「交通権」誌掲載「研究ノート」より
「スローライフ交通教育」の意義と教育現場での実践事例
The meaning of "traffic and transportation education for slow-life" and its practice in schools
前田敏章(北海道千歳高等学校)
Ⅰ はじめに
WHO(世界保健機関)は2004年の報告で、2002年の1年間に世界中で道路交通事犯により亡くなった人が120万人、負傷した人は5000万人と推定されるという衝撃的実態を発表した1)。「交通戦争」を克服できない、いわば進行するモータリゼーションに追いつけない社会,という現状が世界的規模で続く。
日本も例外ではない。近年交通死者数のわずかな減少はあるが、事犯件数と負傷者数は一貫して増加傾向にあり、頭部外傷による重度の後遺症が最近10年間で2倍になったという現実2)などを直視するなら、道路交通死傷被害は依然深刻な事態と認識すべきである。
交通死傷被害の増大という現実、およびその要因を直視できない社会がある。ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは「今日ほどわれわれが新たな概念を必要としている時代はない」と、近代の「(産業化された)危険社会」について警鐘を鳴らした3)。ベックはさらに「危険を指摘する人々は『悲観論者』であり、危険を捏造する者であると誹謗される」と、これまでの危険認識について批判している4)が、道路交通死傷被害もベックが指摘する「危険社会」の側面として捉えるべきである。
しかし、学校教育における大勢の交通教育は、歩行や運転の技能向上を強調する「安全」教育に偏り、この「危険社会」を問うことなく、モータリゼーション拡大に順応的でこれを補完する役割を果たしている。
筆者も参加する「スローライフ交通教育の会」5)(Institute of Traffic and Transportation Education for Slowlife 略称:ITTES)は、クルマへの依存を必要とする社会そのものを問う総合的な交通教育をめざして活動してきたが、本稿では、交通禍により児童生徒の安全が脅かされている実態、およびその中での高校生の意識について触れた上で、生命尊重のくらし方と結合した交通社会と交通教育の創造をめざす「スローライフ交通教育」の意義と端緒的実践例について教育現場から報告する。
Ⅱ 交通禍に脅かされる児童生徒の生存権
ユニセフ(国連児童基金)は、2001年2月、「豊かな国の子どもの事故死」6)という報告書で、加盟26か国の1991~1995の5年間の統計から、10万人当たりの事故死率を算出(日本は8.4人。最も少ないのはスウエーデンの5.2人)。最大の原因は交通外傷で、事故死の41%を占めると警告した。
この中に「事故の氷山図」があり、子ども(0歳から14歳)の事故被害で1件の死者の背景に160件の入院、2000件の事故があることも指摘している。
また、図2のグラフ7)から明白なように、日本は、歩行あるいは自転車乗車中の交通死の割合が欧米諸国に比べても図抜けて多く、児童生徒の危険な状況がうかがい知れる。
図1:死亡1例に対する入院、事故数(0~14歳 オランダ 注5)の報告書より作成)
図2:歩行および自転車乗車中の交通死数2005年の国際比較。棒グラフ左は、各国の人口10万人当たりの歩行中、自転車乗車中の死亡数(人)。同右は交通死全体に占める歩行中、自転車乗車中の死亡の割合(%)。数値軸は共用。
当地北海道においても、先頃小学生の交通事故増に警鐘が鳴らされた8)が、道内の小学生から高校生までの児童・生徒が、歩行あるいは自転車通行中に遭う交通禍は、2001年以降6年間の平均で、1万人当たり25.0人と高止まりである。(図3)9)
図3:道内児童生徒の交通禍死者数と在籍1万人当たりの負傷者数。数値軸は共用。
車両同乗中の被害も含めると、道内だけで毎日6.2人が傷つき、毎月1.2人の割合で尊い命が奪われる(1997年以降10年間の平均)という深刻な事態が続いている。
生徒の置かれている危険な実態を明らかにすべく、筆者が依頼された交通安全講話の際に、高校生対象のアンケート調査を実施した。協力いただいたのは、北海道札幌平岡高等学校(1年生と3年生計578人対象。2005年秋調査。グラフではA高校と表記)、および北海道札幌手稲高等学校(全校生1057人対象、2002年春調査。数値は斜体で、グラフではB高校と表記)の2校10)である。集計表は表1、表2にそれぞれ示す。
「事故にあった経験」はそれぞれ578人中、83人(14%)、1057人中、188人(18%)に及び、平岡高校では、そのうち2割の17人が2回以上も遭っている。被害の程度は、入院・通院がそれぞれ、11人(1.9%)、27人(2.6%)。軽い怪我が38人(6.6%)、101人(9.6%)であった(図4)。態様は自転車通行中が77%、66%と圧倒的に多く、被害体験は当然ながら年齢の高い3年生の割合が高い。
図4:事故に遭った経験者の割合と被害の程度(グラフのNAは「無回答」を示す。以下同じ)
また、図5のように、「クルマにより危険を感じたことがある」が321人(55.5%)、651人(62%)に上ること、さらに2回以上あるのが255人(44%)、503人(48%)にも達することは、先述の「事故の氷山図」を裏付ける。
図5:クルマにより危険を感じた経験
そして注目すべきは、実際に被害に遭った場合も、学校や警察に届けない割合が非常に高いことである。(図6)
図6:図5の中での学校や警察への届けの割合
事故に遭ったと回答した83人、188人の中で、学校又は警察に届けてない者が32人(39%)、75人(40%)と、「届けた者」25人(30%)、50人(27%)を上回っている。
被害者であるのに、「注意が足りないから被害にあった」などと逆に叱責されたりすることも要因の一つと思われるが、統計に表れる数以上の被害が予想できる。
このように、生徒にとって通学などの生活道路は正に危険極まりない空間となっており、総括すると、北海道内において高校3年までに、およそ6割の生徒が危険な場面に遭遇し、2割に近い生徒は実際に被害を受け、約2%の生徒が病院にかかるという憂慮すべき実態が浮き彫りになる。
Ⅲ 「クルマ優先社会」と若者
1 「クルマ優先社会」
私事になるが、筆者の長女(当時17歳)は、1995年、学校帰りの歩行中に、カーラジオ操作の脇見運転という前方不注視の運転者によって、理不尽に命を奪われた。遺族となり、悲嘆と絶望の中でさらに心を痛めたのが、娘の受けた「通り魔殺人的被害」を「仕方のない事故」と軽視する社会の扱いだった。当時の裁判官は、加害者の罪状について「数秒間のちょっとした不注意であり、往々にありそうな事」と、不当な執行猶予付き判決の「理由」を述べた。
命の尊厳をいとも簡単に踏みにじる不条理の背景に「クルマ優先社会」がある。とりわけ歩行者、子ども、お年寄りがクルマから一方的に受ける被害は、生存権という基本権の侵害であり、社会は最優先して護るべきであるのに、利便性や経済効率を絶対視する「クルマ優先社会」は、この犠牲を「便益の裏返しとしての社会的費用」11)と容認する。
こうした麻痺した社会を、経済学者の宇沢弘文は30年以上も前に看破し「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しない限りにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」12)と指摘していた。
2 「イニシャルD」にみる若者の意識
自動車メーカーは、若者をターゲットに、クルマのスタイルやスポーツ性を強調し、バラ色の「クルマ社会」の一員となることを誘う。
「INITIAL(頭文字)D」という講談社発行のコミックがある。若者に人気があり、ゲームのキャラクターともなっているが、影響を受けた青年が加害者となった事件が2003年4月23日、北海道深川市でも起きた。裁判でも明らかにされたが、運転していた短大生(当時)は、この物語の主人公に憧れ、スポーツカータイプのクルマが納車されたその日に公道での「峠下り」に向かい、その途中、時速100キロを超えて暴走。カーブを曲がり切れず電柱に激突し、助手席の短大生(当時)を死なせてしまった。青年は被告となり、危険運転致死罪に処せられた。ちなみに「イニシャルD」はドリフトのD。ドリフトとは、コーナーの進入で意図的にリヤタイヤを滑らせ、ステアリングとスロットル操作でスライドさせたままコーナーを回るというドライブテクニックを言う。また、主人公は家業の豆腐屋を手伝う普通の高校生であるが、何と中学1年の時から、元「ラリー屋」であった父親に自家用車で豆腐の配達を手伝わされ、無免許で公道の峠道を走りドライブテクニックを身につけたという不法極まりない設定の物語である。この作品は2005年には映画化もされた。
これについて、先述の札幌平岡高校で行った意識調査結果を示す(図7)が、男子の4人に1人が興味を持って本を読み、あるいは映画館まで足を運ぶなど、肯定的受け止めは多い。
図7:「イニシャルD」について
もちろんここでの「興味あり」がイコール実際の「暴走運転」ではなく、あくまで物語世界の事と理性的に捉える者が大多数と思われる。しかし、不法行為をヒーローに仕立てあげているこの作品が、徐々に理性を麻痺させる役割を持つことを問題として捉え注意する必要がある。2007年6月、道央の少年院で講話を行った際、「イニシャルD」について尋ねたところ、15人の少年全員が知っていた。やはり影響は大きい。しかし、この出版や上映に際し、社会的批判がほとんど為されていないことは異常と思われる。「イニシャルD」をめぐるこのような反応は、若者が幻想としてのクルマの虜にされ、加害者予備軍としての危険に晒されているクルマ社会の典型的断面と言えないだろうか。
3 被害の立場から一転、加害者予備軍に走る生徒
そして、学校現場で実践される大勢の交通安全教育は、意図しないまでも結果として、この「クルマ優先社会」に無批判な構成員を産みだしている。生徒は、自身重大な危険に晒されている高校時代までの被害の立場から、免許取得後は一転、いとも簡単に他者をも危険に陥れる加害者予備軍となる。
そうした危惧の一例だが、札幌市内高校の青信号で横断中に左折トラックに轢かれた学友の死を悼む文集13)に、「全てが偶然でした」「車によけてもらうのでなく、自分からよけるようにしなくてはなりません」など、交通犯罪被害を「仕方のない事故」と捉え、被害者としかなり得ない歩行者自らが責任を負おうとする倒錯した意識を反映した記述があり愕然としたことがあった。
上記の高校生の受け止めが果たして大多数なのかどうか、先の札幌平岡高等学校における実態調査の項目に加えた。集計結果は先の表1に、質問項目と結果を次に示すが、「仕方のないこと」という回答が予想以上に多く、杞憂ではなかった。
6年ほど前、札幌市内の高校1年生(女子)が、登校途中、青信号で横断中に左折トラックに巻き込まれ、即死されるという大変痛ましい事故がありました。
次の一文は、同じ学校の高校生が事故後「交通事故」について書いた感想の抜粋です。もし皆さんがこの立場(同じ学校の生徒が、同じような事故で命を失った)とすれば、どの感想に一番近いですか。
- 完璧な人間はいない。運転するのも人間だから、車が絶対によけてくれるとは限らない。車によけてもらうのではなく、自分からよけるようにしなければならない。
- 注意をするという気持ちを持って行動したとしても交通事故が起こってしまうのは仕方のないこと。事故に対する知識をできるだけ持って防いでいきたい。
- 私たち高校生や小中学生などが交通ルールを守っていても、交通事故は防げない。車を運転する人が、前後左右の安全を確実に確認する必要がある。
- どちらともつかない。(又は別な意見)
図8:学友の交通事故についての受け止め
同調査ではさらに、犠牲はやむを得ない「社会的費用」という考え方について、「スローライフの交通社会」を対極にして尋ねた。
交通事故についての次の考え方で、自分に近いものを選んで下さい。
- 社会として自動車交通の便益を享受している以上、便益の裏返しとしての社会的費用である交通事故の被害を最小化するとともに、・・・社会全体がバランスよく負担していく方向で施策を強化していくことが必要。
- 人の命には換えられないから、速度規制や厳罰化、免許取得の厳格化など、車使用の社会的規制を現行より強める必要がある。効率性や利便性よりも安全・安心のスローライフの社会が良い。
- どちらともつかない。(又は別な意見)
結果は、男女差が若干見られ、男子では30%、女子では18%が、交通禍を仕方のない「社会的費用」と捉えていた。(図9)
図9:交通事故について
若干乱暴な設問項目とは言え、他の調査結果と重ね合わせて分析するなら、消費資本主義社会の中で意図的に醸成されているクルマ優先の意識構造が浮き彫りになる。
2002年春、道南の高校で交通安全の体験講話を行った後の生徒の感想文に、次の趣旨のものがあった。
- 「いつまでもそんなふうに悲しむ必要ないと思う。もしかしたら、それが彼女の運命だったのかもしれない。とにかく6年以上もずうっとひきずって悲しんでいたら娘さんは迷惑する。成仏できなくなるから」(1年女子)
- 「殺された家族の気持ちは、ひいた運転手を殺したいくらいにうらんでしまうと言っていましたが、うらむのは良くないと思います。ひかれて死んだ人は前世で悪いことをして、又は現世で、うらみ、ねたみの悪い心をもっていたから、早くして命を亡くしてしまうのだと聞いています。私は因果応報というものがあると思っています」(3年女子)
娘の交通死について親の心情を吐露する際、その受け止めの多様さに、ある程度の覚悟は何時もしている。しかし、この一文を読んだときはやはり辛かった。公道上で何の非もないのに、何の関わりもない相手に命まで奪われるという、「通り魔殺人」に遭ったと同じ被害を「仕方のない運命」と受け止める。これが現在のクルマ社会の生徒への投影なのかと筆者は考える。
Ⅳ 現行の「交通(安全)教育」の問題点
1 「精神論」と「技能向上」教育の「交通心理学」
学校での交通安全教育は、「交通安全基本計画」14)(以下「計画」)によって位置づけられている。
「計画」は、「安全意識の徹底」や「安全思想の高揚」など精神面ばかりを強調しており、結果として被害の責任を児童生徒に転嫁すると同時に、運転者に対しても、単なる技能向上の必要性のみを喧伝し、安全運転の普及のためにと称して、早期からの免許取得に便宜を図る方向での、クルマ依存社会への習熟・順応が必要であることを説いている。
このような対策では、それ自体が前提とする、交通社会のクルマへの依存度の拡大がさらに進んだ場合、教育の効果が疑われるどころか、本来ならば安全面の他に、総合的な環境問題の次元にまで及ぶ、クルマ依存社会の負の側面がますます軽視されることにもなりかねない。
その根底にあるのが、「交通心理学」の立場である。政府の第3次「計画」(1981~1985年度)の参考にするという趣旨があったといわれ、(財)住友海上福祉財団が募集した「交通安全対策に関する論文募集」において、内閣総理大臣賞を受けた長山泰久氏の論文「交通教育の体系化」(『人間と交通社会』)幻想社1989年所収)は、その後のわが国の交通教育の方向性に強い影響を及ぼしたが、筆者は、このような「交通心理学」のみをベースにした「交通教育」の手法に、次のような問題点を感じている。
- 幼児の段階からの「交通教育の体系化」を提言するが、「発達する」交通に「対応」するためとしながらも、安全問題については「人間の側の質的向上」によって解決されると楽観する。また、人間行動はすべて対人関係の中にあるとして、「交通社会人」という述語をつくり、その「センスを身につける」ことを強調するが、人間の知覚や認知能力の発達進化は、そんな短期間で獲得できるはずもない。
- 道路環境という概念にも「人」を介在させ、「運転は心の問題」を強調。「日本では、交通が他人との関係のもとになり立って(いる)という認識が低い」などと事故防止対策を個としての「心」(精神論)と技能教育にとどめている。そして、ドイツやアメリカの学校教育における運転者教育を評価し、免許取得と車両所有に便宜をはかる教育へと導いているが、これらの国が果たして先進例なのかどうかは、その被害実態15)からも疑わしく、実際にアメリカでは、かつて各州で高校での運転教育を導入したが、結果は若年ドライバーの増加とそれに比例する以上の事故死者数の増加であり、中止した州が相次いだという報告が日本でも紹介されている16)。
2 交通安全における「対症療法」の限界
こうした「交通心理学」に傾倒した立場からの「安全教育」には、しばしば児童生徒の発達段階を考慮しない教育項目が挙げられる。
「計画」を具体化した国家公安委員会作成の「交通安全教育指針」(1998年)では、幼児に対して、「交通マナーを実践する態度を習得させる」ために、「自動車等の基本的な特性及び合図を習得する」として、「制動距離」や「死角」、「内輪差」について「理解させましょう」とあり、児童期についても同様で、距離の知覚が未発達であるのに「自動車等の速度が速い場合などに制動距離が長くなる理由を具体的に説明し」などとある。
このように生理的な発達段階からみて無理なことを理解・習得させようとするために、被害にあったときの責任は、免許を持ち、車を操作した運転者や安全な道路環境整備を怠った社会ではなく、安全な行動を「習得」または「指導」できなかった子どもや保護者に向けられる。仮に運転者に責任が向けられることはあっても、その範囲は、先に述べた精神論や技能向上論など「結果」の範囲でしか問われず、問題の運転行為を導いた免許制度の不備や労働条件(例えば、職業運転者の過労運転など)といった「原因」まで考慮されることは殆どない。その結果、危険な道路環境の改善やクルマ利用の拡大抑制などは後回しにされ、被害者としかなり得ない子どもや歩行者に対して、たとえルールを守っていて被害にあった場合でも、さらに「交通ルールを守ろう」、「車に気を付けて」と無理な注意喚起をするにとどまるのである。
その端的な事例が札幌市でも起こった。2007年5月15日、札幌市内の小学2年生3人が、下校中横断歩道上で信号無視のトラックにはねられ重傷(うち1人は重体)を負ったのだが、当該小学校の校長は事故後の全校集会で、児童に「信号が青になっても、運転手の目を見てから、横断歩道を渡りましょう」(「北海道新聞」2007年5月17日、傍点筆者)と呼びかけたというのである。その後の報道に注意をしていたが、運送会社など運転側に大々的に再発防止を訴えるという動きや、市内他区を含めたスクールゾーンの通行規制の見直し提案などもなかった。そして6日後の5月21日、何と同じ札幌市内で、下校中青信号で横断中の小学2年生がトラックにひかれ死亡するという惨事が起こったのである。それでも社会の対応は「交通ルールの徹底を、市が緊急会議、各校に文書配布へ」(「北海道新聞」2007年5月23日)であった。
交通安全教育の効果を過大に評価することがクルマによる死傷被害の原因究明と対策を遅らせる。スウェーデンの児童心理学者スティナ・サンデルスが、すでに1968年に、子どもの認知能力の発達の面から「子どもを完全に交通環境に適応させることは不可能である」として「子どもが交通事故に遭わずにすむ道路環境を作るしか道はない」17)と結論づけていたことは重要である。スウェーデンではこうした認識がその後の交通政策の基礎となり、1997年には議会にて「長期的な目標は、スウェーデンの交通システムによって死亡したり、重傷事故にあうことをゼロにする」(ビジョン・ゼロ)ことが決議され、徹底した事故原因の調査分析をもとに、道路環境の整備、速度制限の徹底などが推進されているという18)。
3 「安全教育」=「免許取得を前提とした運転者教育」に短絡
子どもの注意力の発達だけに期待する立場では、どれだけ多くの子どもが犠牲になっても、交通安全教育を生涯教育に位置づけ、これを徹底すれば被害は防ぐことが出来ると、クルマ社会の未来を根拠なくバラ色に描くことにつながるのではないか。
2001年の7次「計画」は、学校教育の中で児童・生徒を「クルマ社会」へ適応させることを強調し、特に高校生に対しては「免許取得前の教育としての性格を重視した交通安全教育を行う」と運転者教育の導入を明記した。「免許取得前教育」という位置づけが現れたのは、1996年の第6次「計画」であり、これは1995年に「免許取得前の若者に対する交通安全教育の在り方に関する検討会」の報告を受けてのものである。この要旨は、1998年の総務庁編『交通安全白書』に「若者が将来免許を取得し、交通社会に運転者として参加することを前提に、『交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育む』という立場に立った交通安全教育が必要」と紹介されている。
しかしこの「立場」は、あまりに短絡した対症療法的発想と言えないだろうか。この「立場」から発行されたと思われる高校生向け教材資料『交通安全』(一橋出版、西山啓著、1994年)には、「免許証を手にするということは、見方によれば、交通戦争の召集令状を手にすることと言えるかも知れない」という物騒な表現が使われていたが、戦争は人が起こすものである、「交通戦争」を惹き起こし、これを終息できない現代のクルマ社会そのものを問うことが教育の場でも求められるのではないだろうか。
「安全教育」=「免許取得を前提とした運転者教育」ではないはずである。文部科学省が、「自他の生命を尊重する態度」(同省「高等学校学習指導要領」の保健体育、交通安全の項)という基本理念を真に唱えるのであれば、そして人々が現在のクルマ利用の安全面・環境面での問題点を考慮するならば、自分がハンドルを握る立場になることの可否も、交通安全対策の選択肢に含めるべきと考える。
Ⅴ 「スローライフ交通教育」の提案
1 モータリゼーション拡大につながる「安全」教育から総合的な交通教育へ
以上の各章から考えて、これからの交通教育は、先の『交通安全白書』にみられる「交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育む」といった、交通体系の選択に対して無批判な「対症療法」にとどまるのではなく、危険な交通社会そのものを主体的に問う教育内容が用意されなくてはならない。
ⅠおよびⅡ章で述べた深刻な交通禍は、運転免許保有者数、自動車保有台数、自動車走行キロの飛躍的伸びと軌を一にして増加傾向にある19)のであって、モータリゼーションの拡大自体がリスク増の要因となっている今日、「交通安全教育」の名のもと、免許取得前教育を学校教育に持ち込むことは、国民皆免許体制による無秩序なモータリゼーション拡大を一層押し進めるものであり、リスク要因を拡大再生産することになる。
2 「スローライフ交通教育」の提案
生命尊重を基本視点として、自動車交通における安全・環境・エネルギーの諸問題を総合的に捉え、これらの負荷削減と人間性がより発展する豊かな社会を目指す交通教育を提案する。
現代のクルマ社会の病理は生命身体の安全の問題の他に、環境、エネルギー問題まで根深い。市場メカニズムによる需給均衡と経済効率を唯一「善」とする市場原理主義に支えられている今日のモータリゼーションは、公共交通体系を衰退させ、郊外型ショッピングセンターの乱立に典型なスプロール化(土地利用無秩序化)をひき起こすなど、それがまた過度の自動車依存へと悪循環していると考えられるからである。モータリゼーション社会自体を問い直し、今後の社会政策や制度の改善に寄与する教育が学校に求められる所以である。
こうした問題意識から「スローライフ交通教育の会」は、「持続可能な社会に向けて、生命・環境・エネルギーの各面に配慮した交通体系の追求と、これを保障し得る人権の尊重、ならびに生活空間の形成に寄与する学校教育の振興と主体的市民の形成」(会則より)を目的に研究および実践を進めている。
「スローライフ交通教育」という名称を、市場原理主義の追求する「オン・デマンド」や「ジャスト・イン・タイム」の対義語という意味で考案した齊藤基雄氏((財)政治経済研究所非専任研究員)は、その意義について「モータリゼーション社会を真に問い直すには、単体としての車や道路、ドライバーの危険性といった要素のみ槍玉にあげる手法では限界がある」「交通とそれをとりまく社会・経済のありようを、集団レベルのリスク問題として、次代を担う青少年の一人一人が捉えられるよう、生徒の思考を助けること」に重点を置くとし、「共生の交通社会」20)をキーワードに「国民皆免許社会」からの脱却を強調。さらに、「自由競争やリスク選択への参加を行政から極度に強制されない権利としての『人権教育』の役割」も指摘する21)。
3 生徒が主体的に学ぶ交通教育
「スローライフ交通教育」は、生徒一人ひとりが能動的に、交通手段との向き合い方や、交通を発生させている社会経済的要因などを考えることを通して、サステナビリティ(人間社会の持続性)の視点から、生命・環境・エネルギーに負荷をかけない交通体系存立を可能とさせる街づくり・むらづくりという合意形成に寄与するものであり、一人ひとりの暮らし方まで考えさせることに主眼を置く。従ってその教育手法は知識伝達型や啓蒙主義的な押しつけ的なものではなく、生徒が主体的に学ぶものでなくてはならない。
子ども・青年を交通教育の客体ではなく主体にすることによってクルマ社会を批判的に検討し、これからの交通のあり方について考えられる市民をつくっていこうとするのである。
生徒が主体的に学ぶ交通教育を目指すとき、さらに留意すべき事は何か。一つは生徒の意識がどのような社会背景の影響を受けているか分析することであり、二つ目は生徒の認識能力や価値形成の段階を視野に入れることであろう。
「スローライフ交通教育の会」の会員で高校教諭の池田考司氏は、消費意欲のあくなき拡大を求める消費資本主義の中で醸成され肥大した欲望としてのクルマ願望について分析22)し、情動、感情と結びつく交通教育を提唱。導入として事例や被害者の声を取り上げること、その後の学習内容・教材は人の認識能力や価値形成の段階を視野に入れ構造化する必要を提起する23)。
4 「スローライフ交通教育」のテーマ例
交通教育を、学校教育の教育課程に位置づけること、例えば、総合的学習の時間のテーマとして、あるいは高校の教科目では公民の「現代社会」をメインに学習項目として位置づけることを提案したい。その上で関連する学習内容を地歴や理科、保健体育、あるいは家庭科など多くの教科科目に拡げるべきである。
多様な学習プランがあるべきだが、テーマ例を試案として示す。
- 現在のクルマ社会がもたらす負の側面である不可逆的な命と健康被害について、被害者の視点から最も基本的な生存権の問題として重視する。身近と感じられる体験講話や手記、ビデオなども活用する。同時に世界的な課題であることも統計資料から明らかにする。
テーマ例「交通犯罪被害の実相」、「世界は今も交通戦争」
- クルマの危険性について科学的に学ぶ
- ①クルマのもつ強大な衝撃力。制動距離など物理的特性の理解。
- ②運転者および道路を共用する子どもお年よりの知覚、判断、動作能力など人間の生理的な特性と限界。
テーマ例「クルマは急に止まれない~反応時間と子どもお年寄りの安全」
- 青年期の心理と、現代の消費資本主義社会における幻想としてのクルマ願望。加害者となった青年の例。
テーマ例「若者とクルマ社会~作られたクルマ願望」
- 大気汚染 温暖化など不可逆的な自然環境破壊とエネルギー問題。東京や名古屋の大気汚染裁判の意義を学ぶ。
テーマ例「地球温暖化・エネルギー問題とクルマ社会」「大気汚染裁判とクルマ社会」
- 新しい権利としての「交通権」(安全・環境・福祉などの諸問題に配慮した交通の権利)について学び、安全な生活と地域コミュニティづくりなど、共生の交通社会への展望と課題を考えさせる。
クルマの総需要抑制、公共交通機関の整備、自転車利用の拡大の課題、児童生徒の通学問題など、人や地域のくらし方との中で、免許を持たない生活スタイルの選択もあることなど、クルマとの関わりを主体的に考えさせる。
テーマ例「交通社会の歴史と交通権」、「ローカル線廃止と通学問題」、「規制緩和と運輸問題」、「新しい地域コミュニティづくり」、「豊かな社会論」
Ⅵ 実践例
1 総合的学習の時間でのテーマ学習
筆者の勤務校、北海道千歳高等学校定時制における2005~6年の実践事例を報告する。対象生徒は2学年20数名。総合的学習の時間におけるテーマ学習「若者とクルマ社会」として3時間展開で行った。
(1)1時間目;テーマ「被害の実相」
筆者の娘の事件など交通死の具体例から、命の尊厳、親の心情について述べ、被害者の視点から交通死傷事件の本質を考えさせた。被害者からすると「通り魔殺人」的被害であること。日本の身体犯被害の96%はクルマによること。世界的な課題であること。
(2)2時間目;テーマ「クルマを科学する」
運転免許資格には高度の専門性と適性、人命尊重の人格が求められることの学習。一例として、車のもつ強大なエネルギーと停止距離(=空走距離+制動距離)を物理の計算から導くなど危険性を具体的に学ぶ。同時に反応時間の実習を行い、運転の側からの空走距離について理解を深めるとともに、道路を共有する子どもやお年寄りは、知覚や認識の生理的能力が未発達もしくは衰えるので、安全を守るのはクルマ使用の側であることを強調した。
(3)3時間目;テーマ「クルマ優先社会と若者」
交通犯罪加害者の刑事罰の不当な軽さ、「イニシャルD」の影響を受けた若者の事件例などから、交通犯罪被害を続発させている背景としての「クルマ優先社会」について考えさせた。また、被害ゼロのためにクルマ使用の社会的規制や安全な道路環境整備(免許制度の厳格化、速度抑制、生活道路での歩行者優先、歩者分離、公共交通機関の整備など)を強調。クルマの有用性について「クルマは速く格好良く走るものではなく、ゆっくりだが、雨風しのいで、荷物も積んで、ドアからドアへ移動できる便利なもの。子どもや高齢者、病気の人に特に必要なもの」と、その認識を転換してはどうかと話した。
また「共生の交通社会」についてスウェーデンの「ビジョン・ゼロ」などを例に紹介。クルマ問題を通して、真に豊かな暮らし方や街づくりの課題について考える必要性を提起。まとめとして感想レポートを課した。
(4)生徒の感想例
- 「あたりまえのなかに埋もれてしまっている危険は、確かにそこに存在しているのだ。そしてそれを、現在は効率等を優先して後回しにしている。本来最優先されるべき安全を「注意」するという個々に任せてしまっている。それ故に免許というものが存在するのだが、それすらも免許というほどの重さを持っていないように思える」(2年男)
- 「とても重要な学習ができたと思う。人の命よりも車の社会が優先されるのはとてもおかしい事だと気づいた」(2年男)
- 「車は速く格好良く走るものではない」この一文を見たとき、本当にそうだと思った。免許を持っているほとんどの人が本来の車の在り方を間違って認識しているだろうと思う。そう考えるととても恐ろしくなった。これから免許を取る人も、今免許を得ている人も、もう一度車と人、命について学び直せたらと思った。(2年女)
2 体験講話での実践
筆者は7年ほど前から高校などでの交通安全講話を担当する機会が多い。2000~2006年度の延べ回数は、高校39回、大学9回、更生施設8回であり、受講者数は、集計データのある2003~2006年度の4年間で延べ16,512人となった。
テーマはいつも「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」であり、主体的に学ぶ交通教育としては導入部分と位置づけ、前記総合的学習の時間と同主旨の内容で、命の大切さとクルマ社会を問い直す必要性を話している。生徒の感想例を示す。
- 今日講話を聞いたことで「死の運命」は、他人の絶対的な力によって押しつけられることではないと考え直しました。人には生きる権利と死ぬ義務があって、それは決して他者には手出しすることができない神聖な場所なのでしょう。私のまわりに、事故でけがをした人も、そして死を強いられた人も幸いながらおりません。そのため日々ニュースで流れる、交通事故で権利を冒涜された人々の聖域を考えることもありませんでした。今回“事故の死”を「運命」という一つの言葉から離し、考える機会をいただいたことに感謝しています。(手稲高校3年女子 2002年5月)
- 車は便利な道具です。しかし今のところ私は高校を卒業しても、自分で運転するつもりはありません。以前から考えていたことですが、今日改めてそう思いました。人の命をも奪ってしまう凶器にも変わり得るその道具を、自分の楽のために軽々しい気持ちで使うのは許されないことです。常に「自分が運転をする時には他人の命も関わっている」ということを忘れずにいられるドライバーでなくてはなりません。
(岩見沢東高校3年女子 2003年4月)
- 今までの私の考えでは、もし自分が免許をとって、事故を起こしてしまっても、罰金などの自分の刑の事しか考えていなかったと思う。前田さんの話を聞いて、被害者の遺族の気持ちがどれほど重いものかわかった。
言われるまで深く考える事のなかった車社会。私は今まで便利さばかりを求めることで、日本の車社会は進化していくと思っていたが、こんなにも交通事故が多く、それによって悲しんでいる人がたくさんいるのだから、自分たちの生活を快適に便利にすることよりも、まずは1人でも被害にあう方が経るような努力を先にすべきだと思った。いつか運転する事があれば、その時は被害者の視点にたって、気を配りたい。また普段運転している自分の親にも今日のお話を伝えたい。
(札幌大麻高校2年女子 2005年6月)
3 実践の考察と課題
「被害の実相・命の尊厳」「クルマの科学」「クルマ社会と若者」というテーマでの、未だ模索中の実践であるが、具体的な事例によって、被害者の視点からその実相と本質に迫ることについては理解が得られたのではないか。また、運転免許模擬試験問題を使っての停止距離の計算や、実習を行っての反応時間の学習など、生徒が身近に感じられる教材での導入と展開は手応えもあり、った。いくつかの切り口から、現代のクルマ社会が抱える課題を理解し、主体的に思考していく契機になったと思われる。
しかし、実践は緒についたばかりであり、クルマと環境・エネルギー問題、公共交通機関の問題など今後に委ねられる項目も多々ある。「共生の交通社会」をテーマに、クルマ問題を自己の生き方、暮らし方と結合させた総合的な交通教育として進めるための課題は多い。
総合的学習の時間での取り上げが、様々な教科・科目での実践の広がりと集積につながることを期待する。例えば、高校においては、反応時間の実習は、物理分野の中で落下距離から落下時間を計算するという問題に関連して展開することもできるし、空走距離や制動距離の問題は数学の応用として扱うこともできる。社会科や理科での環境・公害、エネルギー問題、保健での健康・安全問題など直接的に関わる科目での取り上げはもちろん、国語で詩や評論、英語で海外の交通問題に関わるレポートを教材化するなど、問題意識が明確になれば児童生徒の発達段階に応じた、多様な実践が創造できる。それを再び総合的な学習の時間でのテーマ学習としてまとめ展開することで、また新たな実践の質が得られるのではないか。
Ⅶ おわりに
現代の「交通戦争」を終息できない社会は、肥大化した消費社会のある意味中心的存在であるクルマによって、利便性や時間の価値のみが絶対とされ、命と健康、そして生活そのものまでが市場原理主義によって意図的にスポイルされた社会と言い換えることができないだろうか。
しかし、人々はその死傷被害が時間的、空間的に分散して発生することから、「日常の仕方のない事故」という感覚麻痺に陥り、この人権侵害の重大性を見落してしまう。
こうした麻痺した意識を回復させ、人々がそして社会が理性と正義を取りもどすために、学校教育の果たす役割は大きいと思われる。
この課題に、これまでの学校教育における交通教育は充分に応えてきたのだろうか。モータリゼーションのもたらす負の側面に向き合わず、断片的な「安全」教育に偏り、人権教育、環境教育という側面をあわせ持つ総合的な「交通教育」の位置づけがなされてこなかったことも、交通禍を克服出来ない一因となっているのではないか。
クルマ問題は若者にとって身近な興味を惹くテーマでもある。ここに焦点を当てた交通教育のカリキュラムは、命の教育として、交通権を含めた人権教育として、また環境教育として欠かせないテーマであり、子ども・青年が現代社会を総合的に読み解き、生き方へとつなげるための教養としても重要である24)。
共生の交通社会づくりを主体的に担う教育として「スローライフ交通教育」の理念と実践を発展させ、その体系化を進めたい。
〈注〉
1)WHO “World report on road traffic injury prevention”2004年
2)総務庁『交通安全白書』(2000年)には「交通事故による身体障害者は全国で13万人,その中で重い傷害を有する者は約3万3千人いると推計されます。また,自賠責保険の重度後遺障害に係る支払い件数は,最近10年間で約2倍に増加しています(平成元年度973件,10年度1,944件)」との記述がある。
3)ウルリヒ・ベック『危険社会』法政大学出版局1998年
4)前掲3)
5)2000年11月発足の高校教員などで構成される教育研究団体。事務局は北海道札幌市。2006年8月、会名をそれまでの「交通教育研究会」から「スローライフ交通教育の会」と改称した。
https://remember-chihiro.info/slowlife/
6)UNICEF “A League Table of Child Deaths by Injury in Rich Nations” 2001年
7)内閣府編『交通安全白書』(2007年)の「諸外国の交通事故発生状況」より作成
8)地元紙「北海道新聞」は2007年4月5日付け紙面で、2006年の小学生1万人当たりの死傷者数が30.0と過去20年間で2番目に高いという道警調べを紹介。
9)図3は、北海道教育委員会の各年「交通事故発生状況」および文部科学省の「学校基本調査」の数値より作成。死者数のみ同乗での被害を含む。他は歩行もしくは自転車乗車中の被害。
10)札幌平岡高等学校(A校)は、札幌市内の新興住宅地に立地する道立普通科高校で学年8学級。札幌手稲高等学校(B校)は札幌市内郊外に位置する道立普通科高校で学年9学級。両校とも自転車通学生が約7割と多い。冬場はバス通学が主となる。
11)総務庁『交通安全白書』(2000年)の第2章には次の記述がある。(下線は筆者)
「現代の自動車社会においては、誰もが交通事故の当事者になってしまう危険と背中合わせであると言ってもよく、(中略)社会として自動車交通の便益を享受している以上、自動車交通社会の便益の裏返しとしての社会的費用である交通事故の被害を最小化するとともに、その負担を個人の苦しみとしては可能な限り軽減するため、社会全体がバランスよく負担していく方向で関連する施策を強化していくことが必要である」
なお、ここで使われている、犠牲を容認し社会全体で負担すべきという「社会的費用」は、宇沢弘文などが、交通事故被害などをもともと発生してはならないものとし、そのためのインフラ整備の費用を内部化-自動車通行者に負担-させるために用いた概念とは似て非なるものであることを付け加える。
12)宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書1974年
13)札幌東警察署編「青春の灯」札幌東交通安全協会、1999年
14)交通安全対策基本法22条1項に基づき中央交通安全対策会議が作成する。
15)例えば、総務庁『交通安全白書』2007年の2005年統計によると、アメリカの人口10万人当たり交通事故死者数は14.7人と各国に比し格段に高く、ドイツ(同6.50)も日本(同6.21)より高い。自動車1万台当たりについても同じ傾向である。
16)例えば、『クルマ社会と子どもたち』(杉田聡・今井博之 岩波ブックレット470 1998年)には、外傷疫学の研究者ロバートソンの報告が紹介されている。
17)スティナ・サンデルス『交通のなかの子ども』全日本交通安全協会1977年
18)例えば、今井博之「交通沈静化の海外の取り組み」(クルマ社会を問い直す会 2004年)に、その紹介がある。
19)政府の「第8次交通安全基本計画」(2006年)には、「しかしながら死傷者数と交通事故件数は、昭和53年以降ほぼ一貫して増加傾向にあり17年中の死傷者数は116万35,504人、交通事故件数は93万3,828件と若干減少したものの、依然として高水準にある」との記述がある。
20)齋藤基雄氏は「共生の交通社会」のねらいについて次のように述べる。「クルマの運転における人々の能力や適性が個別に異なる以上、運転できる人ができない人やしたくない人を不当に差別したり、あるいは体調不良の運転者に運転労働を無理強いしたりするのではなく、これらを個人のもつ特性の違いとして相互に尊重し合うことを通じて、これを満たす交通政策や土地政策を、社会成員ひとりひとりの自覚にもとづく合意形成によって成就できるように方向づけることで、クルマの利用に一面的に依存せずに済むコミュニティ生成を導く」(スローライフ交通教育の会会報誌「交通教育研究」No.7 2006年)
21)前掲同「交通教育研究」No.7 2006年
22)池田考司氏は若者のクルマ願望について次のように分析する。「市場が肥大化した消費資本主義では多数の消費者の存在が必要不可欠である。(中略)誰もが自動車免許を持ち、「カッコイイ」クルマを持ち運転する。そのような感情を抱かせるために、クルマ企業は消費資本主義の根本原理とも言える(消費)欲望の拡大に全力を挙げてきているのである。そんな中、道徳主義的なクルマ社会批判は残念ながら、若者の中で醸成されてきているクルマへの欲望を抑止することはできない。」(同「交通教育研究」No.5 2004年)
23)前掲同「交通教育研究」No.7 2006年
24)山本純氏は『18歳からの教養ゼミナール』(家田愛子編著、北樹出版、2005年)の12章「クルマ社会を考える」で、現代の教養としてクルマ問題にとりくむ視点と方向性を明確に述べている。
※ 本稿は交通権学会編集の「交通権」No.25,April 2008 所収(p73~87)のものです。
KOTUKEN
JOURNAL OF TRANSPORT PROBLES AND HUMAN RIGHTS
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論考・発言
【5】2008/4『スローライフ交通教育』の意義と教育現場での実践事例
2008年4月30日
「交通権」誌掲載「研究ノート」より
「スローライフ交通教育」の意義と教育現場での実践事例
The meaning of "traffic and transportation education for slow-life" and its practice in schools
前田敏章(北海道千歳高等学校)
Ⅰ はじめに
WHO(世界保健機関)は2004年の報告で、2002年の1年間に世界中で道路交通事犯により亡くなった人が120万人、負傷した人は5000万人と推定されるという衝撃的実態を発表した1)。「交通戦争」を克服できない、いわば進行するモータリゼーションに追いつけない社会,という現状が世界的規模で続く。
日本も例外ではない。近年交通死者数のわずかな減少はあるが、事犯件数と負傷者数は一貫して増加傾向にあり、頭部外傷による重度の後遺症が最近10年間で2倍になったという現実2)などを直視するなら、道路交通死傷被害は依然深刻な事態と認識すべきである。
交通死傷被害の増大という現実、およびその要因を直視できない社会がある。ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは「今日ほどわれわれが新たな概念を必要としている時代はない」と、近代の「(産業化された)危険社会」について警鐘を鳴らした3)。ベックはさらに「危険を指摘する人々は『悲観論者』であり、危険を捏造する者であると誹謗される」と、これまでの危険認識について批判している4)が、道路交通死傷被害もベックが指摘する「危険社会」の側面として捉えるべきである。
しかし、学校教育における大勢の交通教育は、歩行や運転の技能向上を強調する「安全」教育に偏り、この「危険社会」を問うことなく、モータリゼーション拡大に順応的でこれを補完する役割を果たしている。
筆者も参加する「スローライフ交通教育の会」5)(Institute of Traffic and Transportation Education for Slowlife 略称:ITTES)は、クルマへの依存を必要とする社会そのものを問う総合的な交通教育をめざして活動してきたが、本稿では、交通禍により児童生徒の安全が脅かされている実態、およびその中での高校生の意識について触れた上で、生命尊重のくらし方と結合した交通社会と交通教育の創造をめざす「スローライフ交通教育」の意義と端緒的実践例について教育現場から報告する。
Ⅱ 交通禍に脅かされる児童生徒の生存権
ユニセフ(国連児童基金)は、2001年2月、「豊かな国の子どもの事故死」6)という報告書で、加盟26か国の1991~1995の5年間の統計から、10万人当たりの事故死率を算出(日本は8.4人。最も少ないのはスウエーデンの5.2人)。最大の原因は交通外傷で、事故死の41%を占めると警告した。
この中に「事故の氷山図」があり、子ども(0歳から14歳)の事故被害で1件の死者の背景に160件の入院、2000件の事故があることも指摘している。
また、図2のグラフ7)から明白なように、日本は、歩行あるいは自転車乗車中の交通死の割合が欧米諸国に比べても図抜けて多く、児童生徒の危険な状況がうかがい知れる。
図1:死亡1例に対する入院、事故数(0~14歳 オランダ 注5)の報告書より作成)
図2:歩行および自転車乗車中の交通死数2005年の国際比較。棒グラフ左は、各国の人口10万人当たりの歩行中、自転車乗車中の死亡数(人)。同右は交通死全体に占める歩行中、自転車乗車中の死亡の割合(%)。数値軸は共用。
当地北海道においても、先頃小学生の交通事故増に警鐘が鳴らされた8)が、道内の小学生から高校生までの児童・生徒が、歩行あるいは自転車通行中に遭う交通禍は、2001年以降6年間の平均で、1万人当たり25.0人と高止まりである。(図3)9)
図3:道内児童生徒の交通禍死者数と在籍1万人当たりの負傷者数。数値軸は共用。
車両同乗中の被害も含めると、道内だけで毎日6.2人が傷つき、毎月1.2人の割合で尊い命が奪われる(1997年以降10年間の平均)という深刻な事態が続いている。
生徒の置かれている危険な実態を明らかにすべく、筆者が依頼された交通安全講話の際に、高校生対象のアンケート調査を実施した。協力いただいたのは、北海道札幌平岡高等学校(1年生と3年生計578人対象。2005年秋調査。グラフではA高校と表記)、および北海道札幌手稲高等学校(全校生1057人対象、2002年春調査。数値は斜体で、グラフではB高校と表記)の2校10)である。集計表は表1、表2にそれぞれ示す。
「事故にあった経験」はそれぞれ578人中、83人(14%)、1057人中、188人(18%)に及び、平岡高校では、そのうち2割の17人が2回以上も遭っている。被害の程度は、入院・通院がそれぞれ、11人(1.9%)、27人(2.6%)。軽い怪我が38人(6.6%)、101人(9.6%)であった(図4)。態様は自転車通行中が77%、66%と圧倒的に多く、被害体験は当然ながら年齢の高い3年生の割合が高い。
図4:事故に遭った経験者の割合と被害の程度(グラフのNAは「無回答」を示す。以下同じ)
また、図5のように、「クルマにより危険を感じたことがある」が321人(55.5%)、651人(62%)に上ること、さらに2回以上あるのが255人(44%)、503人(48%)にも達することは、先述の「事故の氷山図」を裏付ける。
図5:クルマにより危険を感じた経験
そして注目すべきは、実際に被害に遭った場合も、学校や警察に届けない割合が非常に高いことである。(図6)
図6:図5の中での学校や警察への届けの割合
事故に遭ったと回答した83人、188人の中で、学校又は警察に届けてない者が32人(39%)、75人(40%)と、「届けた者」25人(30%)、50人(27%)を上回っている。
被害者であるのに、「注意が足りないから被害にあった」などと逆に叱責されたりすることも要因の一つと思われるが、統計に表れる数以上の被害が予想できる。
このように、生徒にとって通学などの生活道路は正に危険極まりない空間となっており、総括すると、北海道内において高校3年までに、およそ6割の生徒が危険な場面に遭遇し、2割に近い生徒は実際に被害を受け、約2%の生徒が病院にかかるという憂慮すべき実態が浮き彫りになる。
Ⅲ 「クルマ優先社会」と若者
1 「クルマ優先社会」
私事になるが、筆者の長女(当時17歳)は、1995年、学校帰りの歩行中に、カーラジオ操作の脇見運転という前方不注視の運転者によって、理不尽に命を奪われた。遺族となり、悲嘆と絶望の中でさらに心を痛めたのが、娘の受けた「通り魔殺人的被害」を「仕方のない事故」と軽視する社会の扱いだった。当時の裁判官は、加害者の罪状について「数秒間のちょっとした不注意であり、往々にありそうな事」と、不当な執行猶予付き判決の「理由」を述べた。
命の尊厳をいとも簡単に踏みにじる不条理の背景に「クルマ優先社会」がある。とりわけ歩行者、子ども、お年寄りがクルマから一方的に受ける被害は、生存権という基本権の侵害であり、社会は最優先して護るべきであるのに、利便性や経済効率を絶対視する「クルマ優先社会」は、この犠牲を「便益の裏返しとしての社会的費用」11)と容認する。
こうした麻痺した社会を、経済学者の宇沢弘文は30年以上も前に看破し「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しない限りにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」12)と指摘していた。
2 「イニシャルD」にみる若者の意識
自動車メーカーは、若者をターゲットに、クルマのスタイルやスポーツ性を強調し、バラ色の「クルマ社会」の一員となることを誘う。
「INITIAL(頭文字)D」という講談社発行のコミックがある。若者に人気があり、ゲームのキャラクターともなっているが、影響を受けた青年が加害者となった事件が2003年4月23日、北海道深川市でも起きた。裁判でも明らかにされたが、運転していた短大生(当時)は、この物語の主人公に憧れ、スポーツカータイプのクルマが納車されたその日に公道での「峠下り」に向かい、その途中、時速100キロを超えて暴走。カーブを曲がり切れず電柱に激突し、助手席の短大生(当時)を死なせてしまった。青年は被告となり、危険運転致死罪に処せられた。ちなみに「イニシャルD」はドリフトのD。ドリフトとは、コーナーの進入で意図的にリヤタイヤを滑らせ、ステアリングとスロットル操作でスライドさせたままコーナーを回るというドライブテクニックを言う。また、主人公は家業の豆腐屋を手伝う普通の高校生であるが、何と中学1年の時から、元「ラリー屋」であった父親に自家用車で豆腐の配達を手伝わされ、無免許で公道の峠道を走りドライブテクニックを身につけたという不法極まりない設定の物語である。この作品は2005年には映画化もされた。
これについて、先述の札幌平岡高校で行った意識調査結果を示す(図7)が、男子の4人に1人が興味を持って本を読み、あるいは映画館まで足を運ぶなど、肯定的受け止めは多い。
図7:「イニシャルD」について
もちろんここでの「興味あり」がイコール実際の「暴走運転」ではなく、あくまで物語世界の事と理性的に捉える者が大多数と思われる。しかし、不法行為をヒーローに仕立てあげているこの作品が、徐々に理性を麻痺させる役割を持つことを問題として捉え注意する必要がある。2007年6月、道央の少年院で講話を行った際、「イニシャルD」について尋ねたところ、15人の少年全員が知っていた。やはり影響は大きい。しかし、この出版や上映に際し、社会的批判がほとんど為されていないことは異常と思われる。「イニシャルD」をめぐるこのような反応は、若者が幻想としてのクルマの虜にされ、加害者予備軍としての危険に晒されているクルマ社会の典型的断面と言えないだろうか。
3 被害の立場から一転、加害者予備軍に走る生徒
そして、学校現場で実践される大勢の交通安全教育は、意図しないまでも結果として、この「クルマ優先社会」に無批判な構成員を産みだしている。生徒は、自身重大な危険に晒されている高校時代までの被害の立場から、免許取得後は一転、いとも簡単に他者をも危険に陥れる加害者予備軍となる。
そうした危惧の一例だが、札幌市内高校の青信号で横断中に左折トラックに轢かれた学友の死を悼む文集13)に、「全てが偶然でした」「車によけてもらうのでなく、自分からよけるようにしなくてはなりません」など、交通犯罪被害を「仕方のない事故」と捉え、被害者としかなり得ない歩行者自らが責任を負おうとする倒錯した意識を反映した記述があり愕然としたことがあった。
上記の高校生の受け止めが果たして大多数なのかどうか、先の札幌平岡高等学校における実態調査の項目に加えた。集計結果は先の表1に、質問項目と結果を次に示すが、「仕方のないこと」という回答が予想以上に多く、杞憂ではなかった。
6年ほど前、札幌市内の高校1年生(女子)が、登校途中、青信号で横断中に左折トラックに巻き込まれ、即死されるという大変痛ましい事故がありました。
次の一文は、同じ学校の高校生が事故後「交通事故」について書いた感想の抜粋です。もし皆さんがこの立場(同じ学校の生徒が、同じような事故で命を失った)とすれば、どの感想に一番近いですか。
図8:学友の交通事故についての受け止め
同調査ではさらに、犠牲はやむを得ない「社会的費用」という考え方について、「スローライフの交通社会」を対極にして尋ねた。
交通事故についての次の考え方で、自分に近いものを選んで下さい。
結果は、男女差が若干見られ、男子では30%、女子では18%が、交通禍を仕方のない「社会的費用」と捉えていた。(図9)
図9:交通事故について
若干乱暴な設問項目とは言え、他の調査結果と重ね合わせて分析するなら、消費資本主義社会の中で意図的に醸成されているクルマ優先の意識構造が浮き彫りになる。
2002年春、道南の高校で交通安全の体験講話を行った後の生徒の感想文に、次の趣旨のものがあった。
娘の交通死について親の心情を吐露する際、その受け止めの多様さに、ある程度の覚悟は何時もしている。しかし、この一文を読んだときはやはり辛かった。公道上で何の非もないのに、何の関わりもない相手に命まで奪われるという、「通り魔殺人」に遭ったと同じ被害を「仕方のない運命」と受け止める。これが現在のクルマ社会の生徒への投影なのかと筆者は考える。
Ⅳ 現行の「交通(安全)教育」の問題点
1 「精神論」と「技能向上」教育の「交通心理学」
学校での交通安全教育は、「交通安全基本計画」14)(以下「計画」)によって位置づけられている。
「計画」は、「安全意識の徹底」や「安全思想の高揚」など精神面ばかりを強調しており、結果として被害の責任を児童生徒に転嫁すると同時に、運転者に対しても、単なる技能向上の必要性のみを喧伝し、安全運転の普及のためにと称して、早期からの免許取得に便宜を図る方向での、クルマ依存社会への習熟・順応が必要であることを説いている。
このような対策では、それ自体が前提とする、交通社会のクルマへの依存度の拡大がさらに進んだ場合、教育の効果が疑われるどころか、本来ならば安全面の他に、総合的な環境問題の次元にまで及ぶ、クルマ依存社会の負の側面がますます軽視されることにもなりかねない。
その根底にあるのが、「交通心理学」の立場である。政府の第3次「計画」(1981~1985年度)の参考にするという趣旨があったといわれ、(財)住友海上福祉財団が募集した「交通安全対策に関する論文募集」において、内閣総理大臣賞を受けた長山泰久氏の論文「交通教育の体系化」(『人間と交通社会』)幻想社1989年所収)は、その後のわが国の交通教育の方向性に強い影響を及ぼしたが、筆者は、このような「交通心理学」のみをベースにした「交通教育」の手法に、次のような問題点を感じている。
2 交通安全における「対症療法」の限界
こうした「交通心理学」に傾倒した立場からの「安全教育」には、しばしば児童生徒の発達段階を考慮しない教育項目が挙げられる。
「計画」を具体化した国家公安委員会作成の「交通安全教育指針」(1998年)では、幼児に対して、「交通マナーを実践する態度を習得させる」ために、「自動車等の基本的な特性及び合図を習得する」として、「制動距離」や「死角」、「内輪差」について「理解させましょう」とあり、児童期についても同様で、距離の知覚が未発達であるのに「自動車等の速度が速い場合などに制動距離が長くなる理由を具体的に説明し」などとある。
このように生理的な発達段階からみて無理なことを理解・習得させようとするために、被害にあったときの責任は、免許を持ち、車を操作した運転者や安全な道路環境整備を怠った社会ではなく、安全な行動を「習得」または「指導」できなかった子どもや保護者に向けられる。仮に運転者に責任が向けられることはあっても、その範囲は、先に述べた精神論や技能向上論など「結果」の範囲でしか問われず、問題の運転行為を導いた免許制度の不備や労働条件(例えば、職業運転者の過労運転など)といった「原因」まで考慮されることは殆どない。その結果、危険な道路環境の改善やクルマ利用の拡大抑制などは後回しにされ、被害者としかなり得ない子どもや歩行者に対して、たとえルールを守っていて被害にあった場合でも、さらに「交通ルールを守ろう」、「車に気を付けて」と無理な注意喚起をするにとどまるのである。
その端的な事例が札幌市でも起こった。2007年5月15日、札幌市内の小学2年生3人が、下校中横断歩道上で信号無視のトラックにはねられ重傷(うち1人は重体)を負ったのだが、当該小学校の校長は事故後の全校集会で、児童に「信号が青になっても、運転手の目を見てから、横断歩道を渡りましょう」(「北海道新聞」2007年5月17日、傍点筆者)と呼びかけたというのである。その後の報道に注意をしていたが、運送会社など運転側に大々的に再発防止を訴えるという動きや、市内他区を含めたスクールゾーンの通行規制の見直し提案などもなかった。そして6日後の5月21日、何と同じ札幌市内で、下校中青信号で横断中の小学2年生がトラックにひかれ死亡するという惨事が起こったのである。それでも社会の対応は「交通ルールの徹底を、市が緊急会議、各校に文書配布へ」(「北海道新聞」2007年5月23日)であった。
交通安全教育の効果を過大に評価することがクルマによる死傷被害の原因究明と対策を遅らせる。スウェーデンの児童心理学者スティナ・サンデルスが、すでに1968年に、子どもの認知能力の発達の面から「子どもを完全に交通環境に適応させることは不可能である」として「子どもが交通事故に遭わずにすむ道路環境を作るしか道はない」17)と結論づけていたことは重要である。スウェーデンではこうした認識がその後の交通政策の基礎となり、1997年には議会にて「長期的な目標は、スウェーデンの交通システムによって死亡したり、重傷事故にあうことをゼロにする」(ビジョン・ゼロ)ことが決議され、徹底した事故原因の調査分析をもとに、道路環境の整備、速度制限の徹底などが推進されているという18)。
3 「安全教育」=「免許取得を前提とした運転者教育」に短絡
子どもの注意力の発達だけに期待する立場では、どれだけ多くの子どもが犠牲になっても、交通安全教育を生涯教育に位置づけ、これを徹底すれば被害は防ぐことが出来ると、クルマ社会の未来を根拠なくバラ色に描くことにつながるのではないか。
2001年の7次「計画」は、学校教育の中で児童・生徒を「クルマ社会」へ適応させることを強調し、特に高校生に対しては「免許取得前の教育としての性格を重視した交通安全教育を行う」と運転者教育の導入を明記した。「免許取得前教育」という位置づけが現れたのは、1996年の第6次「計画」であり、これは1995年に「免許取得前の若者に対する交通安全教育の在り方に関する検討会」の報告を受けてのものである。この要旨は、1998年の総務庁編『交通安全白書』に「若者が将来免許を取得し、交通社会に運転者として参加することを前提に、『交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育む』という立場に立った交通安全教育が必要」と紹介されている。
しかしこの「立場」は、あまりに短絡した対症療法的発想と言えないだろうか。この「立場」から発行されたと思われる高校生向け教材資料『交通安全』(一橋出版、西山啓著、1994年)には、「免許証を手にするということは、見方によれば、交通戦争の召集令状を手にすることと言えるかも知れない」という物騒な表現が使われていたが、戦争は人が起こすものである、「交通戦争」を惹き起こし、これを終息できない現代のクルマ社会そのものを問うことが教育の場でも求められるのではないだろうか。
「安全教育」=「免許取得を前提とした運転者教育」ではないはずである。文部科学省が、「自他の生命を尊重する態度」(同省「高等学校学習指導要領」の保健体育、交通安全の項)という基本理念を真に唱えるのであれば、そして人々が現在のクルマ利用の安全面・環境面での問題点を考慮するならば、自分がハンドルを握る立場になることの可否も、交通安全対策の選択肢に含めるべきと考える。
Ⅴ 「スローライフ交通教育」の提案
1 モータリゼーション拡大につながる「安全」教育から総合的な交通教育へ
以上の各章から考えて、これからの交通教育は、先の『交通安全白書』にみられる「交通社会を安全に生き抜く知恵や態度を育む」といった、交通体系の選択に対して無批判な「対症療法」にとどまるのではなく、危険な交通社会そのものを主体的に問う教育内容が用意されなくてはならない。
ⅠおよびⅡ章で述べた深刻な交通禍は、運転免許保有者数、自動車保有台数、自動車走行キロの飛躍的伸びと軌を一にして増加傾向にある19)のであって、モータリゼーションの拡大自体がリスク増の要因となっている今日、「交通安全教育」の名のもと、免許取得前教育を学校教育に持ち込むことは、国民皆免許体制による無秩序なモータリゼーション拡大を一層押し進めるものであり、リスク要因を拡大再生産することになる。
2 「スローライフ交通教育」の提案
生命尊重を基本視点として、自動車交通における安全・環境・エネルギーの諸問題を総合的に捉え、これらの負荷削減と人間性がより発展する豊かな社会を目指す交通教育を提案する。
現代のクルマ社会の病理は生命身体の安全の問題の他に、環境、エネルギー問題まで根深い。市場メカニズムによる需給均衡と経済効率を唯一「善」とする市場原理主義に支えられている今日のモータリゼーションは、公共交通体系を衰退させ、郊外型ショッピングセンターの乱立に典型なスプロール化(土地利用無秩序化)をひき起こすなど、それがまた過度の自動車依存へと悪循環していると考えられるからである。モータリゼーション社会自体を問い直し、今後の社会政策や制度の改善に寄与する教育が学校に求められる所以である。
こうした問題意識から「スローライフ交通教育の会」は、「持続可能な社会に向けて、生命・環境・エネルギーの各面に配慮した交通体系の追求と、これを保障し得る人権の尊重、ならびに生活空間の形成に寄与する学校教育の振興と主体的市民の形成」(会則より)を目的に研究および実践を進めている。
「スローライフ交通教育」という名称を、市場原理主義の追求する「オン・デマンド」や「ジャスト・イン・タイム」の対義語という意味で考案した齊藤基雄氏((財)政治経済研究所非専任研究員)は、その意義について「モータリゼーション社会を真に問い直すには、単体としての車や道路、ドライバーの危険性といった要素のみ槍玉にあげる手法では限界がある」「交通とそれをとりまく社会・経済のありようを、集団レベルのリスク問題として、次代を担う青少年の一人一人が捉えられるよう、生徒の思考を助けること」に重点を置くとし、「共生の交通社会」20)をキーワードに「国民皆免許社会」からの脱却を強調。さらに、「自由競争やリスク選択への参加を行政から極度に強制されない権利としての『人権教育』の役割」も指摘する21)。
3 生徒が主体的に学ぶ交通教育
「スローライフ交通教育」は、生徒一人ひとりが能動的に、交通手段との向き合い方や、交通を発生させている社会経済的要因などを考えることを通して、サステナビリティ(人間社会の持続性)の視点から、生命・環境・エネルギーに負荷をかけない交通体系存立を可能とさせる街づくり・むらづくりという合意形成に寄与するものであり、一人ひとりの暮らし方まで考えさせることに主眼を置く。従ってその教育手法は知識伝達型や啓蒙主義的な押しつけ的なものではなく、生徒が主体的に学ぶものでなくてはならない。
子ども・青年を交通教育の客体ではなく主体にすることによってクルマ社会を批判的に検討し、これからの交通のあり方について考えられる市民をつくっていこうとするのである。
生徒が主体的に学ぶ交通教育を目指すとき、さらに留意すべき事は何か。一つは生徒の意識がどのような社会背景の影響を受けているか分析することであり、二つ目は生徒の認識能力や価値形成の段階を視野に入れることであろう。
「スローライフ交通教育の会」の会員で高校教諭の池田考司氏は、消費意欲のあくなき拡大を求める消費資本主義の中で醸成され肥大した欲望としてのクルマ願望について分析22)し、情動、感情と結びつく交通教育を提唱。導入として事例や被害者の声を取り上げること、その後の学習内容・教材は人の認識能力や価値形成の段階を視野に入れ構造化する必要を提起する23)。
4 「スローライフ交通教育」のテーマ例
交通教育を、学校教育の教育課程に位置づけること、例えば、総合的学習の時間のテーマとして、あるいは高校の教科目では公民の「現代社会」をメインに学習項目として位置づけることを提案したい。その上で関連する学習内容を地歴や理科、保健体育、あるいは家庭科など多くの教科科目に拡げるべきである。
多様な学習プランがあるべきだが、テーマ例を試案として示す。
テーマ例「交通犯罪被害の実相」、「世界は今も交通戦争」
テーマ例「クルマは急に止まれない~反応時間と子どもお年寄りの安全」
テーマ例「若者とクルマ社会~作られたクルマ願望」
テーマ例「地球温暖化・エネルギー問題とクルマ社会」「大気汚染裁判とクルマ社会」
クルマの総需要抑制、公共交通機関の整備、自転車利用の拡大の課題、児童生徒の通学問題など、人や地域のくらし方との中で、免許を持たない生活スタイルの選択もあることなど、クルマとの関わりを主体的に考えさせる。
テーマ例「交通社会の歴史と交通権」、「ローカル線廃止と通学問題」、「規制緩和と運輸問題」、「新しい地域コミュニティづくり」、「豊かな社会論」
Ⅵ 実践例
1 総合的学習の時間でのテーマ学習
筆者の勤務校、北海道千歳高等学校定時制における2005~6年の実践事例を報告する。対象生徒は2学年20数名。総合的学習の時間におけるテーマ学習「若者とクルマ社会」として3時間展開で行った。
(1)1時間目;テーマ「被害の実相」
筆者の娘の事件など交通死の具体例から、命の尊厳、親の心情について述べ、被害者の視点から交通死傷事件の本質を考えさせた。被害者からすると「通り魔殺人」的被害であること。日本の身体犯被害の96%はクルマによること。世界的な課題であること。
(2)2時間目;テーマ「クルマを科学する」
運転免許資格には高度の専門性と適性、人命尊重の人格が求められることの学習。一例として、車のもつ強大なエネルギーと停止距離(=空走距離+制動距離)を物理の計算から導くなど危険性を具体的に学ぶ。同時に反応時間の実習を行い、運転の側からの空走距離について理解を深めるとともに、道路を共有する子どもやお年寄りは、知覚や認識の生理的能力が未発達もしくは衰えるので、安全を守るのはクルマ使用の側であることを強調した。
(3)3時間目;テーマ「クルマ優先社会と若者」
交通犯罪加害者の刑事罰の不当な軽さ、「イニシャルD」の影響を受けた若者の事件例などから、交通犯罪被害を続発させている背景としての「クルマ優先社会」について考えさせた。また、被害ゼロのためにクルマ使用の社会的規制や安全な道路環境整備(免許制度の厳格化、速度抑制、生活道路での歩行者優先、歩者分離、公共交通機関の整備など)を強調。クルマの有用性について「クルマは速く格好良く走るものではなく、ゆっくりだが、雨風しのいで、荷物も積んで、ドアからドアへ移動できる便利なもの。子どもや高齢者、病気の人に特に必要なもの」と、その認識を転換してはどうかと話した。
また「共生の交通社会」についてスウェーデンの「ビジョン・ゼロ」などを例に紹介。クルマ問題を通して、真に豊かな暮らし方や街づくりの課題について考える必要性を提起。まとめとして感想レポートを課した。
(4)生徒の感想例
2 体験講話での実践
筆者は7年ほど前から高校などでの交通安全講話を担当する機会が多い。2000~2006年度の延べ回数は、高校39回、大学9回、更生施設8回であり、受講者数は、集計データのある2003~2006年度の4年間で延べ16,512人となった。
テーマはいつも「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」であり、主体的に学ぶ交通教育としては導入部分と位置づけ、前記総合的学習の時間と同主旨の内容で、命の大切さとクルマ社会を問い直す必要性を話している。生徒の感想例を示す。
(岩見沢東高校3年女子 2003年4月)
言われるまで深く考える事のなかった車社会。私は今まで便利さばかりを求めることで、日本の車社会は進化していくと思っていたが、こんなにも交通事故が多く、それによって悲しんでいる人がたくさんいるのだから、自分たちの生活を快適に便利にすることよりも、まずは1人でも被害にあう方が経るような努力を先にすべきだと思った。いつか運転する事があれば、その時は被害者の視点にたって、気を配りたい。また普段運転している自分の親にも今日のお話を伝えたい。
(札幌大麻高校2年女子 2005年6月)
3 実践の考察と課題
「被害の実相・命の尊厳」「クルマの科学」「クルマ社会と若者」というテーマでの、未だ模索中の実践であるが、具体的な事例によって、被害者の視点からその実相と本質に迫ることについては理解が得られたのではないか。また、運転免許模擬試験問題を使っての停止距離の計算や、実習を行っての反応時間の学習など、生徒が身近に感じられる教材での導入と展開は手応えもあり、った。いくつかの切り口から、現代のクルマ社会が抱える課題を理解し、主体的に思考していく契機になったと思われる。
しかし、実践は緒についたばかりであり、クルマと環境・エネルギー問題、公共交通機関の問題など今後に委ねられる項目も多々ある。「共生の交通社会」をテーマに、クルマ問題を自己の生き方、暮らし方と結合させた総合的な交通教育として進めるための課題は多い。
総合的学習の時間での取り上げが、様々な教科・科目での実践の広がりと集積につながることを期待する。例えば、高校においては、反応時間の実習は、物理分野の中で落下距離から落下時間を計算するという問題に関連して展開することもできるし、空走距離や制動距離の問題は数学の応用として扱うこともできる。社会科や理科での環境・公害、エネルギー問題、保健での健康・安全問題など直接的に関わる科目での取り上げはもちろん、国語で詩や評論、英語で海外の交通問題に関わるレポートを教材化するなど、問題意識が明確になれば児童生徒の発達段階に応じた、多様な実践が創造できる。それを再び総合的な学習の時間でのテーマ学習としてまとめ展開することで、また新たな実践の質が得られるのではないか。
Ⅶ おわりに
現代の「交通戦争」を終息できない社会は、肥大化した消費社会のある意味中心的存在であるクルマによって、利便性や時間の価値のみが絶対とされ、命と健康、そして生活そのものまでが市場原理主義によって意図的にスポイルされた社会と言い換えることができないだろうか。
しかし、人々はその死傷被害が時間的、空間的に分散して発生することから、「日常の仕方のない事故」という感覚麻痺に陥り、この人権侵害の重大性を見落してしまう。
こうした麻痺した意識を回復させ、人々がそして社会が理性と正義を取りもどすために、学校教育の果たす役割は大きいと思われる。
この課題に、これまでの学校教育における交通教育は充分に応えてきたのだろうか。モータリゼーションのもたらす負の側面に向き合わず、断片的な「安全」教育に偏り、人権教育、環境教育という側面をあわせ持つ総合的な「交通教育」の位置づけがなされてこなかったことも、交通禍を克服出来ない一因となっているのではないか。
クルマ問題は若者にとって身近な興味を惹くテーマでもある。ここに焦点を当てた交通教育のカリキュラムは、命の教育として、交通権を含めた人権教育として、また環境教育として欠かせないテーマであり、子ども・青年が現代社会を総合的に読み解き、生き方へとつなげるための教養としても重要である24)。
共生の交通社会づくりを主体的に担う教育として「スローライフ交通教育」の理念と実践を発展させ、その体系化を進めたい。
〈注〉
1)WHO “World report on road traffic injury prevention”2004年
2)総務庁『交通安全白書』(2000年)には「交通事故による身体障害者は全国で13万人,その中で重い傷害を有する者は約3万3千人いると推計されます。また,自賠責保険の重度後遺障害に係る支払い件数は,最近10年間で約2倍に増加しています(平成元年度973件,10年度1,944件)」との記述がある。
3)ウルリヒ・ベック『危険社会』法政大学出版局1998年
4)前掲3)
5)2000年11月発足の高校教員などで構成される教育研究団体。事務局は北海道札幌市。2006年8月、会名をそれまでの「交通教育研究会」から「スローライフ交通教育の会」と改称した。
https://remember-chihiro.info/slowlife/
6)UNICEF “A League Table of Child Deaths by Injury in Rich Nations” 2001年
7)内閣府編『交通安全白書』(2007年)の「諸外国の交通事故発生状況」より作成
8)地元紙「北海道新聞」は2007年4月5日付け紙面で、2006年の小学生1万人当たりの死傷者数が30.0と過去20年間で2番目に高いという道警調べを紹介。
9)図3は、北海道教育委員会の各年「交通事故発生状況」および文部科学省の「学校基本調査」の数値より作成。死者数のみ同乗での被害を含む。他は歩行もしくは自転車乗車中の被害。
10)札幌平岡高等学校(A校)は、札幌市内の新興住宅地に立地する道立普通科高校で学年8学級。札幌手稲高等学校(B校)は札幌市内郊外に位置する道立普通科高校で学年9学級。両校とも自転車通学生が約7割と多い。冬場はバス通学が主となる。
11)総務庁『交通安全白書』(2000年)の第2章には次の記述がある。(下線は筆者)
「現代の自動車社会においては、誰もが交通事故の当事者になってしまう危険と背中合わせであると言ってもよく、(中略)社会として自動車交通の便益を享受している以上、自動車交通社会の便益の裏返しとしての社会的費用である交通事故の被害を最小化するとともに、その負担を個人の苦しみとしては可能な限り軽減するため、社会全体がバランスよく負担していく方向で関連する施策を強化していくことが必要である」
なお、ここで使われている、犠牲を容認し社会全体で負担すべきという「社会的費用」は、宇沢弘文などが、交通事故被害などをもともと発生してはならないものとし、そのためのインフラ整備の費用を内部化-自動車通行者に負担-させるために用いた概念とは似て非なるものであることを付け加える。
12)宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書1974年
13)札幌東警察署編「青春の灯」札幌東交通安全協会、1999年
14)交通安全対策基本法22条1項に基づき中央交通安全対策会議が作成する。
15)例えば、総務庁『交通安全白書』2007年の2005年統計によると、アメリカの人口10万人当たり交通事故死者数は14.7人と各国に比し格段に高く、ドイツ(同6.50)も日本(同6.21)より高い。自動車1万台当たりについても同じ傾向である。
16)例えば、『クルマ社会と子どもたち』(杉田聡・今井博之 岩波ブックレット470 1998年)には、外傷疫学の研究者ロバートソンの報告が紹介されている。
17)スティナ・サンデルス『交通のなかの子ども』全日本交通安全協会1977年
18)例えば、今井博之「交通沈静化の海外の取り組み」(クルマ社会を問い直す会 2004年)に、その紹介がある。
19)政府の「第8次交通安全基本計画」(2006年)には、「しかしながら死傷者数と交通事故件数は、昭和53年以降ほぼ一貫して増加傾向にあり17年中の死傷者数は116万35,504人、交通事故件数は93万3,828件と若干減少したものの、依然として高水準にある」との記述がある。
20)齋藤基雄氏は「共生の交通社会」のねらいについて次のように述べる。「クルマの運転における人々の能力や適性が個別に異なる以上、運転できる人ができない人やしたくない人を不当に差別したり、あるいは体調不良の運転者に運転労働を無理強いしたりするのではなく、これらを個人のもつ特性の違いとして相互に尊重し合うことを通じて、これを満たす交通政策や土地政策を、社会成員ひとりひとりの自覚にもとづく合意形成によって成就できるように方向づけることで、クルマの利用に一面的に依存せずに済むコミュニティ生成を導く」(スローライフ交通教育の会会報誌「交通教育研究」No.7 2006年)
21)前掲同「交通教育研究」No.7 2006年
22)池田考司氏は若者のクルマ願望について次のように分析する。「市場が肥大化した消費資本主義では多数の消費者の存在が必要不可欠である。(中略)誰もが自動車免許を持ち、「カッコイイ」クルマを持ち運転する。そのような感情を抱かせるために、クルマ企業は消費資本主義の根本原理とも言える(消費)欲望の拡大に全力を挙げてきているのである。そんな中、道徳主義的なクルマ社会批判は残念ながら、若者の中で醸成されてきているクルマへの欲望を抑止することはできない。」(同「交通教育研究」No.5 2004年)
23)前掲同「交通教育研究」No.7 2006年
24)山本純氏は『18歳からの教養ゼミナール』(家田愛子編著、北樹出版、2005年)の12章「クルマ社会を考える」で、現代の教養としてクルマ問題にとりくむ視点と方向性を明確に述べている。
※ 本稿は交通権学会編集の「交通権」No.25,April 2008 所収(p73~87)のものです。
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