交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)

【コラムNo.031】 2012/8/11 今こそ危険運転致死傷罪など刑法の全面的見直しを(その1)

2012年8月11日

■2012年8月7日の北海道新聞は「危険運転の適用拡大へ 法相 来月、刑法改正を諮問」との見出しで、滝実法相が法制審議会に刑法改正を諮問する予定であることを報じました。交通犯罪の厳罰化(=適正化)を一貫して求めてきた者の1人として、今回の改正が確かな一歩になる事を期待するとともに、より抜本的な改正内容となるよう働きかけを強めたいと考えます。

■今回の刑法見直しのきっかけとなった事件は、京都府亀岡市で起きた、無免許の18歳少年が集団登校の列に突っ込み、4人(1人は胎児)死亡、児童7人が重軽傷の被害にあった事件です。被害遺族の会(代表中江義則さん)が、悲しみと無念の中、危険運転致死傷罪適用を求める署名活動を行い、21万人以上の切実な声を関係機関に届けました。この訴えは、同じく危険運転致死傷罪の不備を訴え取り組んでいた名古屋の被害遺族眞野哲さんともつながり、心ある国会議員による「危険運転致死傷罪を考える超党派の会」結成(6月5日)へと進展しました。

発足以来交通犯罪の厳罰化を求め、要望書を出し続けてきた北海道交通事故被害者の会も、6月15日、法務大臣および超党派の会宛、交通犯罪への刑罰適正化を求める要望書を提出したところです。(下記が要点)

〈北海道交通事故被害者の会の交通犯罪の刑罰適正化に関する要望〉

  1. 自動車は,その運転方法いかんによっては,凶器となる。そして,危険な運転によって重大な被害をもたらすことは、これまでの幾多の事件により明らかである。危険な運転行為を行い,その結果,死傷の結果を生じたのなら、他の過失犯よりも重い処罰をすることが、交通犯罪抑止のために不可欠である。交通犯罪は特別の犯罪類型として体系化すること。
  2. 危険運転致死傷罪については、目的などの主観的要素の要件を緩和するなど、危険な運転行為一般に適用可能な内容に改正すること。
  3. 「自動車運転過失致死傷罪」の最高刑を大幅に上げること。死亡事件の最低刑を懲役1年以上とすること。
  4. 飲酒によるひき逃げの場合の、「逃げ得」という矛盾を生まないことなど適正な刑罰とすること。
  5. 交通犯罪に対する起訴便宜主義の濫用を避け、起訴率を上げること。刑法211条2項の「傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除できる」という「刑の裁量的免除」規定は廃止すること。

■しかし、今回の見直しに、現在の危険運転致死傷罪のそもそもの矛盾~自動車運転において傷害罪と同じくその「故意性」の立証を求めている~を改めることが課題として入っているのかどうか不明な点が気掛かりです。最高刑が7年にすぎない自動車運転過失致死罪最高刑の大幅引き上げや、「逃げ得」を無くする法改正など、今こそ全面的な刑法改正が強く求められます。

■2001年に被害遺族が懸命に声をあげ、ようやく成立した危険運転致死傷罪ですが、当時の国会の付帯決議、法自体の不備、そして司法の場での不適切な運用の為、該当交通犯罪に対する適用率は極端に少なく、平成22年における危険運転致死傷罪の検挙人員は,336人で,自動車運転過失致死傷等の検挙人員(70万581人)の2千分の1、致死事件に限ると危険運転致死罪の検挙人員は31人で、自動車運転過失致死及び業務上過失致死(4,002人)の130分の1にすぎません。(H23年版 犯罪白書より)これまでの幾多の犠牲を無にしないよう、一部手直しに留まらない改正を迫らなくてはなりません。

■こんな不条理が何故早期に改まらないのか、との思いが募る中、7月13日の北海道新聞の評論記事が、目に留まりました。「近代刑法貫く「意思責任」、結果軽視の弊害修正を」と題された佐藤直樹氏の指摘は本質を突いており、私たちが一貫して要望している「結果の重大性に見合う刑事罰」「交通犯罪を特別の犯罪類型として体系化すべき」ということの根拠を示してくれています。以下に佐藤直樹氏の評論をコピーさせていただきます。

「北海道新聞」2012年7月13日掲載<各自核論>より

近代刑法貫く「意思責任」結果軽視の弊害 修正を

現代評論家 佐藤直樹

 4月23日に京都府亀岡市で無免許の少年(18)が運転する軽自動車が、集団登校中の小学生と保護者の列につっこみ、児童ら3人が死亡し、7人が負傷するという痛ましい事故がおきた。事故の遺族らは、少年に最も法定刑の重い危険運転致死傷罪を適用するよう警察・検察にもとめていた。だが、6月8日の京都家裁での少年への検察官送致決定を受けて、17日に京都地検は、通常の自動車運転過失致死傷罪などで少年を起訴した。少年は、成人と同じ刑事裁判を受けることになった。

 近年重大事故がおきるたびに、この危険運転致死傷罪の適用の是非が問題となるようになった。すなわち、過失である自動車運転過失致死罪の法定刑は7年以下の懲役・禁錮であるが、故意である危険運転致死傷罪は20年以下の懲役で、かなりの差がある。ちなみに故意の殺人罪は死刑・無期もしくは5年以上の懲役である。
 

うにここでのコトの本質は、危険運転致死傷罪の適用の是非にあるのではない。じつは問題の核心は、「人の死」という結果の重大性は同じなのに、「わざと」という故意の罪にくらべて、「うっかり」の過失の罪はなぜこんなにも軽いのか、という点にある。危険運転致死傷罪はそもそも、過失による「殺人」の罪が軽すぎるため、厳罰化をもとめる「世間」の空気を背景として、殺人罪との乖離(かいり)を埋めるために2001年に新設されたもので、法の成立要件として故意を前提とするために、その適用がきわめて限定される。

 意外に思われるかもしれないが、近代以前のヨーロッパでは「結果責任」といって、故意だろうが過失だろうが、「人の死」という結果があれば刑罰は同じだった。なぜならば当時、犯罪は共同体の人的つながりを危うくする「困った状態」であり、刑罰とはその状態を修復し、元に戻すことであって、個人の事情は一切考慮されなかったからである。

 さらにヨーロッパでは都市化とキリスト教の「告解」の普及によって、「内面」をもった個人が誕生するのは11、12世紀であり、それ以前には、そもそも「内面」、つまり意思のあり方は問題にならなかったからである。

 ところが18世紀末~19世紀半ばに成立した近代刑法は、この近代以前の「結果責任」の原理を否定し、新たに「意思責任」の原理を採用した。そこでは、故意による犯罪のみを原則として処罰し、過失によるものはあくまでも例外的なものと考え、その結果、過失の罪は故意の罪にくらべてきわめて軽いものとなった。問題はそうなった理由である。

 刑法学者の澤登佳人さんによれば、その理由は、近代にいたって資本主義が全面展開し、当時のブルジョアジーにとって、災害や事故発生の危険度の高い鉱山、鉄道、自動車運輸、重工業などの創設・経営を、安全管理を適当にサボりつつ安上がりにおこない、その結果生じる災害や事故の法的責任追及をさせないことが必要であったからだという。

 かりに近代以前の「結果責任」の原理がつらぬかれれば、ドライバーが人をはね殺すたびに重罪では、恐れて自動車に乗るものはいなくなり、自動車産業が成り立たず、産業全体の発展が阻害されることになる。つまり過失を軽く処罰するという近代刑法の「意思責任」の原理は、資本主義的な産業交通や鉱工業の発展の必要性から生まれたというのだ。

 「世間」は厳罰化をもとめている。危険運転致死傷罪の適用のみならず、いま必要なことは、こうした結果の重大性を軽視する近代刑法の「意思責任」の原理を、「結果責任」の観点から修正してゆくことであろう。「世間」と法の乖離を埋めてゆくことは、裁判員裁判のなかで、私たちが司法を身近なものにするために、ますます重要になっている。

さとう・なおき 51年仙台市生まれ。九州工業大学大学院教授。専門は世間学、刑事法学。著書に「『世間』の現象学」「なぜ日本人はとりあえず謝るのか」など。

-交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)
-,

© 2024 交通死「遺された親」の叫び