交通死ー遺された親の叫びⅡ(最新〜2013) 交通死傷ゼロへの願い

コロナ禍に世界は「非常事態宣言」、しかし交通死傷は「日常化された大虐殺」

2020年5月6日

 新型コロナウイルスの問題が深刻です。死者数(感染者数)が、日本で556人(1万5千人)、世界全体で25万5千人(364万人)にも及ぶ(5月6日現在)自然の猛威に、世界の人々が「非常事態」として、国境を越えて立ち向かっています。
 翻って、人が豊かさを求めて開発した道路上のクルマによる死傷被害はどうでしょうか。日本で1月以来交通死された方は961人です。(4月30日現在)
 世界では、2016年に135万人もの方が亡くなり、5千万人もの人々が負傷しています(WHO世界保健機関の2018年版報告「Global Status Report on Road Safety」より)。しかも、死者は3年間で約10万人増加し、5~29歳の子ども・若者世代の最大の死因になっているとのことです。
 ことクルマに関してはどうしてこんな不条理と非倫理が世界的規模で続くのか、悲しくてなりませんが、改めて変革への道を考えます。

「日常化された大虐殺」と交通被害者のリアル

 交通死傷被害の残虐性について、イギリスの詩人、ヒースコート・ウイリアムズが、長編詩“AUTOGEDDON”で、「世界の半分が自動車事故に巻き込まれるだろう。生きている間のいつの日かに・・・月並みなホロコースト」と詠い、警鐘を鳴らしたのは1991年です。(209節から成る長編詩の中程。括弧内は節番号)

And half the world will be involved in an auto-accident(87)
At some time during their life.(88)
The humdrum holocaust―(147)

 「ホロコースト」はギリシャ語で「全てを焼きつくす」という意味で、一般にはナチスの大量虐殺を指して使われますが、私は以前から、現代の交通死傷被害もこれに類似していますので、ヒースコートの詩のように「日常化された大虐殺」というタームを使っていました。
 わが国の交通死者の半数近くは子どもや高齢者など歩行あるいは自転車乗車中での被害であり、重量1トン以上の鉄製のクルマに対して無防備の弱者が受ける被害であるからです。「世界道路交通被害者の日・北海道フォーラム」で採択した「交通死傷ゼロへの提言」の中でもこの言葉を使い、不条理の根絶を求めています。

 被害者の声が届きはじめ、若干の減少はあります。しかし、消費主義に麻痺したクルマ優先社会は、悲惨な死傷被害を「クルマは便利で役立っているからある程度の犠牲は仕方ない」「やる気でやったわけではないから刑罰も軽く」「賠償すれば済む」などと半ば容認し、抜本的・総合的な施策には至っていません。
 被害者・家族は、変わらない不条理に悲嘆と絶望・社会不信に陥り、声もあげる気力も萎える、これが「交通被害者のリアル」です。「遺された親」25年目の私も、日々その想いを強くしています。
 このような中、最近手にした書「幸せのマニフェスト」(ステファーノ・バルトリーニ著 コモンズ)との出会いは貴重でした。勇気づけられたのは、副題の「消費社会から関係性の豊かな社会へ」という著者の慧眼です。
 私は以前から「命の大切さを学ぶ教室」など体験講話の際に、道路交通被害の悲惨さとして、「傷つけ(殺め)、傷つけられる(殺められる)」「憎み、憎まれる」などという、豊かさや幸福度の最も大切な指標である人と人との関係性破壊の累積を強調し、社会全体の麻痺を正すべきと訴えていたからです。

前田の講話スライドより

被害数は累積で捉えて欲しい~戦後74年間の死傷被害は人口の3分の1。「関係性破壊」は深刻

 体験講話の標題は20年前から変わらず「命とクルマ、遺された親からのメッセージ」です。
 その中で、クルマ優先社会の問題について、以下の図などをスライドで示し、共に考えます。
 一点目は、被害を死亡だけでなく負傷被害を合わせて考えることです。遷延性意識障害のご家族はもとより、怪我をされた方の苦しみと加害者への憎しみは、命を奪われた事件被害と何も変わりません。
 救命医療の発達もあり死者数の減少はありますが、死者の約8倍の方が(1か月以上の入院を要する)重傷被害、同じく110倍の方が負傷被害を受けています。死者数は「氷山の一角」なのです。

図1)警察庁統計から作成

 なお私は講話の中で、次の問答も行ってクルマ社会の異常性を訴えています。

[問]2018年の「身体犯」被害者数は55万6029人に上りますが、この中で「交通死傷」の占める割合は何%と思いますか?

[答]95%
2018年の交通死傷者数=529,378人(30日死者4,166+負傷者525,212)
同年の殺人・傷害死傷者数=26,651人(死者690+負傷者25,961)

(令和元年度版「犯罪被害者白書」より)

 二点目は、被害者数を単年度ではなく累積で考えることです。
 北海道の会の会報に毎号掲載している手記に共通するのは、悲嘆と苦しみ、加害者への憎しみが、年月を経て軽減するどころか何十年経っても深まるばかりであることです。もちろん私もです。
 ですから私は、被害の実態を(折線グラフではなく)累積の棒グラフで示します。
 次の二つの図に見るように、戦後74年間で、95万4千人もの方が交通死され、死傷者全体では、何と4774万人(人口の3分の1)もの方が傷つけられているのです。前述したヒースコート・ウイリアムズの警鐘に相当します。

図2)日本の戦後10 年ごとの累積死者数。犯罪白書及び警察庁統計から試算

図3)日本の戦後10 年ごとの累積死傷者数。
単位は万人。犯罪白書及び警察庁統計から試算

 三点目です。私は講話の中で次のような問答をします。

[問](現状が変わらなければ)私たちの一生(例えば85年)の間に、交通死傷被害に遭う人は,日本の人口(1億2618万人)のおよそ何分の1に当たると思いますか?

[答]約2分の1
この10年(2010~19)の死傷者数の平均は約70万人(70万人×85年=5,950万人。約6千万人)

 このように説明し、他者との憎み憎まれるという「幸せ」や「豊かさ」を根底から破壊する、悪しき関係性をとてつもなく蔓延させているのが、交通被害の問題ではないかと訴えます。
 そして、図の累積交通死傷者数の棒グラフに改めて注目してもらいます。1959年時点では戦後14年間の累積死傷者数100万人でした(棒グラフの左端です。これも大変な数です)が、それから60年経った2019年時点では累積が4774万人にも達している(棒グラフの右端)ことの深刻性を想像してもらうのです。被害者の家族や相手の存在を考えると、悪しき関係性の沈積が、皆が望む幸福で豊かな社会にどれほどの害悪となって拡がっているか計り知れません。
 秩序なきモータリゼーションの進行で、一見「便利」になり、まやかしの「豊かさ」を感じているのかも知れませんが、決して侵してはならない命の尊厳(生命倫理)と真の豊かさを破壊し続けているのが、現代の麻痺した「クルマ優先社会」ではないでしょうか。

交通死傷ゼロで「関係の豊かな社会」を、そのために根底からの課題を総合的に

 「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」
 経済学者の宇沢弘文は「自動車の社会的費用」(岩波新書1974年)でこう警鐘を鳴らし、「社会の非倫理化」を正し真に豊かな社会のための都市や道路や交通のあり方を「社会的共通資本」(岩波新書1991年)の中で示しました。
 そして、前述のイタリアの政治経済学者バルトリーニも同質の論を展開しているのです。バルトリーニは、米国型の「消費文化」に依拠した自動車中心社会(日本も同様と思います)を批判し、「関係を豊かにする政策」として、自動車の厳しい使用制限、歩行や自転車や公共交通機関を使って誰もが安全に移動できる都市空間づくりなどを強調しています。
 私は、この「関係の豊かな社会」づくりを基底にした交通政策のいくつかが、ヨーロッパを中心に多くの国や地域で数十年前から取り組まれていることを知り、一筋の希望を感じています。(前回ブログ記事「サイト開設20年の想い」の後段を参照下さい)
 この度のコロナ禍の中でも、「豊かさの哲学」を持つ国々では、ロックダウン中の人々が安心して道を歩けるよう、自転車レーンを追加し、一部の街路への自動車の乗り入れを禁止する、あるいは、これを機に車道を削って歩道と自転車レーンを拡張する工事を進めるなど、わが国では中々考えられない進んだ取り組みを行っていることを知りました。
 日本においては、例えば「ゾーン30」の整備が2016年の「第10次交通安全基本計画」に明記されるなど、その兆しはありますが一部に留まり、パラダイム転換には至っていません。
 改めて、憲法第13条(「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び、幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)を空文化してはならないとの思いを強くしました。
 命の尊厳=交通死傷ゼロの社会のために「人、車、道路環境」の重点課題を示し、まとめとします。

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