刑事司法は犯罪被害者等のためにもある』ということもできよう。また、このことは、少年保護事件であっても何ら変わりはない。」

(「犯罪被害者等基本計画」Ⅲ重点課題の「刑事手続への関与への取組」より)

(2)犯罪被害者団体の活動と被害者の権利の前進

資料11 被害者の権利年表

被害者の権利問題経緯(※は被害者団体の活動関係)

1980年 犯罪被害者等給付金支給法成立
1985年 「犯罪および権力濫用の被害者のための正義に関する国連宣言」
1996年 警察庁の「被害者対策要綱」
2000年 犯罪被害者保護二法
全国犯罪被害者の会(あすの会)設立
2003年 犯罪被害者団体(14団体)が全国被害者支援ネットワーク主催の大会に集う
2004年 犯罪被害者等基本法制定(12月、施行は翌年4月)
2005年 犯罪被害者等基本計画を閣議決定(11月25日〜12月1日の犯罪被害者週間も)
犯罪被害者団体ネットワーク(※ハートバンド)が正式発足。以降、全国大会を主催
2007年 被害者参加制度と損害賠償命令制度など刑訴法等改正(実施は2008年12月)
2010年 公訴時効制度の一定の見直し(死刑については時効撤廃)

※ハートバンド(犯罪被害者団体ネットワーク)に参加する19団体の内訳
→ 殺人等:5団体、殺人等・交通犯罪:7団体、交通犯罪のみ:7団体

資料12

被害者対策要綱(警察庁、1996年)より

1 要綱の目的:この要綱は、警察が、被害者の置かれている現状を踏まえ、被害者の視点に立った各種の施策を総合的に推進するに当たっての当面の基本的指針を定めることを目的とする。
3 被害者対策の基本的考え方
(1)警察の設置目的の達成
 警察は、「1個人の権利と自由を保護」することを目的に設置された機関である。したがって、犯罪によって個人の利益が侵害されることを防ぐとともに、侵害された状況を改善していくことは、自らの設置目的を達成するために当然に行うべき事柄である。被害者対策は、警察の本来の業務であり、警察は被害者を保護する立場にある。
(3)捜査過程における被害者の人権の尊重
 犯罪捜査における個人の基本的人権の尊重については、被疑者の人権のみならす、被害者の人権に対する配意も当然に含むものである。警察は、被害者に敬意と同情をもって接し、被害者の尊厳を傷つけることのないよう留意することが求められている。

(3)被害者の尊厳と権利のための4つの基本

  • 被害者の尊厳が護られる権利:加害者への公正な処罰、謝罪、再発防止など
  • 知る権利:なぜ事件が起こり、どのようにして被害に遭ったか。裁判や加害者の処遇なども
  • 司法手続に参加する権利:公正捜査と真実に基づく公正な裁きの為に当事者として参加できる
  • 生活も含めた生きるための支援:二次被害を受けない。損害賠償、行政からの支援など。

(4)会の要請活動から~刑事司法に関して重視してきたこと~

・危険運転致死傷罪なと刑罰の適正化

資料15 小樽事件の会報誌面

会報46号(2015年1月)記事より

資料16 「刑事法ジャーナル」について

「クルマ社会を間い直す会」への投稿文(一部改訂)

小樽一旭川事件と自動車運転処罰法
「刑事法ジャーナル」が危険運転致死傷罪の拡大の意義など特集

前田敏章(北海道交通事故被害者の会)

1 はじめに

 ご支援をいただいている旭川事件は、2018年2月現在札幌高裁にて審理中(注1)であり、貴重な旭川地裁判決の危険運転での確定を求め傍聴支援を行っているところです。
 この間、この旭川事件および小樽事件などにかかる、私たち被害者や支援の団体などが求めてきた危険運転致死傷罪の公正な適用と、その条文を含む自動車運転死傷行為処罰法の全般的課題について述べた大変重要と思われる論説(注2)を目にしましたので、思いの一端を述べます。

2 旭川事件、地裁判決の意義と控訴審

 旭川事件の地裁判決の意義については、(当会会報54号記事の)青野弁護士報告にある「福岡事件小樽事件旭川事件」比較表(注3)が重要で分かりやすいと思います。2001年の危険運転致死傷罪(以下〈危運罪〉)の制定から16年、改正を加えて一つの法律にまとめられた2013年の自動車運転死傷行為処罰法(以下〈処罰法〉)制定から4年を経た今日、これらの適用をめぐる問題点と課題が、今後の法体系のあり方として改めて問われる中、旭川事件の司法判断は極めて大きな意味を持つと思われます。そのことを示唆する記事が「刑事法ジャーナル」(注2)に掲載されていました。「自動車運転死傷行為等処罰法の動向」という巻頭特集です。
 特集冒頭「危険運転致死傷罪の拡大の意義と課題」の執筆者、首都大学の星周一郎教授はその論説で、2014年の夏に私たちがご遺族と共に訴因変更を求めて必死の思いで要請署名活動を行った小樽飲酒ひき逃げ4人死傷事件の高裁判決(注4)を評価し、今後の課題として〈危運罪〉の構成要件のさらなる明確化などを挙げています。私はこの指摘からも、旭川事件の地裁判決が、「正常な運転が困難な状態」として、ハンドル操作など身体機能面の能力低下の明確な証拠がなくとも、その基礎となる自制心や判断力の低下を理由に〈危運罪〉の成立を認めた意義は大きく、来る札幌高裁の判断は極めて重要と考えるところです。

3 「刑事法ジャーナル」の特集が自動車運転処罰法の見直しの要を示唆

 貴重なのは、星教授が後段の「現行規定に対する世論の批判の内実」の項で、その背景にある法制定の歴史的矛盾(注5)にも言及しながら、〈危運罪〉のかなり謙抑的な適用と、ひきかえ交通死傷被害の甚大さとその悲惨さ、そして〈危運罪〉適用の有無による帰結のあまりの差異、これらから生ずる世論の刑事司法に対する「不信感」と、「適正な処罰」を求める止まない声を指摘していることです。
 私は、星教授が、論の終わりを「自動車運転死傷行為処罰法の法定刑について、改めて検討が迫られるような局面が早晩訪れる可能性も否定出来ないように思われる」と結んでいることに、確かな希望の光を感じることが出来ました。交通犯罪被害遣族である私は、無念の長女から託された使命(注6)を果たそうと必死の毎日であるからです。
 そして勇気を得たのは、星教授に続いて、同志社大学の川本哲朗教授が「過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪について」という論説の結びで、〈処罰法〉が「弥縫的な解決に止まっている」という見方を示し、「今後はさらに検討を重ねて、総合的かつ合理的な犯罪抑止を図っていくべき」と、重ねて〈処罰法〉の見直しを今後の課題としていることです。
 特集の最後では、最高検察庁の城 祐一郎検事が「自動車運転死傷行為等処罰法に関する実務上の諸問題」の中で、やはり北海道で発生し私たちも支援している砂川飲酒暴走・家族5人死傷事件の判決での共謀関係の認定(注7)を「極めて画期的な判断」と評価し、その思考過程を丁寧に検討していますが、後半では、福岡事件と小樽事件に言及しながら、星論文と同様に「正常な運転が困難な状態」の新たな認定例として肯定的に論じています。
 私たちはこれまでに、まさに必死の思いで、命の尊厳を普遍的価値とし、動機など意思責任ではなく結果の重大性・結果責任を裁く刑罰をと、法の改正を求めてきました(注8、9)。2001年に〈危運罪〉が設けられた時も、これが「絵に描いた餅」になってはならないと、その不備な部分を当初から指摘していました。
 2004年制定の犯罪被害者等基本法などに、私たちが願う「被害者の視点(命の尊厳)からの社会正義」という方向への兆しを感じますが、刑事司法における確かな流れを作るために、関係機関、団体、研究者、メディア、そして市民の皆様の一層のご理解とご支援が必要です。被害者に共通の「こんな悲しみ苦しみは私たちで終わりにして欲しい」という切なる声を聴いて下さい。

注1:(旭川事件の経過概要)2016年5月4日、北海道旭川市の小学校教諭中島朱希さんは、飲酒暴走運転の加害者により交通死されました。当初地検は運転操作ミスという過失運転で起訴しましたが、遺族と支援の連絡会で危険運転罪適用を要請し、同年7月訴因変更されました。翌2017年7月6日、一審旭川地裁は法2条1号の成立を認め、懲役10年の判決。しかし被告は不当に控訴、10月17日に始まった二審で審理中です。
注2:「刑事法ジャーナル」、成文堂、第52号、2017年5月刊
注3:青野弁護士作成の比較表

呼気中
アルコール
濃度
10秒直立 10m歩行 事故の異常性 裁判結果
福岡事件 0.25mg/l
(48分後)
できた 正常 時速100キロで一般道を走行しながら前方を走行している先行車に衝突(8秒以上前から見えると認定) H20.1.8 福岡地裁危険運転否定
H21.51.5 福岡高裁危険運転成立
H23.10.31 最高裁危険運転成立
小樽事件 0.55mg/l
(44分後)
できた 正常 歩車道の区分のない道路を時速50〜60キロで走行しながら4人の成人女性を発見できずに衝突(15〜20秒もスマートホンを見ていたと認定) H27.7.9 札幌地裁危険運転成立
H27.1.28 札幌高裁危険運転成立
H29.4.18 最高裁上告棄却
旭川事件 0.45mg/l
(42分後)
できた 正常 時速119キロで中央分離帯に衝突 H29.7.6 旭川地裁危険運転成立

注4:この時点では(小樽飲酒ひき逃げ事件の)2017年4月18日の最高裁決定には言及されていません。

注5:「従来、交通死傷事犯が刑法犯としては過失とする処罰に限られていたのは、現行刑法典が、自動車交通が普及する前に制定されたという偶然的事情のもとでの、罪刑法定主義、処罰の断片性等の、刑法の基本原則に基づく帰結であった。」(「刑事法ジャーナル」No.52、p9)

注6:22年前、17歳の長女千尋は、学校帰りの歩行中、前方不注視(カーラジオ操作による脇見)の加害者に後ろから轢かれ、その全てを奪われました。重大過失の加害者に下されたのは「禁固1年、執行猶予3年」という寛刑。当時の「加害者天国」の法廷傍聴席で、私は手許の小さな遺影に向かい「千尋、お父さんはこんな理不尽を絶対に許さないから」と誓ったことを決して忘れません。

注7:2015年6月6日発生の砂川事件は、2016年11月10日の札幌地裁判決で、事故直前の走行状態などから、殊更赤信号無視についての暗黙の共謀を認め、両被告に懲役23年の判決が下されました。2017年4月14日の札幌高裁でもこの判決は維持されましたが、被告の1人は上告しています。

注8:私は数年前より体験講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」の中で、命の重みに見合う刑法になっていない問題点として、危険運転罪の「故意」の立証が難しく、悪質運転への適用率が極端に低いままとなっている。死亡交通事件の6割を占める脇見などの漫然運転が、結果の重大性に見合う刑罰になっていない。「刑の裁量的免除規定」が残されており、「交通犯罪は軽く」の底流は変わっていない。の三つを挙げ、自動車運転死傷行為等処罰法のさらなる改正を強く訴えています。

注9:以下は北海道交通事故被害者の会が毎年関係省庁に提出している要望書「交通犯罪被害者の尊厳と権利、交通犯罪、事故撲滅のための要望書」の中の関係項目です。
(第4項)「交通犯罪を抑止し、交通死傷被害ゼロを実現するために、交通犯罪に関する刑罰適正化を進めること。」
4-1 自動車は、その運転方法いかんによっては、凶器となる。そして、危険な運転によって重大な被害をもたらすことは、これまでの幾多の事件により明らかである。危険な運転行為を行い、その結果、死傷の結果を生じたのなら、他の過失犯よりも重い処罰を科すことが、交通犯罪抑止のために不可欠である。「自動車運転処罰法」の危険運転致死傷罪等については、目的などの主観的要素の要件を緩和するなど、危険な運転行為一般に適用可能な内容に改正すること。同じく過失運転致死傷罪の最高刑を引き上げること。死亡事件の最低刑を罰金刑ではなく有期刑とすること。
4-2 交通犯罪に対する起訴便宜主義の濫用を避け、起訴率を上げること。新法(自動車運転処罰法)第5条に残された「傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除できる」という「刑の裁量的免除」規定は即刻廃止すること。

・交通事故調書の早期関示

・刑事裁判における被害者参加、起訴段階での被害者の関与

公判前整理手続きにおける不公正の是正なと・・・法務省の「平成19年改正刑事訴訟法に関わる意見交換会」(被害者団体代表も委員)を経て、発出された最高検通達「犯罪被害者等の権利利益の尊重について」(平成26年10月21日)は、公判前整理手続きに被害者の傍聴の道を開くなど、貴重。詳細は↓

4 基本法から13年、被害者の尊厳と権利のための今後の課題

(1)

 被害者に同か落ち度があったのではないかという偏見や、被害者の発言が「被害者感情」という言葉で括られ、およそ理性的ではないものと曲解されるなど日本の歴史的課題は根深い。被害者の尊厳が護られる社会について、国連被害者人権宣言に常に立ち戻る必要がある。

資料17 国連宣言

「犯罪および権力濫用の被害者のための正義に関する国連宣言」(1985年)

  1. 保護の対象となる被害者とされるためには加害者が特定されていなくても、逮捕・起訴されていなくても、有罪にならなくてもよい。また、被害者の親族、被扶養者のほか、被害者を助けようとして被害を受けた者も、被害者に準じて保護される。
  2. 被害者は、その尊厳に対して同情と尊敬の念をもって扱われる。
  3. 被害者には、司法制度に参加して、速やかな損害回復を求める権利がある。
    (※ 犯罪者が裁かれる全プロセスに関わることができる)
  4. 被害の回復は迅速で、公正で、費用がかからず、利用しやすい方法で行われる。
  5. 被害者には、司法および行政の手続きの各段階で知る権利がある。
  6. 被害者は司法手続きのそれぞれの段階で援助を受けることができる。
  7. 被害者のプライバシーは守られる。
  8. 被害者やその家族、証人は、生活の安全を保障される。
  9. 被害者は、速やかな国家補償(compensation)を受けることができる。
  10. 犯罪者および被害に責任がある第三者は被害者に被害弁償をしなければならない。
  11. 被害者は、政府、ボランティア、地域の各種機関から、様々な支援と援助を得られる。
  12. 国は、被害者補償のための基金や財政をつくらなければならない。
  13. 国は、被害者にかかわる専門の職員に定期的なトレーニングを行わなければならない。

 「基本法」第3条で使われている「(犯罪被害者等が)再び平穏な生活を営むことができるように」は、そう見えるだけで、実際には平穏な生活ではない。「元に戻られる」という誤解や偏見を招く表現を改めることは、社会全体の被害者理解を深める上で重要。北海道の被害者支援条例案では、この主旨から「安心して暮らすことができるよう」と、より配慮された記述に変更された。

(2)自動車運転死傷行為処罰法の適用と改正の課題

交通犯罪を特別の犯罪類型として重罰化すること
 → 2001年の「危運罪」、2013年の「自動車運転死傷行為処罰法」でその端緒が開かれたが末だ不十分。

「危運罪」の適用要件緩和すること(「故意」の立証が難しく、悪質運転への適用率が低いまま)

死亡交通事件の6割を占める漫然運転などを、結果の重大性に見合う刑罰に改めること。
 「処罰法」5条の過失運転致死傷は、刑の上限を15年とするなど、大幅に引き上げる。また、死亡させた場合の最低刑を罰金刑ではなく、有期懲役1年以上とし、負傷の場合も罰金刑は無くすること。

交通犯罪が軽く扱われる一因でもある、「処罰法」5条の「刑の裁量的免除」規定は廃止すること。

 課題:意思責任をことさら問い、結果賣任をあいまいにする近代刑法の問題が根底にある。

資料13 佐藤直樹氏の論説

近代刑法に根本的問題→被害者の視点から見直しを

 「さらに近代刑法は、前近代「刑法」の結果責任より、意思責任へ「発展」した、といわれる。しかし、その個人の意思内容はきわめて矮小化されていったのである。・・・それとともに意思内容をきわめて限定的に考えていったのである。それがもっとも典型的にあらわれたのが交通事故で、産業交通が交通事故の発生を前提に存在している以上、その存在を必要悪として認め、実際に事故が生じた場合には、なるべく軽い罪ですますようにしたのである。そのために、もともとそのようなものではありえない意思内容・故意内容をきわめて限局し、そのことによって、故意ではなく(しかもきわめて軽い)過失によって処罰することを可能としたのである。(佐藤直樹著「共同幻想としての刑法」p187、188)

資料14 適正刑罰を求める理由

交通事犯の適正な(命の重みに見合う)刑罰を求める理由・・・被害者理解のために

「私たちが重罰化を望むのは、感情に流された「報復」の意識では決してありません。理不尽に、通り魔殺人的被害で命や健康を奪われ、悲惨な状況におかれた私たち被害者・遺族は、悲嘆と絶望の痛みをわかる当事者だからこそ、同じ被害者を生まない社会を創って欲しいと願い、それが死者への供養になるのでは、という純粋な気持ちになるのです。私たちが常に思い浮かべるは「命の尊厳」という言葉です。私たちの願いは、奪われた肉親を、損なわれた健康を元のままで返して欲しい、それしかありません。それが叶わないのであれば、せめて命を、犠牲を、無にして欲しくないと願い、命の重みに見合う刑事罰が科せられて交通犯罪抑止につながることを望むのです」(前田)

(3)「被害者より加害者を助ける」悪しき「人権論」(2極対立構造)の克服など。

資料18 悪しき「人権論」

元道警本部長、島田尚武氏の、当会主催フォーラムでの講話レジュメから(2014/11/16)

「愚かな人権派」

◆公権力は敵 ◆被疑者被告人の人権保護こそが任務 ◆立証しにくい条文つくり(精密司法)・・・市民の常識に合わない法律 これが人権保護、罪刑法定主義のつもり
◆被害者の存在を否定、敵視。「逃げることは権利」=「逃げ得文化」の発生
◆時効、民事不介入の原則、黙秘権

「賢い人権派」

◆公権力を被害者のために活用する ◆「警察は味方だ、敵ではない」
※ 講演、署名活動、検察審査会などで、意識を変え、法律を変え、法解釈を変える
「ポピュリズム」との侮蔑は正しくない。被害者の会は「善良な市民の常識と健全な正義感」を具現

資料19 岡村勲氏発言

法制審議会刑事法部会での岡村勲氏(あすの会代表幹事:当時)の重要な発言

「まず基本的な考えですけれども、被害者が参加すると言いますが、これは当然のことだと思っております。自然状態においては、危害を加えられたものは反撃するという権利は当然にあったわけです。ところが、復讐が復讐を呼ぶと社会の平和が乱れるということで、刑罰権は国に信託譲渡したと社会契約説では説明されております。我が国の憲法もその社会契約説にのっとってつくられております。刑罰権というものを国に信託譲渡しますと、当然そこで裁判所というものを国はつくることになる。そうすると、自分で行使した刑罰権というのは,訴追権という格好で自然権として残るわけなんです。だから、刑罰は自分では科せないけれども、裁判所に向かって、「この男にこんな犯罪を受けました。調べてください、証拠があります」というところは自然権として残っていなければおかしいと思うんです。そこまで国に被害者は譲った覚えはない。(中略)それが今の制度では、刑事司法は公の秩序維持のためで、被害者のためではないと言っている最高裁判決は、憲法違反である」

(2007年10月3日、第1回会議)

資料20 最高裁判例

上記指摘の最高裁判例の問題・・・この見直しが急務

「犯罪の捜査及び、検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし、損害の回復を目的とするものでなく、また、告訴は、捜査機関に犯罪捜査の端緒を与え、検察官の職務発動を促すものにすぎないから、被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は公訴の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである

(H2年2月20日第三小法廷判決、判例880号)

(4)

こうした中で、刑事裁判における被害者参加制度は、大きな前進であり、この純化・実質化が課題。
前出の最高検通達「犯罪被害者等の権利利益の尊重について」(H26年10月21日)の徹底など

(5)

具体的に生活支援(生きるための支援)などを行う地方自治体での条例を核とする施策の推進。
新たな被害者補償制度の創設。

(6)

 以上の課題の基礎となるのが社会全体の被害者理解の深化。(下図)

 基本計画で進められている各種施策(被害者理解の研修や市民集会、学校教育での「命の大切さを学ぶ教室」など)の継続は重要。

資料21

「命の大切さを学ぶ教室」での講話「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」後の感想文より

■ 私は今の社会が進歩するには、機械や新しい物をつくり他国に負けないような活動をしなければならないと考えていましたが、今日のお話を聞いて、今の社会は一番近くにある命を第一に考え、国や政治、世界を改めなければならないと思いました。私はこれから、この世界にある一つの命として生きていきたいし、周りにいる人々の命を落とさないような社会を作っていってほしいです。

(2015/11/16 南富良野中学校 2年女)

■今回のこの貴重な講演の中で、命の大切さとともに、クルマの危険性をあらためて強く感じたわけですが、もっと感じたことは、日本の社会自体を変えなければいけないということです。交通事故が起こる要因として、加害者のクルマと人への軽視が前提にあるのはもちろんですが、そういった人たちを産み出している社会、それを受け流すかのような刑罰の軽さなどによる国の対応、それらが背景に大きくあるように思いました。交通事故による死亡事故は、人が人を殺めているのではなく、国や社会が人を殺めているのではないかと痛感致しました。

(2012/10/11 苫小牧西高校3年女)

■交通事故も人を殺したということでは殺人と同じなのに、不注意だからと、罪が重くないのには、同じ命で尊さは平等なのにおかしいと疑問に思いました。

(2011年 札幌市立青葉中学校2年女)

■本当はみんな、人をうらみたくないと思うから、人をうらんだり、うらまれたりしない為に、精一杯のことをしなければいけないと思います。少しのギセイは当たり前と思っているような社会からこの国は変えていかなければならないのだろう。

(2011/4/27 江別高校3年女)

※補足の参考資料として

資料22 「修復的司法」の問題

ブログ「犯罪被害者の法哲学」
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/74bb3d992d990ac39fb9759edbe366d2 より

 修復的司法の思想は、刑法犯のみならずDVやいじめをも射程に捉えるものであり、現行の刑罰制度にとって替わろうとするまでの壮大な体系を有している。しかしながら、この思想は現在のところ、厳罰化を食い止めようとする政治的勢力によって重宝されている反面、肝心の被害者にはほとんど支持されていない。修復的司法は、狭義においては「被害者・加害者・地域社会の3者によって犯罪を解決すること」と定義されており、被害者の支援・加害者の援助・地域社会の再生などの理念が上位概念として据えられている。そして、この究極的な理念において、被害者の応報感情や厳罰感情は発展的に解消され、一元的な解決が図られることになっている。このような捉え方は、人間の名付けられない複雑な感情を一元的な体系に押し込みすぎており、そこからこぼれ落ちているものがあまりに多い。
 修復的司法の思想は、これまで犯罪被害者が刑事裁判の枠組の外に置かれてきたことを反省し、被害者と加害者との対話の重要性を指摘する。これは、実際に多くの被害者が求めているものとはテーマが全く食い違っている。被害者は何よりも全身を打ちのめされるような絶望と虚脱感、生きる希望を失った虚無感の中で、この世の不条理に否応なしに直面させられている。中でも最大の不条理とは、修復の不能である。このような救いのない状況における唯一の救いとは、その救いのなさと不条理の原因を正確に知ることである。その上で、近代法治国家においては裁判のシステムが確立されており、被害者は事件の不可欠な構成要素である以上、当事者の地位から排除されているのは本末転倒であるとして、刑事裁判の枠組の中に入ることが正常な制度であると述べているものである。
 応報から修復へ、憎しみから赦しへ。このような方策を講じるために、被害者の苦しみや怒りを和らげようとする支援策の動きは多い。しかしながら、被害者支援というものの性質上、本来このような「支援の輪」というものは論理的に広がってはならない。ここが、何らかの政治的主張を通すために集まっている市民運動の集団とは本質的に異なる点である。犯罪被害というものは、本来断じてあってはならず、悪夢でなければならず、現実を受け入れてはならない。ゆえに、カウンセラーや支援者の人達とも、本来は人生の中で一度も出会ってはならないはずである。カウンセラーによって癒されれば癒されるほど、支援者によって救われれば救われるほど、本当は人生において出会うはずのない人に出会ってしまったことの論理矛盾は深くなる。心のケアの先に立ち直りというゴールがあるとの単純な捉え方は、この逆説を見落としている。
 日本社会や世界経済のことなどどうでもよい。願いはただ一つだけ、愛する人を返してほしい。このような偽らざる人間の直観に対して、「広く社会を射程に捉える壮大な体系」をぶつけることは、それ自体が鈍感な暴力である。被害者にとって、人生のうちで絶対に出会ってはならなかった者とは、言うまでもなく加害者である。特に、その時が初対面であるような通り魔的な加害者とは、絶対に出会ってはならなかった。ここで、被害者と加害者、さらにはその親族や地域の人々が一堂に会してお互いの気持ちを語り合う場を提供されるならば、これは暴力が拡大するだけの話である。被害者が嫌でも加害者に向き合わなければならないことは、それ自体が新たな絶望である。どうしたら被害者の心が癒されるのか、加害者が立ち直れるのかを話し合った先に示される事実とは、時間は戻らず死者は帰らないということである。すなわち、「修復」という概念の不可能である。

資料23 さだまさしの「償い」について

さだ まさし作詞・作曲の「償い」の読み方と、各種教育の場で使われることの「功<罪」

月末になると ゆうちゃんは 薄い給料袋の封も切らずに 必ず横町の角にある郵便局へとび込んでゆくのだった。仲間はそんな彼をみてみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと 飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり
僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ たった一度だけ(この言葉は何を言いたいのか)哀しい過ちを犯してしまったのだ
配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影にブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた(重大な結果を招く過失行為を軽視)
人殺し あんたを許さないと 彼をののしった 被害者の奥さんの涙の足元で、彼はひたすら大声で泣き乍ら ただ頭を床にこすりつけるだけだった それから彼は人が変わった
何もかも忘れて 働いて 働いて 償いきれるはずもないが せめてもと 毎月あの人に仕送りをしている
今日ゆうちゃんが 僕の部屋へ 泣き乍ら走り込んで来た しゃくりあげ乍ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた それは事件から数えてようやく七年目に初めて あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り
「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に 主人を思いだして辛いのです(これが被害者の今も赦せないという心情であり、下記コラムの「突き刺さった」は、この心情への共感) あなたの気持ちはわかるけど
それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
手紙の中身はどうでもよかった(身勝手と言えないか) それよりも 償いきれるはずもない あの人から 返事が来たのがありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて(身勝手と言えないか)
神様って 思わず僕は叫んでいた 彼は許されたと思っていいのですか(奥さんは赦したとは言ってない。赦しはもしあるとしても、もっともっと遠い先) 来月も郵便局へ通うはずのやさしい人を許してくれて ありがとう
人間って哀しいね だってみんなやさしい それが傷つけあって かばいあって(美談に仕立てることで、交通被害頻発の容認にならないか) 何だかもらい泣きの涙が とまらなくて とまらなくて とまらなくて とまらなくて

※「償い」についての被害者からの投稿コラム記事

高橋香澄(44歳・主婦、札幌市手稲区)
 ラジオから聞こえるさだまさしさんの「償い」という曲を聞いていて涙があふれてきた。(中略)
 たぶん普通の人なら、その青年の「誠意」に涙するのだろう。加害者もまた被害者と思うのだろうが、私にはその歌詞の「あなたの字を見ると主人を思い出しつらい」という言葉が突きささった。
 10年前、私たちの小1の長男は、学校帰りに脇見運転の車にはねられ、30日間意識不明のまま天国へ行ってしまった。息子のことは毎日忘れることはないけれど、事故そのものは考えたくない。この歌の中の人もそうなのだろうと勝手に解釈をした。
 音さたのない加害者に毎日後悔してほしいとは言わないが、たまには息子のことを思い出して胸が痛むようでいてほしいと思うのは、残酷だろうか。
 いろいろな思いがうずをまき、ただただくやしくて泣いている自分に気がついた。(中略)
 当時、幼稚園だった上の娘は今、中学生。そして…兄を知らない下の娘は、この4月、兄がなれなかった小学2年生になる。

(2002年3月4日 北海道新聞 「いずみ」欄)

※さだ まさしの「償い」について・・・上記高橋さんの悔しさとダブる私の思い

 「仕送り」は、せめてもの償いの気持ちであり、その行為は(それぞれの事件の被害者と加害者との関係性の中での)ケ一スによっては、尊い行為と言える場合もある。
 しかし、この被害者の場合は、7年間「仕送り」される度に、事件を思いだして辛かったのである。友人が「彼は許されたと思っていいのですか」と語っているが、奥さんは「辛いから止めて欲しい」と言っているのであって、赦しではなく、これ以上関わらないで欲しいという絶縁の手紙という意味合いも強いのである。赦しと勝手に受け取っているのは自分本位である。自分の思いだけでは、被害者には「償い」としては届かない。犯した罪の結果はそれほど重く、償うとはそれほど困難な事なのだ。
 この曲を通して、7年間続けた自分の行為すら相手には届かないこともある。それほと贖罪とは難しいものであることだということを教えるのなら意味はあるが、「ゆうちゃんの行為がまさに『償い』だ、見習いなさい」と伝えるだけならあまりにも薄っぺらである。それは、この詩の内容からしたら「誤読」であり、被害者はこのように加害者を赦すものなのだという間違った被害者観につながり、それは、根の深い「クルマ優先社会」の容認(=交通死傷被害の頻発)にもつながる。
 償いについて考えさせる「教材」としては菊池寛の『恩讐の彼方に』(民話として伝わる『青の洞門』)、あるいは東野圭吾の「手紙」の方が適切なのではないか。

-論考・発言
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