交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)

【コラムNo.001】1998/9 交通安全運動に思う

1998年9月30日

 秋の交通安全運動が今年も始まる。3年前(1995.10.25.)、当時高校生の長女を、歩行中後ろから来た「前方不注視」のワゴン車により即死させられ失った私たちは、文字どおり筆舌に尽くし難い悲しみの毎日を送っている。しかし、いくら辛くとも当の娘の無念さには比べられない。娘の死を無駄にしないために遺された者が何をすべきか何が出来るか、考え行動しようと気を奮い立たせている。

 身をもって命の大切さを教えたはずの娘が、天国で悲しんでいるのは、歩行者、自転車、子ども、お年寄りという交通弱者に対する最大の人権侵害である「交通殺人」が一向に減らない事だといつも思う。交通死がまさに日常の出来事とされ、抜本対策がない。交通死をもたらす事故が車輛台数に比例して増加の一途であることを多くの人は知り得ているのだろうか。

 交通安全運動の目標がおかしくはないか。「1万人を切ったから」「対前年比減少したから」「都道府県別ワースト1を免れたから」これらの指標が安全運動の成果と見なされるのだろうか。

 これらはすべて今の車優先社会を認容する数値としか思えない。例えば北海道新聞の「今年の交通事故死者数○○○(前年同期○○○)」という表し方に何時も違和感を感じる。これでは、ある程度の交通事故仕方ない。昨年より減っているから成果があがっているという人命軽視の心理を助長する。

 数を示して警鐘を打ち鳴らすなら、「今年の交通事故死者数○○○、うち、歩行者、自転車利用者が被った「交通殺人」被害は○○○人、戦後の累計○○万○○○○人)」という表現に変えてみたらどうだろう。異常なクルマ社会の一端が浮き彫りにされるのではないか。

-交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)

© 2024 交通死「遺された親」の叫び