山下博之さん交通死事件、たたかいと支援の記録
since 2003.12.28. last up 2005.6.25.
署名、傍聴など支援に心より感謝致します
ご遺族の訴え
「進行を制御することが困難な高速度」で走行した加害者に危険運転致死罪適用を求める署名にご協力下さい
平成15年4月23日、加害者の危険極まりない運転により私達は突然、大切な、大切な長男を失いました。大学生となりボランティア活動に情熱を燃やしていた人生の夢溢れる息子は、生きる権利そのものを強制的に奪われたのです。加害者は必ず厳正な処分を受けると信じていました。しかし、時速百キロを超える危険運転で死亡事件を起こしたにもかかわらず、捜査機関は「不注意」という業務上過失致死で送致というあまりに軽い扱い。私達には、到底信じられないことです。どうか、交通犯罪抑止のためにも、危険運転致死罪での裁きを強く求めます。
北海道旭川市 山下 芳正・歌代子
事件概要
- ◆ 平成15年4月23日午後10時25分頃、北海道深川市音江町の道道で、短大生(当時19歳)の運転する乗用車が、制限速度40kmをはるかに超える時速100km以上で、先行する軽自動車を追い越し、直後に左カーブに入り、ブレーキを踏んだところ、車が一回転し制御を失い、約70m離れた道路右側の街路灯に激突。助手席の博之さんを出血性ショックで死亡させた。加害者は軽傷。
- ◆ 平成15年6月4日、深川警察署は「業務上過失致死罪」で加害者を旭川地方検察庁へ書類送致。
- ◆ 平成15年6月25日、ご両親は「危険運転致死罪」で旭川地方検察庁に自ら告訴。
危険運転致死傷罪とは
危険運転致死傷罪は、飲酒など悪質な暴走車に肉親を奪われた遺族の「命の重みに見合った量刑を」という悲痛な叫びが発端で、死傷という重大結果を惹き起こす悪質かつ危険な運転行為の最高刑が窃盗罪の半分(最高懲役5年)という業務上過失致死傷罪(刑法211条)では的確に対応できないという世論の高まりもあり、2001年11月に新設されたものです。同年12月25日施行の刑法208条の2は、飲酒、無免許、信号無視とともに「その進行を制御することが困難な高速度」で自動車を走行させ人を死亡させた者は1年以上の有期懲役(最高懲役15年)に処するとしています。
加害者は違法と危険を承知で運転した
加害者はこの日、午後8時頃に納車されたばかりの操作に慣れない車を、任意保険に未加入であることも承知の上でハンドルを握りました。事故の前は、スピードをもてあそぶかように制限速度50kmの一般道を時速100kmから120kmで危険走行し、このとき同乗していた友人からも見かねて「危ないからスピードを落とせ」と注意されたほどでした。そして、友人との待ち合わせ場所に向かう途中、夜間の雨降りで視界が悪く路面も滑りやすいという悪条件のなか、夏タイヤより制動が劣るスタッドレスタイヤ装着のまま、事故現場手前で軽自動車を「凄いスピードで追い越し」(目撃者の警察での証言)、アクセルを踏みっぱなしで時速100kmを超える危険速度で左カーブにさしかかり、ブレーキを踏んだところ、車が一回転するなど制御不能となったものです。
理解できない「説明」
司法警察は捜査解説書の「被疑者において、速度が速すぎるために当該道路状況等に応じて進行することが困難な状態で走行していたという認識を有していたこと」(「3訂版 交通事故捜査Ⅱ 危険運転致死傷編」近代警察社 p57)等が立証できないから危険運転致死罪が適用出来ないと「説明」しますが、本来道路は制限速度での走行を予定して、カーブの曲率半径や車線幅も設計されているのであって、制限速度40kmをゆうに60km以上も超える高速度で、カーブもある道路を走行した本事件はそれだけで「進行を制御することが困難な高速度」です。さらに加害者も「時速100kmは出ていた」と自ら述べているのであり、危険な速度と認識していたことも疑いがありません。
危険運転致死罪適用を求める署名にご協力下さい
これらの事実から本事件は、加害の運転者が、危険な違法運転であることを認識しながら、衝突の危険やこれによる死傷発生の可能性を真摯に考慮することなく敢えて行った「未必の故意」による致死事件です。加害者の「不注意」という業務上過失致死罪での送致は不当です。このような軽い扱いを黙認することは、同様事件の誘発につながるだけでなく、今後同じような事件が起きても今回の事案が判例となり、全て業務上過失で処理されてしまう恐れがあります。危険運転致死罪新設の精神に立ち、危険運転撲滅、交通犯罪抑止のためにも、事実に即した厳正な裁きを強く求めます。
《経過》
- 2005年6月21日
-
危険運転致死罪での実刑が確定しました。ご両親から次の手記が寄せられました。
※事件の詳細、捜査の問題など全文 - 2005年6月07日
-
札幌高裁は執行猶予を求めた被告の控訴を棄却。原審を支持し懲役2年10月の刑を言い渡しました。
毎日新聞(2005/6/14)記事に山下さんのとりくみが取り上げられました。 - 2005年5月19日
- 2005年2月11日
- 2005年1月31日
- 2004年8月26日
-
旭川地裁で第1回公判が行われ、被告は起訴事実を認めました。
(新聞報道)(ご両親のお礼)
第2回公判は9月30日、被告側は情状弁護を行いました。
第3回公判は11月22日、被告の家族の証人尋問と、被告人質問が行われました。
第4回公判は12月20日、遺族の意見陳述が行われ、結審。求刑は懲役5年でした。
(ご両親の報告とお礼) - 2004年3月26日
-
旭川地検はついに危険運転致死罪で起訴しました。
(報道記事)(ご両親の中間報告とお礼) - 2004年3月22日
-
3月22日、6回目の署名提出をしました。総計11,313筆です。ご協力に感謝いたします。
- 2004年2月4日
-
1回目の署名5,900筆を地検に提出しました。(報告と要請書)(「北海道新聞」2/5)
- 2004年1月9日
-
ご両親の署名活動が報道されました
2005年6月21日 刑事裁判を終えて
札幌高裁は2005年6月7日、被告の控訴を棄却 危険運転致死罪での2年10月の実刑が確定しました
平成17年6月22日 旭川市 山下芳正・歌代子
裁判長から「本件控訴を棄却する」と読み上げられた瞬間、私の全身の力がぬけました。それは安心からと言うよりむしろ空しさからでした。どんな結果に終ろうとも息子は帰ってきません。刑事裁判が終っても、息子への思いが薄れることはなく、悲しみは癒されることはありません。事故からの2年間は、私がこれまで生きてきた人生より長く、辛く苦しいものでした。
まだリビングにある息子の遺影に、裁判の結果を報告しましたが、天国の息子はどう思ってこの2年間を見てきたのか…。先日亡くなった父と共に、裁判が終ったら納骨をしようと思っていましたので、この報告が息子との最後の別れのようで、本当に辛かったです。
事件の詳細
事件は、平成15年4月23日午後10時25分頃、制限速度が時速40キロメートルと指定されている左方に湾曲した一般道を、当時、雨で路面も滑りやすい中、進行を制御することが困難な時速100キロメートルを超える高速度で走行という、被告人の身勝手で危険極まりない暴走運転の末に起きました。納車から僅か1時間30分後の事故という異例の出来事でした。
事故当日の午後9時頃、被告人の車が納車になったという事で、息子と友人達は車を見に行きました。被告人車両は、スタッドレスタイヤを装着していたため「交換するように」と、タイヤ交換所を紹介されていたのですが、被告人は、交換することもなく走行を開始、間もなくリヤタイヤが滑り、同乗していた友人からスタッドレスタイヤを指摘され、その危険性についても理解していました。
被告人は給油も兼ねて、旭川のガソリンスタンドに、息子と友人2名を乗せ向かいました。友人達の話によると、被告人は車に慣れていないため、ギアチェンジがスムーズにいかず車をガクガクとさせていたにも関わらず、国道に出るなり時速120キロメートルでの走行を開始、その後も、高速度走行を繰り返していたと言うことでした。そして、被告人の暴走運転を見かねた息子達が「危ない」からと、注意をすると、スピードを落したようで、友人達も、もう出さないだろうと思ったそうです。息子もそうだったと思います。深川に戻ってからも、被告人が「まだ走りたい。峠を走りたい」と言い出した事から、近くのトトロ峠にある見晴台に行くことになりました。友人2名はもう1台の車に乗って先にトトロ峠に行ってしまい、息子は被告人の車で目的地に向かうことになりました。恐らく息子は、被告人の納車を祝福し、ドライブに付き合ったのでしょう。しかし、命を奪われることを知っていれば乗らなかったはずです。
被告人は、車を運転する者として遵守しなければならない交通規則を破り、衝突の危険やこれによる死傷の可能性、被害者保護などを真摯に考慮することなく、身勝手で危険極まりない暴走運転をしました。また、被告人は、供述調書の中で「任意保険に未加入で、事故を起したら大変だと認識していた」としながらも「まあいっかなと、思った」と供述しています。被害者保護など微塵も考えない非常識で、軽率な判断により、危険運転を繰り返し、息子の命を奪ったのです。
事故の連絡
警察から事故の連絡があったのは、事故から30分ほどたった午後11時頃でした。平穏な我が家が一変、あまりに突然な息子の事故連絡でした。息子の様態について聞くと「はっきりとは分からない」とだけ言われました。その時、既に、息子が生死の狭間をさ迷っているとは夢にも思わなかった私達は、とにかくひどい怪我でなければと、それだけを祈り、深川の病院へ急ぎました。
しかし、私達の祈りも空しく、治療室のベッドに横たわる息子の左の耳からは多量の出血があり、助手席側を直撃した街路灯をもろに受けた時に、頭部を強打したことが直ぐ分かりました。「もうだめかもしれない…」と、よぎる不安を振り払い、息子の命が助かるよう「がんばれ!博之!」と必死で声をかけました。
深川の病院では手に負えないと言うことで、すぐさま、救急車で旭川赤十字病院に搬送されることになりました。息子には妻が付き添い、私達も後を追いました。手術は3時間にも及ぶ大手術で、手術の経過報告に呼ばれるたび、状況は悪化する一方でした。命だけでも取り留めて欲しいと言う、私達の願いも叶わず、翌朝5時6分、息子は帰らぬ人となったのです。その光景はまるで悪夢のようで、息子の遺体を目の前にしても全く信じられませんでした。あんなに元気だった息子がもう微動たりともせず、目の前の息子の顔は、苦痛に歪んだ顔でした。最後の息子の顔は一生忘れる事はありません。
そして「遺族」となった私達を待っていたものは、息子の死の悲しみに追い討ちをかける、あまりにも過酷なものでした。それは、警察での加害者の供述に基づく偏重した調書の作成や遺族への対応、そして被告人の、息子や私達遺族に対する、反省や誠意の無さからくる心無い言動などでした。
警察の対応
前項の「事件の詳細」で記述したことは、当然、警察も把握していました。しかし、警察の判断は「過失」、「業務上過失致死罪」での送致でした。私達は、警察に事故の詳細を聞きに行ったのですが、被告人車両が路外に逸脱した経緯等について、不審点があり、納得できない説明でした。しかし、それらを指摘しても「事故の時は予期せぬ動きをするものだ」と言うばかりでした。
私達は、事故説明の不可解な点を解明すべく、当日行動を共にした友人達から話を聞き、現場や事故車両の写真を撮り、タイヤ痕やブレーキを踏んだ地点などの事故現場状況などから現場検証を始めました。すると、警察の説明とは違った事故の真相が見えてきたのです。
交通犯罪捜査の実態
本事件は、死亡事件にも関わらず被告人を逮捕勾留もせず、在宅での捜査処理でした。そのため、被告人は、警察での供述調書作成の時にはすでに保身を考えた供述を繰り返していました。捜査段階で「接見禁止」等の措置を取り、事故直後の被告人に対し、厳しく接し調書を取っていれば、被告人による保身を考えた調書作成がされなかったであろうと考えると、警察の事故処理や対応が今でも、腹立たしく思います。
処理システムとして、警察が収集した証拠や加害者の供述に基づく実況見分を基に審議するのですから、検察は「危険運転致死罪」で送致された事件を、証拠不十分等の理由で罪状を「業務上過失致死罪」に変更することがあっても、その逆の「業務上過失致死罪」を「危険運転致死罪」へ変更することは、なかなか難しいのが現状だと思います。
いくら検察が独自の捜査機関を持っていても、既に警察で捜査や聞き取りをしているので、新たな証拠等がなければ、警察の作成した調書等で判断せざるを得ないからではないでしょうか。そんなシステムだからこそ、警察が送致する罪状が大変重要なはずです。ある意味、裁判官のような仕事をしていると言っても過言ではないと思うのです。
息子の事件は、典型的危険運転致死罪の「進行を制御することが困難な高速度」に該当する事件でしたので、私達は「危険運転致死罪」で送致されると思っていました。しかし実際は「業務上過失致死罪」での送致に驚きましたが、私達から見て、手抜き捜査としか思えないような、警察の捜査書類等を見ていると、ほかに巻添えもない友達同士の単独事故と、簡単に事故処理をしたのではないかと言う気すらしました。これらの捜査書類を見て検察は正しい判断をしなければならないと言うことは容易ではないと思います。
送致が「危険運転致死罪」ではなく「業務上過失致死罪」とした理由を確認した時も「飲酒との複合であったなら」「高速度のみの事案があまりない」「(警察で)捜査ミスをしたら無罪になる、無理に一歩踏み出して無罪になるくらいなら…」「交通事故は、注意義務違反とかそう言う過失犯」「交通事故として扱っている。殺人事件ではない、故意犯ではない」等と言われたので、恐らく警察は、最初から「業務上過失致死罪」での送致しか考えていなかったのだと思います。
しかも、あろう事か「加害者は人を1人殺してしまっているのだから、ある意味一番ショックを受けている」などと言うのです。息子を奪われ、深い悲しみの中にいる私達遺族に対して、その息子を奪った加害者を弁護するようなことを平気で言うのです。
今、警察のずさんな事故処理の是正が叫ばれていますが、まさにそれを思い知らされました。私達が訴えなければ、息子の事件は真実が隠されたまま処理されてしまうところだったのです。
被告人やその家族は、「量刑が重すぎる」と控訴もしました。自分の犯した罪を棚に上げ「お前達のせいで実刑になった」と、告訴した私達を逆恨みしているかも知れません。私達が告訴などしなくても警察が事故の事実に即した正しい判断をしていれば、この様なことにはならなかったはずです。
息子の裁判が終った今、不幸にも私達のように被害者遺族となった方々が、悲しみに暮れる間もなく事故現場を調べ、証拠を集め、聞き取りなどの調査をし、署名活動を行い、必死に訴えなくても、正当な事故処理が最初から行われるような社会を願うばかりです。
今日を考える
平成15年度の「犯罪白書」では、交通事故で、7,702人の尊い命が奪われ、さらに118万人もの人が負傷し、事故の後遺症に苦しめられるなど悲惨な状況にあります。さらに、悪質な飲酒やひき逃げ事故が多発している中、被害者やその遺族が法の整備を一生懸命訴えていますが、国の表立った動きは見られません。「危険運転致死罪」の実刑の上限が15年から20年にはなりましたが、実際は全くと言って良いほど活用されていないのが現状ではないでしょうか。
未だに交通事故被害の当事者である私達には、交通事故調書の早期開示もされず、事故の事実も知らされないまま、事故処理され被害者やその遺族は蚊帳の外なのです。しかし、その一方で、平成21年度から実施予定の裁判員制度ですが、この制度は、「国民に裁判員として刑事裁判に参加することにより裁判が身近でわかりやすいものとなり、司法に対する国民の信頼の向上に繋がることを期待される」と導入されますが、実際は、諸外国からの圧力で始められたと言う話しもあり、その扱いの違いに憤りを感じました。しかも、多くの国民がこの制度への参加に消極的なのですから、被害者遺族の訴え同様、国民の気持など二の次なのでしょう。
少し前に騒がれていた、ライブドアの堀江社長の仕掛けたニッポン放送の買収騒動時の、国の対応の速さは何だったのでしょうか。すぐさま、法の盲点や不備の見直しに着手すると言及しています。それに反し、交通犯罪の対応の遅さは、自分達には直接被害がない、やはり「たかが交通事故」と言う事なのでしょうか。未だに、明治時代に定められた法律を運用しているのですから、法を作り定める側の考え方が変わらなければならないのです。もっと、交通被害者のおかれている現状に目を向け、被害者や遺族の意見にも真剣に耳を傾けて欲しいものです。
被害者の会をはじめとする、ご支援頂いた方々へ
突然の事故で息子を失ってしばらくは、傷心とどうしていいか分からない不安で、路頭に迷っていました。そんな折、偶然にも「被害者の会」の存在を知り、平成14年5月17日、「北海道交通事故被害者の会」主催の講演会、加害者天国ニッポン-なぜ交通事故は軽く扱われているのか-」(講師は松本 誠弁護士)に参加、直ぐ入会しました。私達と同じような境遇の方がたくさんおられ、二度とこのような悲惨な事故を繰り返させないため必死で戦っている姿を拝見し、色々とお話をさせて頂くうちに、自分達も頑張ろうと思うようになりました。
被害者の会の皆様方のご教授、多くの方々から頂いた励ましの言葉や手紙、賛同署名をしてくださった全国の皆様、報道機関各局、そして青野弁護士の貴重なる助言があったからこそ頑張れたのだと思います。これまでご支援頂いたことを心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。今後は、微力ではありますが、交通犯罪被害者のため出来る限りお手伝いしたいと思っています。
以上
2005年5月19日 ~札幌高裁、控訴審~
2005年5月19日、札幌高裁(長島孝太郎裁判長)にて控訴審が行われ、控訴理由などが質された後、遺族の山下芳正さんの意見陳述が20分にわたって行われ、さらに遺族3人からの陳述書要旨が裁判長から述べられ結審しました。
求刑懲役5年に対する懲役2年10月という軽い一審判決に対して控訴した理由を問われ、被告はしどろもどろ。遺族の意見陳述によって、地裁での被告の偽りの「弁明」が再度明らかにされる結果となりました。
お礼とご報告
2005年5月21日 山下 芳正
5月19日は、息子(博之)の控訴審公判に平日のお忙しいなか傍聴して頂きましたことを心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
公判の中で、被告人が、今まで息子や私達に謝罪をしていないので、この法廷の場を借りて謝りたいと言うことでしたが、私達の方を向いて聞き取れないような小声で「すいませんでした」(と言っていたと思います)の一言でした。さらに、検察官から、控訴理由を聞かれても答えられず、無言…の間があり、「自分としては納得がいかないので友達などに相談したら控訴した方が良いと言われたから控訴した」と、何とも呆れた理由でした。
公判を終え、あらためて被告人に反省や誠意のないことを痛感いたしました。判決は、6月7日午後3時、札幌高裁8階1号法廷となりました。引き続きご支援よろしくお願い致します。
第5回(判決)公判を終えて
2005年2月5日 山下 芳正
平成17年1月31日 第5回(判決)公判がありました。
懲役5年の求刑に対して、判決は懲役2年10ヶ月と言う軽い判決でした。
皆様には、これまで私どもの裁判を傍聴頂いたり、支えて下さいましたことを心より感謝致しております。
去る平成15年4月23日、息子が事故に遭い、翌24日、亡くなった当時は、突然息子が亡くなった途方もない悲しみと、どうして良いか分からない無力さから、真っ暗な闇の中を手探りで進んでいるような不安な日々を過ごしておりました。そんな中、偶然にも被害者の会の皆様と出会い、前田さんをはじめ沢山の方々の助けや協力や励ましがあり、今日まで頑張る事が出来ました。19歳という若さで命を奪われた、息子の為、出来ることは何でもしようと、家族一丸となり署名活動や、検察庁への上申書や陳述書等の提出をし、これまで幾度となく検察官にも遺族の心情を訴えてきました。
その結果、所轄署からの業務上過失致死罪での送致は検察庁で再検討され、危険運転致死罪での起訴となりました。検察庁の求刑は懲役5年。もちろん私達の納得の出来るものではありませんが、その少ない求刑の中で、裁判官にも私達の気持ちは精一杯伝えてきましたので、求刑に限りなく近い判決がされると信じていました。
第3回公判では、あまりに反省のない、まるで他人事のような被告人の態度に、裁判官も「何も考えていなのですか!?」などと驚き、被告人母親も検察尋問中に、法廷の場でありながら声を荒げるなど、被告人達の誠意のなさ、非常識さが十分すぎるほど伝わったと思っておりました。このことは、裁判官同様、傍聴された多くの方が同じように感じたと思います。
第4回公判の意見陳述では、私をはじめ妻や娘達も、息子の無念や被告人に対する怒り、誠意のなさ、嘘の供述などを必死に訴えて来ました。しかし、裁判に関する書籍や、数々の裁判例で、求刑自体の低い判例や、求刑から大幅に減刑されたりする例を沢山見るにつれ、まさか「息子の裁判も・・・」と心の何処かに判決に対して不安に思っていたところ、担当検察官から「遺族の気持は裁判長に十分伝わったと思います」と言われておりました。
そして、私達の不安は適中してしまいました。書籍等の裁判例にある事例とそう変わりない結果にショックでした。求刑に近い判決になると信じて疑いませんでしたので、裁判長から主文が読上げられた瞬間、懇願していた結果とは大きく異なる判決に、最後の最後で、加害者への手厚い保護、被害者遺族に対する司法の風当たりの厳しさを、痛感させられました。意見陳述でも述べた「加害者天国日本を、この旭川の地から変えて欲しい」との願いは叶いませんでした。
裁判長が言渡した「酌量すべき事情」とは
- 被害者宅を弔問に訪れたこと
- 被害弁償の申し出をしたこと
- 被告人も反省を深めていること
- 短大を退学するに至っていること
- 母親も証人として出ていること
- 少年であったこと
などでした。
しかし、真実は全く違っているのです。正しくは
- 弁護士に言われてから、「被害者宅を弔問に訪れた」。
- 危険運転致死罪での起訴後に、「被害弁償の申し出をした」。
(そのお金は融資を受けたもので、私達が受け取りを拒否するとすぐ返済しています) - 第3回公判での被告人の証言内容や態度、4回公判での被告人の最終陳述が1分にも満たない反省の弁で、「被告人も反省を深めている」。
- 1年間休学し、起訴までの成り行きを見ながら、2学年の授業料は納付済みで、起訴後に「短大を退学するに至っている」。
- 検察官の尋問に法廷の場でキレる母親も「証人として出ている」。
- 被告人も運転免許取得者で、運転免許を持っている成人と何ら変わりはないのに、当時「少年であったこと」。
というのが真実であり、言渡し内容には被告人の不利益な部分が隠れており、2年4ヶ月もの減刑という信じがたい「酌量」の余地などどこにもないのです。
言渡し内容の中で、事故当時の被告人を「少年」と扱っている部分について、運転免許を取得できるのは18歳からで(バイクの場合は16歳)免許証の何処にも「少年」と記載されません。それは、成人であろうが誰であろうが、免許さえ取得していて、規制内の車であれば、どんな車にでも乗れるからです。少年犯罪が増えている今般、犯罪の低年齢化により、法が見直されています。運転免許においても、免許を取得さえしていれば、免許を取得している成人と同等の権利が得られるなら、同等の責任を果す義務も生じるはずです。
権利は成人同様与えられるのに、責任を果す義務が軽い為に、暴走族のような危険運転をする未成年がTVなどで「こんな馬鹿なこと二十歳になったら止めるよ。だって今なら罪軽いし」などと平気で口にするのです。第3回公判での被告人や母親の証言やあの態度を見た上での、3人の裁判官の判断であるということが、一番信じられません。
裁判官としては、今回の事案が過去の事例と比べて「求刑が重過ぎる」と言う判断だったのでしょうか? 交通事故においても事例ごとに、事故に至った経過や内容、さらにその後被告人の反省の度合いなど千差万別です。それなのに、もし過去の事例を重視し、各々事案の事実に即した刑罰が課せられないとするなら、どんなに刑罰を重くしても何一つ変わっていきません。司法制度は司法制度、それを運用するのはあくまでも人間だと言うことです。生かすも殺すも裁判官次第なのです。
どんなに法律で罪を重くしても変わらないのは、裁く側の人間が変わらないからではないでしょうか?そうでなければ、法律ではどんどん重くなっているのですから、駐車違反の罰金が高くなった時同様、交通規則違反者が減るはずです。しかし、駐車違反者とは違い、悪質なドライバーが減らないのは、加害者にほとんどダメージが無いからです。これは明らかなことです。
人間も馬鹿ではありません。一度痛い目にあったら、もう一度しようなどと思いません。もう一度するのは、やはり痛みが忘れてしまうほどの軽いものだからです。
今回の裁判は危険運転致死罪の事案であり、刑法が1月1日に変わり最高が20年と重い刑罰になる中で、5年という軽い求刑であるにもかかわらず、それを更に下回る懲役2年10ヶ月という結果で、危険運転致死傷罪の創設の理念に疑問を投げかけるものであり、業務上過失致死罪との明確な差別化がなされなければ悪質な交通事件はなくなりません。私は強く訴えたいと思います。
判決は納得出来るものではありません。検察庁に控訴を要請しているところです。これまで、支えて下さった皆様、本当に感謝いたしております。
私事ですが、病床の父が、判決公判前日の1月30日に亡くなりました。享年87歳でした。そのため、1月31日は息子の裁判と夕方は父の通夜、そして、翌日は葬式。葬儀終了後は検察庁への意見書の作成など、悲しみに浸る時間も無いほど慌ただしい日々を送っております。父には、息子が交通事故で亡くなったと言うことを話しておらず、病床の中で「博之はどうした」と何度も言っていましたが、息子がずっと父の面倒を見ていた為に、一番慕っており、その息子が事故で亡くなったなどと病弱の父には到底言えず、「博之は学校が忙しく、なかなか帰って来られないんだ」と、言っていました。
あんなに面倒を見ていた息子が、全く来なくなり、寂しい思いをさせたことが悔やまれて仕方ありません。今ごろ天国で息子と再会し、全てを知る事になっているかもしれません。
仏前で、初めて交通事故で博之が亡くなった事実と、判決結果が、危険運転致死罪での懲役2年10ヶ月と言う報告をし、博之の命の尊厳を守れなかった事を謝りました。今、自宅には息子と父の遺骨があり、それらを見ると、小さな体で私達(子供4人)を育てるために、一生懸命に働いてくれた父への思いと、19歳と人生がこれからだった息子に何もしてやれなかったとの思いとが、入り交じり涙が溢れてきます。
事故から2年、この2年間は私にとって、これまで生きてきた50年より長く辛いものでした。私は精神的にも、肉体的にも本当に疲れてしまいましたが、家族には弱気なところを見せない様に、自分に鞭を打ち、何とか頑張っております。まだ全てが終ったわけではないので、家族皆で最後まで頑張ろうと話しをしています。皆様には引き続きご支援をお願いするかと思いますが、よろしくお願い致します。
第1回公判を終えて
2004年8月26日 山下 芳正・歌代子
本日、平成16年8月26日に行われました第1回公判には、たくさんの方が傍聴に来ていただき誠にありがとうございました。(公判を伝える新聞報道)
事故から約1年5ヶ月が過ぎ、長いようで短い、落ち着かない日々を過ごしてまいりました。公判では、これまで抑えてきた感情が一気にあふれ、息子との日々が走馬燈のように駆けめぐり幾度となくこみ上げるものがありました。
この1年、様々なことがありましたが、ここまでこられたのも、皆様のご協力あってこそと思い、大変感謝いたしております。
第1回公判を終え、「ここからがまたスタートだ」と、気持ちを新たに家族一丸となり頑張っていく所存でございますのでこれからもどうぞよろしくお願い致します。
なお、第2回公判の日程は9月30日になりましたので、その際にはまたよろしくお願いいたします。
判決公判を前に 第4回公判(意見陳述)を終えて
2005年1月15日 山下 芳正・歌代子
去る平成16年12月20日、息子(博之)の第四回公判が行われました。これまでの裁判同様、お忙しい中、多くの皆様方に傍聴頂きまして、本当にありがとうございました。
被告人は、反省や誠意の無さから、真実を語ろうとしませんでした。それにより私達遺族は心を痛め、そして深い怒りを感じ続けてきました。
しかし、裁判が始まり、回を重ねるごとに被告人は、初犯とは思えない様な、ふてぶてしく、開き直った態度をあらわにし、裁判官・検察官・傍聴人と言う沢山の人たちの前で自分の反省や誠意の無さを証明する結果となりました。
そんな中、検察の「求刑5年」に対し、被告弁護人が「社会での更生を」と言う様なことを言って「執行猶予を」との主張がされました。事故から1年7ヶ月も経っているにも関わらず、その間、事故のこと・これからの賠償のことなど、何一つ考えようとしなかった被告人が、この期に及んで「これからちゃんとやる」などと言って誰が信じるというのでしょうか?私は、以前に読んだ「少年に奪われた人生」と言う本のなかで書かれていた話しを思い出しました。それは、交通事故の事案ではありませんが、人一人の命を奪った加害者の話で、「死刑がぼくを変えたんだ。死刑が科せられたとき、悪に染まっていたぼくの心が聖に染まったんだ」と、死刑を宣告され「死」に直面して初めて、自らの手で「生」を奪った被害者のことを思い、自分の犯した罪の重大さを知ったと話しています。
反省や誠意の無い加害者には、厳罰を持って臨まなければ「心からの反省」は芽生えてこないのだと改めて思いました。
しかし、過去の刑事裁判例を見ると「本人も反省している」「保険に入っていて将来しかるべき賠償のなされることが見込まれる」「親が責任を持って更正させると言っている」など酌むべき事情もあると、減刑されています。本件、被告人は任意保険に未加入という、被害者保護の事を全く考えない人間であり、事故の反省もなく、誠意等も全く見られず、供述書や被告人質問の中でも真実を語っていないのですから、逆に罪が重くなっても減刑になる要素などありません。
私達は、第4回公判で、意見陳述をしましたが、裁判官や多くの傍聴人の皆様に聞いて頂きたいことが、沢山ありました。しかし、与えられた僅かな時間内での陳述でしたので、『息子の尊厳を守る』『被告人がこれまでについてきた「うそ」を明らかにする』などを、主に陳述させて頂きました。
この意見陳述によって、「被害者である息子の無念」「私ども遺族の苦しみ」、そして被告人供述の「うそ」「反省や誠意の無さ」が、裁判官や傍聴人の方々に伝わったことと信じております。
次回の裁判は1月31日(月)で、ついに結審です。どのような結果が出ようと息子は帰って来ませんし、心から納得のいくものではありませんが、検察の求刑が1日たりとも減刑されることがないよう願ってやみません。
危険運転致死罪での起訴となりました
署名などご支援に感謝します。刑事裁判に向けてがんばります。よろしくお願いします。
2004年3月29日 山下 芳正・歌代子
3月26日、旭川地方検察庁の担当検事さんから伝えられた「危険運転致死罪で起訴しました」との言葉。それは私たちがこれまでしてきた事が大きく報われる重みある言葉でした。
事件から約1年、私たちは沢山のことを知りました。被害者遺族に対して理不尽な事が多々あること、加害者過剰保護な法律であること、死人に口なしで加害者の供述がまかり通ること、遺族は悲しみに浸る間もなくすぐ行動を起こさないと命が軽く扱われ、不本意な結果になってしまうこと。
平成15年4月24日、加害者の無謀運転によりかけがえのない大切な息子を失いました。親思いで、祖父母の面倒を良くみる本当に優しい息子でした。息子と習い事を一緒にしていた妻、息子が自慢に思い慕っていた2人の姉、そして、日に日に自分に似、「お父さんのようになりたい」と私を尊敬してくれていた息子を失った私は、悲しみと辛さのどん底に突き落とされました。
しかし私たち家族は「ただ悲しみに浸っていても息子は帰ってこない。なぜこんな事になったのか真実が知りたい」と、すぐ事故現場に行き、なにか事故の手がかりはないかと、手探りで現場検証をしました。土木現業所から道路図面を入手し、道路の幅員や勾配、カーブの状況を確認し、警察の現場調査の跡をビデオや写真に収めました。タイヤ痕を測量・図化し、街路灯の湾曲状態や基礎周りの土質の状況、地盤の支持力などを調査。現場や速度の鑑定を大学の教授に依頼もしました。通報者が現場で見た加害者の状況、旭川地方気象台に行き事故当日の降雨量の証明書を公式文書で貰い、息子の携帯履歴から事故当時の友人とのやり取り、心境などを読み取ったり、事故車の保管を修理工場に頼み、細部にわたる破損状況を実測したり、加害者の家から事故現場までの走行距離と走行時間を実際に走ったりと、どんな些細なことでも何かの糸口になればと調べました。
そんな折、娘の友人が免許の更新の為免許センターに行き、偶然にも「北海道交通事故被害者の会」が主催する「加害者天国ニッポン」(講師は松本弁護士)という講演会のパンフレットを持ってきてくれました。今考えるとこれは運命なのではないかと思っていますが、5月17日、私たちはわらをも掴む思いで講演を聴きに札幌へ行きました。そこで、私たちは自分達と同じような境遇にいる被害者や遺族の方たちと出会い、こんなにも強く、必死に生きている人が沢山いるということを知ったのです。
事故から約1ヶ月、警察での事故説明や、私たちがそれまで調べたものから、加害者の運転は明らかに「危険運転」であると信じて疑わなかったのですが、平成15年6月4日、捜査機関の判断は「業務上過失致死」、つまり不注意、過失での送致と言うあまりにも軽い扱いでした。
私たちは6月25日、「危険運転致死罪」での起訴を求め旭川地方検察庁へ自ら告訴。12月末からは「危険運転致死罪適用を求める署名」活動も始め、1万名を超える協力を得ました。
検察庁には上申書や陳述書で「事故の実態に即した正しい判断を」と心の底から訴えました。担当検事さんとは、署名を持参しては、何度も面会しましたが、親身に真剣に話を聞いてくれました
「事故の実態に即した正しい判断」をしてくれた旭川検察庁の良識と正義に敬意を表します。
最後になりましたが、今回の交通犯罪に危機感を覚え、自ら署名活動をしていただいた方々、また、賛同署名してくれた多くの皆様方、被害者の会の方々の貴重なるアドバイスやご支援があったからこその結果だと思います。そして、私たちの活動を報道していただいた新聞・テレビ等の報道機関に対しても、心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。これからは裁判に向け、がんばりたいと思います。引き続きご支援をお願い致します。
署名提出の報告
2004年2月7日 山下芳正
2月4日、担当検事さんへ、5,900筆の署名と要請書、それと陳述書を提出してきました。担当検事さんとの話しは、
- この署名の5,900筆のなかには、6年前息子と一緒にヨサコイを踊っていた当時小学生だった男子生徒が、高校生となり事故の詳細を知り学校の友人に話したところ、それはおかしいと、高校生が街頭で署名活動をして集めてくれた約1,000筆が含まれていること
- 私たちの、事故から今日までの心情・状況等の話し
- 事故の再調査をお願いしている件の進み具合
- 11月に行った深川警察署での担当警察官の対応の話し
などで、この間約40分、担当検事さんも真剣に聞いてくれました。
息子のため、また今後不幸にも私たちと同じ様な境遇になってしまう家族や遺族のためにも頑張りたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。
要 請 書
2004年2月4日 旭川地方検察庁検事正 岩橋 廣明 殿
〒070-0027 北海道旭川市東7条6丁目
山 下 芳 正
歌代子
《要請事項》
2003年4月23日、深川市音江町の一般道で発生した山下博之(当時19歳)交通死亡事件の加害者に対し、危険運転致死罪を適用すること。
上記について、5,900筆の賛同署名を添えて要請致します。
《要請趣旨》
私たちの最愛の息子博之は、同乗した○○○○の無謀運転により交通死させられました。運転者は、片側1車線で左方に湾曲する法定速度40kmの現場を、夜間の雨降りで視界が悪く路面も滑りやすいという悪条件のなか、時速100kmを超える危険速度で自車を暴走させ、カーブを曲がりきれず道路脇の街路灯に激突し、よって助手席の博之を死に至らしめたのです。
加害者はこの日、納車されたばかりの慣れない車であるのに、一般道を時速100kmから120kmで危険走行し、同乗の友人からも「危ないからスピードを落とせ」と注意をされていました。事故直前の目撃者は、「凄いスピードで追い越していった」と警察で証言し、加害者本人も「時速100kmは出ていた」と述べています。
これらの事実から本事件は、加害の運転者が、危険な違法運転であることを認識しながら、衝突の危険やこれによる死傷発生の可能性を真摯に考慮することなく敢えて行った「未必の故意」による致死事件であり、刑法第208条の2第1項後段の「進行を制御することが困難な高速度」による危険運転致死罪で裁かれるべきです。
道交法を含め刑罰法規は、もともと犯罪を抑止するために作られたはずです。さらに2001年11月には、暴走車に肉親を奪われた遺族の「命の重みに見合った量刑を」という悲痛な叫びが発端で、死傷という重大結果を惹き起こす悪質かつ危険な運転行為の最高刑が窃盗罪の半分(最高懲役5年)という業務上過失致死傷罪では的確に対応できないという世論の高まりもあり危険運転致死傷罪が新設されました。一般道路で、法定速度を60キロ以上も超える危険運転によって死に至らしめた本事件に危険運転致死罪が適用されなくては、国民の安全と秩序を守る法の意味がありません。
この事件に対しては、署名の他に全国から次のような切実な訴えが寄せられています。
「私共も、平成13年8月にやはり19歳の息子を会社の先輩が運転する車で亡くしました。スピードの出しすぎで尊い命を奪われました。その後加害者の誠意のなさには本当に腹立たしいものでした。裁判では、残念ながら執行猶予の判決で、ただただ残念でなりませんでした。せめてもう少し早く危険運転致死罪があったらと思います。」
「昨年7月、一方的な交通事故で母を亡くしました。時速120kmで反対車線に入るという無謀運転なので、危険運転致死罪になるものと私たち遺族は思っていました。しかし、業務上過失致死罪として起訴されました。遺族にしては納得いきませんでした。」
危険運転で大切な肉親を失った私たち遺族の苦しみは筆舌に尽くし難いものがあります。本事件を「不注意」と業務上過失致死罪で軽く扱うことは再発防止につながりません。犠牲を無にせず、何より大切な人の命が交通犯罪によって蹂躙されないために、危険運転致死罪適用を強く求めるものです。
なお、全国における同様の事件で危険運転致死罪が適用された例の一部を付記致します。
【金沢地裁 平成14年9月25日判決】
被告人は、法定速度60kmの左カーブにおいて、先行する車両を追い越すため、普通乗用車を時速約150km走行させて暴走させ、道路右側の樹木等に激突させて、助手席の同乗者を死亡させたとされている。(「北陸中日新聞」平成14年9月25日夕刊より)
【松山地裁 平成14年11月27日判決】
被告人は、法定速度40kmの右カーブにおいて、普通乗用車を時速約120~130kmで走行させ電柱に激突させ、同乗者を死亡させたとされている。(「朝日新聞」平成14年11月28日より)
【福島地裁 平成14年12月20日判決】
被告人は、最高速度時速50km指定のS字カーブにおいて、普通乗用車を時速約120kmで走行させ電柱に激突させ、同乗者を死亡させたとされている。(「3訂版 交通事故捜査Ⅱ 危険運転致死傷罪編」より)
【横浜地裁 平成15年5月16日判決】
被告人は、最高速度時速50km指定の道路において、普通乗用車を時速約142kmで走行させ道路左側のガードレールに衝突させ、同乗者を死亡させたとされている。
以上
山下博之さん交通死事件 新聞報道
2003/05/19「北海道新聞」夕刊全道
街路灯に衝突し助手席学生死亡 深川
【深川】二十三日午後十時半ごろ、深川市音江町二ノ七の道道で、同市新光町二、短大生○○○○さん(19)の乗用車が道路脇の街路灯に衝突、助手席の同市文光町一八、短大生山下博之さん(19)が頭や腹を強打し間もなく死亡した。○○さんは左肩打撲で軽傷。深川署によると、現場は緩やかなカーブの上り坂。当時、雨が降っていた。同署は、○○さんがスピードの出し過ぎでハンドル操作を誤ったとみて調べている。二人はサークル仲間と待ち合わせをしていた近くの公園へ向かう途中だった。
2003/07/01「北海道新聞」朝刊全道
危険運転致死で告訴
深川の事故 助手席19歳の遺族
【深川、旭川】深川市内の道道で今年四月、乗用車が街路灯に衝突、助手席の同市文光町一八、短大生山下博之さん=当時(19)=が死亡した事故で、山下さんの遺族が三十日までに危険運転致死容疑で乗用車を運転していた同市内の短大生(19)を旭川地検に告訴した。
告訴したのは父親の公務員山下芳正さん(50)=旭川市東七ノ六=。告訴状によると、短大生は四月二十三日夜、深川市音江町の制限速度四十キロの道道で、雨が降っているにもかかわらず、百キロ以上の速度で走行。このため、車両が制御不能となり、カーブを曲がり切れずに路外に逸脱、街路灯に衝突し、山下さんを死亡させたとしている。この事故で、短大生も軽傷を負った。深川署は業務上過失致死容疑で短大生を書類送検したが、芳正さんは「事故の状況などからすると、危険運転致死罪が妥当だ」として告訴に踏み切った。北海道交通事故被害者の会によると、道内で交通事故被害者の遺族が危険運転致死容疑で運転者を告訴したのは三件目。
2004/01/09「北海道新聞」全道
「交通事故防止考えて」 息子失った旭川の山下さん、厳罰求め署名活動
【旭川】深川市内の道道で昨年四月、乗用車が街路灯に衝突、助手席の短大生山下博之さん=当時(19)=が死亡した事故で、旭川市内の山下さんの両親が、乗用車を運転していた深川市内の短大生(20)に対して危険運転致死罪での起訴を求める署名活動を続けている。
公務員山下芳正さん(51)、歌代子さん(51)夫妻=旭川市東七ノ六=で、二人は「署名活動を通じ、少しでも多くの人に事故の詳細を知ってもらい、交通事故防止を考えてほしい」(芳正さん)と、昨年十二月二十八日から署名活動を始めた。
自宅の近所や知人などを訪ね、八日までに約五百人分の署名を集めた。当面、活動を続け、早ければ二月中にも旭川地検に提出する予定。
車を運転していた短大生は、事故当時十九歳で、深川署が昨年六月、業務上過失致死容疑で在宅のまま旭川地検に送り、同地検はその後、旭川家裁に送致した。事故当時、運転手の短大生は夜間で雨が降っていたにもかかわらず、法定速度四十キロの道路を約百キロで走行したことなどから、両親はその後、危険運転致死罪での起訴が妥当として告訴した。同家裁は昨年八月に刑事処分相当として旭川地検に逆送し、同地検が捜査を続けている。
2004/02/05「北海道新聞」朝刊全道
危険運転致死罪の適用求め署名提出 遺族が5900人分
【旭川】深川市内の道道で昨年四月、乗用車が街路灯に衝突し、助手席の短大生山下博之さん=当時(19)=が死亡した事故で、両親の公務員山下芳正さん(51)、歌代子さん(51)夫妻=旭川市東七ノ六=は四日、乗用車を運転していた深川市内の短大生(20)を危険運転致死罪で起訴するよう求める五千九百人分の署名を旭川地検に提出した。
二人は「五千九百人分の思いを受け止め、正しい判断を」と、担当検事に署名を手渡した。署名は二人が「多くの人に交通事故防止を考えてほしい」と、昨年十二月下旬から集めてきた。この事故で短大生は夜間で雨が降っていたにもかかわらず、制限速度四十キロの道路を約百キロで走行していた。深川署は業務上過失致死容疑で短大生を書類送検し、旭川家裁が昨年八月、刑事処分相当として同地検に逆送、同地検が捜査を続けている。同地検は「気持ちはよくわかりました」とコメントした。
2004/03/27「北海道新聞」
深川の短大生死亡事故 危険運転致死罪を適用 旭川地検
【旭川】深川市内で昨年四月、乗用車が街路灯に衝突、助手席に乗っていた同市の短大生山下博之さん=当時(19)=が死亡した事故で、旭川地検は二十六日、危険運転致死罪で運転していた神奈川県藤沢市の男子短大生(20)を在宅のまま起訴した。
北海道交通事故被害者の会の前田敏章代表は「飲酒がなく、死者が一人の事故での危険運転致死罪の適用は画期的」と評価している。起訴状によると、短大生は昨年四月二十三日午後十時二十五分ごろ、乗用車を運転し、深川市音江町の制限速度四十キロの道道を降雨の中、時速百キロで走行して路外の街路灯に衝突。助手席に乗っていた山下さんを、出血性ショックで死亡させた。
短大生は昨年六月、業務上過失致死容疑で書類送検された。少年のため旭川家裁に送致されたが、同家裁は八月、刑事処分相当として逆送し、旭川地検が再捜査していた。
危険運転致死で短大生起訴 猛スピードで知人事故死
北海道深川市で昨年4月、夜間で雨の中、乗用車を100キロ以上のスピードで運転し、衝突事故を起こして助手席の知人を死亡させたとして、旭川地検は26日、運転していた短大生の男(20)を、危険運転致死罪で起訴した。
短大生は当時19歳で、旭川地検は当初、業務上過失致死容疑で旭川家裁に送致したが、同家裁が刑事処分相当として地検に逆送致していた。起訴状などによると、短大生は昨年4月、制限速度40キロの道道を100キロ以上の速度で走行し、カーブを曲がりきれずに路外の街路灯に衝突。助手席の短大生山下博之さん=当時(20)=を死亡させた。
山下さんの両親は、危険運転致死罪の適用を求めて昨年7月、同地検に告訴。今年2月には、同罪の適用を求める約5900人分の署名を提出していた。(共同通信)[3月26日22時32分更新]
2004/8/26「朝日新聞」夕刊(道内版、一部地域は翌日朝刊)
深川・同乗者死亡事故 危険運転致死罪 被告男性認める
深川市内で昨年4月、乗用車が街路灯に衝突し、助手席の男子短大生(当時19)が死亡した事故で、危険運転致死罪に問われた神奈川県藤沢市、アルバイト男性(21)の初公判が26日、旭川地裁(井口実裁判長)であった。男性は起訴事実を認めた。
検察側の冒頭陳述によると、男性は短大生だった昨年4月23日午後10時25分ごろ、雨が降る中、制限速度40キロの道路を時速100キロで走り、カーブを曲がり切れずに、道路脇の街路灯に衝突。助手席にいた友人の短大生を出血性ショックで死亡させたとされる。
被告の男性は昨年6月、業務上過失致死の疑いで書類送検され、旭川家裁が8月、旭川地検に逆送した。遺族は業務上過失致死罪よりも刑罰の重い危険運転致死罪の適用を求めて同地検に約1万1300人分の署名を提出していた。
2004/8/26「読売新聞」夕刊
危険運転致死公判 起訴事実を認める 旭川地裁
北海道深川市の道道で昨年4月、乗用車が街路灯に激突し、助手席の短大生が死亡した事故で、危険運転致死罪に問われた当時19歳で同級生だった男(21)(神奈川県藤沢市)の初公判が26日、旭川地裁(井口実裁判長)で開かれた。
罪状認否で、男は「間違いないです」と起訴事実を認めた。冒頭陳述などによると、男は昨年4月23日夜、雨のなか、友人との待ち合わせ場所に急ぐため、制限速度40キロの登りカーブを、時速約100キロで運転。曲がりきれずに道路脇の街路灯に激突し、助手席の同市文光町、私立短大2年山下博之さん(当時19歳)を出血性ショックで死亡させた。
検察側は、「被告人は(何度か現場を通った)経験から、カーブの進入速度が50キロで、降雨で路面がぬれた状態では、さらに減速しなければ路外に逸脱する危険があると認識していた」と主張。弁護側は、「起訴事実は争わないが、進行制御が困難になると自覚しながら、なお進行した訳ではない」とした。
深川署は業務上過失致死容疑で男を書類送検したが、山下さんの両親が危険運転致死容疑で旭川地検に告訴。地検は、同罪で地裁に起訴した。
2004/12/21「北海道新聞」
衝突し同乗者死亡 男に懲役5年求刑 旭川地裁
【旭川】昨年四月、深川市内で乗用車を運転中に事故を起こし、助手席の友人を死亡させたとして、危険運転致死罪に問われた当時十九歳の元短大生の男性(21)=神奈川県藤沢市=に対する論告求刑公判が二十日、旭川地裁(井口実裁判長)であり、検察側は男性に懲役五年を求刑した。
検察側は「被告は事故の可能性を認識しながら暴走した。安易で身勝手な犯行で情状酌量の余地はない」と指摘。一方、弁護側は「被告は(事故時の走行に)危険を感じておらず、未熟な運転技術と法定速度に対する誤った意識による偶発的犯行」と執行猶予を求めた。判決は来年一月三十一日に言い渡される。
論告によると、男性は昨年四月二十三日夜、雨の中、深川市音江町の制限速度四十キロの道道を時速百キロで走行し、カーブを曲がりきれずに街路灯に衝突。助手席の同市の短大生山下博之さん=当時(19)=を出血性ショックで死亡させた。
2005/2/1「朝日新聞」
2005年2月11日「北海道新聞」
危険運転致死罪で実刑の男が控訴(旭川)
2003年4月、深川市内で雨の中、乗用車を時速約100キロで運転中に事故を起こし、助手席の友人を死亡させたとして、危険運転致死罪に問われ、旭川地裁で懲役2年10カ月(求刑・懲役5年)の判決を受けた当時19歳の元短大生の男(21)=神奈川県藤沢市=は10日までに、判決を不服として札幌高裁に控訴した。
2005/06/08「北海道新聞」朝刊
暴走で死亡事故 二審も実刑判決 札幌高裁
制限速度の二倍を超す時速百キロの高速運転で同乗者を交通事故死させたとして、危険運転致死罪に問われた元短大生の男性(21)=神奈川県藤沢市=の控訴審判決公判が七日、札幌高裁であった。長島孝太郎裁判長は「まさに暴走と言うべき悪質な運転」として、懲役二年十カ月(求刑・懲役五年)を言い渡した一審旭川地裁判決を支持し、執行猶予を求めた男性の控訴を棄却した。
判決によると、男性は十九歳だった二○○三年四月二十三日夜、深川市内の道道で乗用車を運転中、雨で路面がぬれているにもかかわらず、制限速度四十キロのところを時速百キロで走行し路外の街路灯に衝突。助手席の短大生山下博之さん=当時(19)=を出血性ショックで死亡させた。
2005/6/14「毎日新聞」
危険運転致死傷罪 「故意」立証難しく
宮城県多賀城市で飲酒運転の車が仙台育英高の生徒の列に突っ込み3人が死亡した事故で、仙台地検は12日、運転していた解体工(26)を危険運転致死罪で起訴した。99年に東名高速で起きた幼女2人死亡事故をきっかけに、01年の刑法改正で最高懲役20年の同罪が新設されたが、無謀運転による事故は後を絶たない。同罪の検挙件数は減少傾向だが、その背景には運転手の危険運転に対する認識を立証しなければならないハードルの高さがある。酒酔いをごまかすための悪質ドライバーの逃げ得を許さないため、遺族らはひき逃げ事件の厳罰化も求めている。【河嶋浩司、渡部宏人】
多賀城市の事故で、解体工は「運転代行を頼むべきだと思った」ほど酔っていた。しかし所持金が4000円しかなく、「危ないな」と感じながらも運転した。危険運転致死傷罪適用の典型的ケースだった。しかし、同罪適用には故意に危険運転したことが必要で、立証に困難も伴う。
千葉県松尾町で2月5日夜、中学の同窓会帰りのいずれも59歳の男女がひき逃げされ4人が死亡した。翌日朝に自首した土木作業員(31)が、業務上過失致死傷容疑などで逮捕された。
逮捕時のアルコール検知は、呼気1リットル中0・03ミリグラム。道交法上の酒気帯び運転の基準0・15ミリグラムを下回った。作業員は「カップ酒1本を飲んだ」と供述したが、千葉県警は発生から11時間近く経過後の呼気の数字としては高いとみて捜査。その結果、友人宅で発泡酒など3杯、日本酒5~6合を飲んだことを突き止め、危険運転致死傷罪などでの起訴に結びつけた。
しかし、公判廷では同罪適用の可否が真正面から争われている。先月19日の初公判で作業員は「正常に運転できないほどのめいてい状態ではなかった」として、危険運転の故意を否認。懲役5年以下の業務上過失致死傷罪適用を主張している。
刑法は(1)アルコール・薬物の影響で正常な運転が困難(2)進行制御が困難な高速度(3)運転技能を有しない(4)妨害目的の運転(5)赤信号をことさら無視――の5類型を危険運転行為と規定する。
飲酒運転の場合は「ハンドルを思うように操作できない」など容疑者の認識や、「車に乗る前に足がふらついていた」「他人から運転をやめるよう注意された」などの事実認定が必要とされる。
容疑者が認識を否定する場合は、関係者の供述が不可欠だ。ある捜査幹部は「酒を飲んだ店の店員が飲酒運転を知っていても、それを認めれば自らもほう助・教唆など共犯に問われかねない。同乗者も同様だ。本人が故意を否定した場合の立証は難しい」と語る。
危険運転致死傷罪の適用件数は▽02年322件▽03年308件▽04年270件と減少している。しかし、悪質なドライバーが減っているとは言えない。飲酒運転取り締まりの際に検査機器を壊したり、その場で酒を「重ね飲み」して運転時の酔いをごまかす検査拒否・検査逃れは02~04年、年間500件前後検挙され続けている。警察庁幹部は「いくら罰則を強化しても、違反承知でハンドルを握るドライバーへの効果は疑問だ」と嘆く。
「ひき逃げも厳罰」強く求める遺族
99年に酒酔い運転のトラックに追突され乗用車が炎上、娘2人を亡くした井上保孝さん(55)夫妻=千葉市=の訴えが、危険運転致死傷罪新設に結びついた。夫妻は今、ひき逃げ事件の厳罰化を求めて活動する。「危険運転致死傷罪が飲酒運転根絶の抑止力になればと願ったが、加害者が逃げて飲酒などの立証を困難にし、適用を逃れる例が多いから」という。警察庁によると、04年のひき逃げ事件は1万9960件で、00年の1万4050件から42%増えた。
03年に鹿児島県名瀬市で飲酒運転の工員(21)の車にひき逃げされ、24歳の二男を失った大分県の会社役員(53)は、検察官の言葉に驚いた。「危険運転致死で無罪より、業務上過失致死で有罪になったほうがいいでしょ」と言われたのだ。工員は缶ビール十数本、焼酎4杯を飲んで事故を起こし、車を隠して逃げた。業過致死と道交法違反(ひき逃げ)では両罪が併合されても最高懲役7年6月だ。検察官は業過致死などで起訴し判決は懲役3年。会社役員は井上さん夫妻らと今年5月、署名15万人分を添えて法相にひき逃げ事件厳罰化の要望書を提出した。
北海道旭川市の山下芳正さん(50)夫妻は03年、19歳の長男を事故で亡くした。長男の友人の元短大生が雨の中、制限速度40キロの道を約100キロで乗用車を運転し、カーブを曲がり切れず街路灯に激突、助手席の長男が死亡した。別の同乗者が「速度を落とせ」と元短大生に注意もしていた。
業過致死容疑での書類送検に、山下さん夫妻は納得できず、危険運転致死容疑で元短大生を告訴した。旭川地検は04年3月、危険運転致死罪で起訴。1審判決は懲役2年10月で、札幌高裁が今月、被告側控訴を棄却した。山下さんは「最初からしっかり捜査してほしかった」と話す。
交通事故被害者の支援に取り組む松本誠弁護士は「危険運転致死傷罪が適用されるべき事故は年間1000件を下らないはずだ。捜査を徹底してほしい」と求めている。(毎日新聞) - 6月14日1時29分更新