交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)

【コラムNo.006】2000/11/18 交通事故被害は「社会的費用」?!

2000年11月18日

「交通安全白書」にみる総務庁の「クルマ優先社会」思想

 総務庁が編集・発行し国会に報告される「交通安全白書」(以下「白書」)平成12年版を改めて読んだ。その中に、交通事故被害を仕方のない「社会的費用」とみなすという驚くべき記述を読み、異常な「クルマ優先社会」を政府自らがつくりだしていることに改めて怒りを覚えた。

 交通安全白書の道路交通の部では、第2章でその年度の特集を組むのが習いのようである。H10は「若者の交通事故の状況とその対策」H9は「高齢者の交通事故の状況とその対策」H8は「交通安全対策の今後の方向」H7は「夜間死亡事故の状況とその対策」であった。

 そして平成12年版「白書」の特集は「『交通事故における弱者及び被害者』の視点に立った交通安全対策と今後の方向」である。
 この表題をみたとき、近年被害者問題がクローズアップされているので、総務庁もそうした観点でこれまでの交通安全対策を反省的に捉え特集したのかと、淡い期待をもって読み始めた。
 しかしそこには人命軽視、人権無視の政府総務庁の驚くべき認識があからさまに述べられており、期待はずれなどというものでなく、戦慄さえ覚えてしまった。一部を引用する。

「・・・例えば「交通弱者」と言われる者が自動車運転中や自転車乗車中に加害者となる事故があることも考えれば、「交通事故における弱者」と考えられる者も立場を変えれば、自らが「強者」になることがあるという点である。また、歩行者、自転車乗用中の者が死亡事故の第1当事者となっている事故が平成11年では662件(全死亡事故件数の7.6%)発生していることに照らし合わせると、国民皆免許に近い状況にある現代においては、善良な市民が、自動車運転中に、「交通事故における弱者」の過失をきっかけとして、自らのふとした過失が増幅されて他人を死傷させる結果をもたらし、それに対し法律上の責任のみならず、精神的な苦痛を負うことになることもあり得るとも言える。

このように、現代の自動車社会においては、誰もが一生を通じれば、自らの過失の有無及び軽重の差は別として、交通事故の当事者になってしまう危険と背中合わせであると言ってもよく、したがって、「交通事故における弱者及び被害者」の視点に立った対策は万人のためのものと言える。換言すれば、交通事故の問題を考える場合には、自己責任により、他人を傷つけることなく、また、自らを守ることを原則としつつも、社会として自動車交通の便益を享受している以上、自動車交通社会の便益の裏返しとしての社会的費用である交通事故の被害を最小化するとともに、その負担を個人の苦しみとしては可能な限り軽減するため、社会全体がバランスよく負担していく方向で関連する施策を強化していくことが必要である。」
(平成12年版「交通安全白書」p35~36 )

 これは一体どう理解すれば良いのだろう。

 今や、「国民皆免許」の時代であり、「善良な市民が」歩行者等の「過失」(7.6%はそんなに大きい?「(車輌の運転者は)歩行者に危害を及ぼさないようにする等車輌の安全な運転に努めなければならない」(「交通安全対策基本法」第8条)という歩行者保護の観点はどこへ?)によって、事故に遭うこともあるのだから、もう「交通弱者」という保護の観点は必要なく、ある程度仕方のない「自動車交通の便益の裏返しとしての社会的費用である交通事故の被害」を「バランスよく負担」していく施策が大切だ。

 こう言っている。

 私たちの娘の犠牲に裁判所が下した判決も同じ思想だ。
 千尋は、こうして社会的につくられた人権無視、人命軽視の「クルマ優先社会」の犠牲になったのである。

注:「交通安全白書」は「交通安全対策基本法」の第13条、(国会に対する報告)「政府は、毎年、国会に、交通事故の状況、交通の安全に関する施策に係る計画及び交通の安全に関して講じた施策の概況に関する報告を提出しなければならない」に基づいて報告されるものと思われる

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