交通死ー遺された親の叫びⅠ(2013~1998)

【コラムNo.004】2000/2/5 小学生殺害事件と「交通死」(3.9.加筆)

2000年2月5日

 1999年12月に京都の小学校校庭で起きた中村俊希君(小学2年)殺害事件の容疑者が、任意同行を求めた捜査員を振り切り、団地の13階から飛び降り自殺した事が大々的に報じられた。中村さんの自宅には「事件から日も浅く、心の整理がついておりませんので、取材は断ります。」旨のメモが門柱に貼ってあったという。

 時間が経っても、犯人が確定しようとも、ご両親にとって心の整理などつくはずはないと推察される。かけがえのない愛し子を理不尽に殺された親がどうして気持の整理などできるでしょう。私の娘も同じように理不尽に殺され、非業の死を遂げた。しかし、世の多くの人は、娘を殺した「交通犯罪」について、犯罪とは別次元の「事故」という見方をする。この「交通犯罪容認」の異常さを世に訴えているのが、自身大学生の娘さんをクルマによって奪われた二木雄策さんの「交通死」(岩波新書)である。(とりわけp215~)

 例えば、1995年6月25日の朝日新聞の記事を紹介して、「(松本サリン事件で)大学生の子どもを失った父親がその手記に『交通事故のように原因がはっきりしていれば、それなりに心の整理ができる』と書き、また26歳の子息を奪われた父親が、『交通事故で死んだのなら、あきらめもつく』と語っているのを読むと『それは違う』と叫びたい衝動に駆られる。」などと述べているが、全く同感である。

 二木氏は、こうした交通犯罪にあまりに寛大な社会の異常さの原因を次のように述べている。

  • 我々の社会がモノの生産を中心に動いてきたため、効率や利便性を重視するあまり、人間の生命を軽視する風潮を醸し出し、人間の生命にカネを支払うことで交通犯罪の処理を完結させてしまうという大勢に結びついた。それが、多発する交通犯罪を異常とは感じず、「事故」を機械的、事務的に処理することで日常の中に埋没させてしまうという我々の社会の異常さに連なった。
  • このクルマ社会では、誰もが加害者になる可能性をもつから、クルマの事故を異常とは認識しないし、犯罪だとも思わない。それは、人は誰しも自分自身は正常であり、犯罪者ではないと考える性向をもっているからである。

 私は、交通事故を「車対車」の場合と「人対クルマ」の場合とに明確に分けて考えるべきではないかと強く思っている。ある意味互いに対等で加害者・被害者の関係が微妙な場合も含む「車対車」の事故と、一方は被害者にしかなり得ない「歩行者対クルマ」ではその性質を全く異にするからである。これをごっちゃにして論じるので、現在の人権無視、人命軽視の「クルマ中心社会」の異常さが浮き彫りにされず、利便さと経済効率のみに目を奪われて、交通犯罪にどこまでも寛容な風潮が醸成される。

 交通犯罪の多くは、刑法の「罪を犯す意思がない行為は罰しない」(刑法38条)を援用して業務上過失致死傷罪として軽く扱われる。
 しかし、第一義的に安全運転の義務を負っている(注1)運転者が重大な死傷事件を起こした場合、単なる不注意で済まされるべきではなく「未必の故意」(注2)を適用すべきである。
 そうした意味も含めて「交通死」と一括りにするのでなく、歩行者被害は「交通殺人」と呼ぶなどしなければ事態の本質や深刻さは伝わらない。

「交通戦争」は

 同じ視点から「交通戦争」という言葉もカテゴリーが広すぎ、使い分けをしなければならない。「車対車」の場合はそのままあてはまるかもしれないが、交通弱者が一方的に殺される場合には不適切である。互いに武器を持って対峙する戦闘場面と、歩行者や子ども、お年よりがとクルマが相対する状況は全く違うのに、これを混同して使うと、やはり本質を隠してしまう。

 年間5000人以上の犠牲者を出している後者は、戦争の中でも民間人を一方的に殺す「虐殺」(戦争犯罪)にあたるので、「交通虐殺」「交通ジェノサイド(genocide:集団殺戮)」などと正確に言わなくてはならない。

 「交通戦争」は、二木氏が指摘するように「人間の死を日常の中に取り込んでしまい、それを異常だと認識しない(あるいはさせない)ことに戦争の真の異常さがあるとすれば、現在の日本はまさに交通戦争の真っ只中にあると言わざるを得ない。また自分が殺されると同時に他人を殺さなければならないという「殺し合い」の中に戦争の非人間性があるのだとすれば、交通事故の被害者になる可能性とともに、加害者になる可能性を常にもっている我々はやはり戦争の中に生きている」(p220)という意味でとらえたい。いずれにしても、交通犯罪にどこまでも寛容な今の社会の異常さを告発するにふさわしいタームはないのだろうか。

注1:道路交通法第70条(安全運転の義務)
「車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。」

注2:未必の故意
「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図ないし希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方がないと認めて、あえてその危険をおかして行為する心理状態。故意の一種」(「広辞苑」)

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