交通犯罪被害に遭った娘への思いを込めて、ホームページ「交通死―遺された親の叫び」を開設している。
先日、このページを見た神戸の被害者の方からこんなメールを頂き、暗たんたる気持ちになった。
「ひと月前、小学一年生の一人娘を、信号無視のトレーラーによって奪われました。私の生きがいのすべてを失い、これから何のために生きるのかと自問の毎日。ただ、夫や親せきをこれ以上悲しませたくないと精いっぱい頑張っているのに、近所の方の『フツーは気が狂ったりするのに、強いよね』との言葉。深く傷つけられ、外に出て人とも会いたくない。同じように子どもさんを亡くされた方にしか理解してもらえないような気がしています」
「善意」であるのに、無理解が残酷な言葉となる。これほどではなくても「あなたの気持ちはわかります」とか、「私も肉親を亡くしたことがありますから」などの声掛けも当事者にはつらいことが多い。
娘を失ってから、視点を変えると初めて見える真実がたくさんあることに、改めて気付いた。犯罪被害者という私たちの視点は世の常のものではないから、共感するのは極めて難しい。
「いのちを守る安全学」(新潮OH文庫)の中の対談で、犯罪被害者の支援を手がける小西聖子氏は「(被害者に)理不尽な対応をするのは、その人が優しくないからではない。聞かない限りわからないというところが、どうしてもある」と述べ、著者の日垣隆氏は「一つでも良いから犯罪被害の具体例を徹底的に知ることが大切」と指摘する。
当事者としても、知ってもらう努力をしたいと考え、体験講話などの要請にはできるだけ応えよう、と例会で話している。体験や心情を語るのはつらく苦しいが、犠牲を無にせず犯罪のない社会をつくるために。(前田敏章=北海道交通事故被害者の会代表)
(「北海道新聞」2003年1月16日夕刊のコラム「プラネタリウム」に掲載)