交通教育理論篇

二輪車・自動車を学校交通教材とすることの是非について考える
~「人間と交通社会」(長山泰久著)と「地球はそもそも歩行者天国」(交通遺児学生の会編著)を読み比べてみよう~

07.4.5 齊藤基雄氏 「交通教育研究会」会報6号(2005.10.5.)に掲載

齊藤 基雄(本会研究員)

現状と今日的意義

 昨今、交通を扱った教育の分野において、一見して相反する二つの動きが目立っている。

 一つは、文部科学省・内閣府において、現在のわが国の運転免許取得率の高さ、すなわち「国民皆免許」状況を根拠に、二輪車・自動車を高校の交通教材として積極的に取り入れようとする動きである。これは、1970年代から各都道府県の高校PTAで始まった「三ない運動」(生徒に免許を取らせない、バイクを買わせない、運転させない)に対する国民各層からの反発を受けて、1989年に文部省(当時)が運転免許取得に関する学習の高校正課授業への導入を検討し始めて以来、1999年の「免許取得前の若者に対する交通安全教育の推進方策に関する検討会・報告」を経て、2000年4月から、二輪・四輪教育モデル校制度の拡大(一都道府県に複数校以上)という方向で今日まで続いている。

 もう一つは、国土交通省の主導により、都市人口の分散が進まない地域でかつ財政難から道路の拡幅・新設が望めない、渋滞多発地域の小中学校を主たる対象として、道路交通の流動性低下により懸念される市場経済(物やサービスの取引)の停滞を阻止すべく、ピーク時旅客交通の公共交通への転換を目標とした教育(TFP=トラベル・フィードバック・プログラム)である。これは、今世紀に入ってから目立ってきており、主として当該地域の「総合的な学習の時間」で取り入れられていることが多い。

 わかりやすくまとめると、前者は「クルマ利用の現実に鑑み、生徒の免許取得と車両所有に便宜を図る教育」であり、後者は「クルマ利用の増大がもたらす弊害を考え、不要不急の運転を抑制する教育」といえる。つまり、前者の教育を強化すれば後者の目標達成は困難となり、後者の教育を強化すれば前者を求める生徒側の需要は減るはずである、ということである。

 しかしながら現在、前者の教育を推進する側においては、後者の動きに警戒する姿勢は見られず、後者の教育を推進する側は、それどころか「三ない問題」を“過去の問題”と決めつけているがために、クルマ利用を問い直す教育がこれまでわが国において導入困難とされてきた歴史的経緯を、全く無視している。

 原因は、両者の教育が一見して相反の関係にありながら、監督官庁の違いにより、現在は縦割り的に“相互不可侵”の関係が成り立っているとともに、実は両者ともに、これらの研究活動を支えているスポンサーが、自動車・道路関連業界(メーカー、ディーラー、ゼネコンなど)だからである。

 両者に共通するとみられる目的は、これら業界の性格から、個人レベルでのモビリティ(移動力)向上によって、人・物・金の回転を向上させる市場経済のさらなる活性化にあると考えられる。それが証拠に、後者の教育プログラムにおいて、公共交通を「活用する」範囲は、やはり都市部のうち交通量の分散が見込まれない場所に限られている一方、過疎地で廃止寸前の状態にある鉄道やバスの重要性について考える内容は全くみられない。

 今日、規制緩和政策の進展により、地方の鉄道やバスにおいては、廃止手続きが容易となり、年々、高校生の通学手段の私的交通への転移が進み、非積雪地の高校では過疎地を中心に、二輪を新たな通学手段として活用する動きも拡大しつつある。これが拡大すれば、生徒の通学時の安全性の低下とともに、環境・エネルギー保全に対する意識醸成の遅滞も懸念される。

 生命尊重の視点から、自動車交通における安全・環境・エネルギーの諸問題を総合的に捉え、これらの負荷軽減を目指す本会の交通教育では、後者の教育と外見は同じようにみえながらも、この系列の研究者たちとは一線を画し、社会的・経済的背景を伴う歴史認識を重視する取り組みを強調していきたい。

 具体的には、免許取得・クルマ利用の強制に異議を唱える立場から、「クルマ利用を抑制する教育がこれまで、わが国でほとんど取り入れられなかった理由」、すなわち前者の教育がこれまでに拡大してきた要因への着目を通して、交通戦争の阻止に寄与する「人・物・サービスの“群れ方”」や「移動手段の“選び方”」、そしてこれらを支える社会インフラの「維持の仕方」を、生徒一人一人が考えることのできる教育プログラムの制作に取り組みたい。

 そのために本会では、前者の思想の根源となっている『人間と交通社会』(長山泰久著)と、実は後者のTFPが出現する以前、唯一「クルマ利用抑制の交通教育」を提起し、真に生命・環境の尊重を目的論に据えていながら、モータリゼーション批判派の多くにおいてさえ、残念ながら積極的に支持されたことのなかった『地球はそもそも歩行者天国』(交通遺児学生の会編著)を読み比べることで、新しい交通教材の制作に必要な基礎知識や問題設定方法の涵養を早急に図っていきたい。

二輪・自動車教育推進論の元祖―『人間と交通社会』

1.この本の概要

 著者は、現・阪大名誉教授の長山泰久氏であり、交通心理学が専門である。「交通心理学」は歴史的に、産業労働の安全性や効率性の向上を目的とした「産業心理学」から派生したものとされる。「産業心理学」において、作業時の安全性向上を図るために必要とされる教育対象は、作業場(工場、建設現場、オフィスなど)の従業員およびこれらの場所に出入りする取引先や来客等とされているが、これを交通現場に応用すると、教育対象は不特定多数の路上を往来する車両とその運転者、そして歩行者、すなわち「全ての道路利用者」とされることになる。それゆえ、「交通心理学」の研究者の大半は、運転者と歩行者の双方の路上における安全責任を「同等」とみなす説をとっており、結果として、「歩行者にも運転免許取得レベルの交通法規の習得が必要」とか「将来の免許取得に備えて、路上での運転に必要な危険察知能力は幼少時から身につけておくことが必要」、従って「大人になれば皆が免許を取得するのだから、学校は生徒のバイク利用を禁止するのではなく、早期からクルマ利用に慣れてもらうため、免許取得を目的とした安全教育をすべきである」という主張が出てくるわけである。この本は、そうした流れの「元祖」であるとされる。

 この本は、1980年に著者が住友海上福祉財団(現・三井住友海上福祉財団)主催「交通安全に関する論文募集」において内閣総理大臣賞を受賞した論文「交通教育の体系化」をベースに1989年に刊行されたものであり、大きく五つの章で構成されている。

 最初の「一、人とクルマの関わり」では、この本の出版当時において若者の二輪車利用が「暴走族」というイメージで否定的に捉えられている状況を嘆いた筆者が、クルマ(二輪・四輪)に興味・関心の高い青少年を、自ら能動的にライフ・スタイルを創出する(つまり、今の教育用語でいえば「生きる力」といったところか?)ポジティブな生活者として受け入れられる社会への転換を訴えている。

 次の「二、運転行動をめぐって」では、運転行動に最も影響を及ぼす要因の一つが「人間の知覚」であると規定され、道路環境に適合するために運転者が主体的選択決定を行うことが「クルマの運転」であるとの著者の考えから、安全運転に必要な知覚訓練の早期からの継続的な必要性が唱えられている。

 「三、事故をめぐって」では、「事故要因の中で最も重要なものは、物理的要因でなく人的要因である」として、交通行動の基本を「社会的秩序の問題」と認識する視点から、「交通事故の被害者は他人の不適応性の犠牲となっている」とみなした上で、二輪、四輪双方の運転者層において、運転視野からの相互理解を実技教育に取り入れるべきという主張がなされている。

 「四、文化と交通について」では、この章の終わりの部分において、1960年代の東京都心における若者のサーキット行為に対する一般市民の警察への取り締まり要求が、この地を締め出されたサーキット族同士の郊外での縄張り争いを通じて、後の暴走族を生み出すきっかけになった点があげられている。見方によってこれは、「暴走族を生み出したのは、地域住民のエゴである」と言わんばかりの主張にも読み取れる。

 最後の「五、交通教育の問題をめぐって」では、以上の章を踏まえて、安全運転の普及のために早期、とりわけ従来「三ない運動」によってバイクの運転・所有がPTAの手で規制されてきた、高校年齢層からの運転技能の修得と、これを満たすために幼稚園・保育所・小学校・中学校の歩行者・自転車教育にも、将来のクルマの運転に必要な知覚訓練を備えるべきであることが説かれている。そうした視点に立ってこの本では、クルマを安全に上手く運転する人が「よき交通社会人」とされている。

2.この本の論点・問題点

 「一、人とクルマの関わり」において、クルマ関心層に対する肯定性を一面的に強調するのは、結果として、相対的にクルマ非関心層をネガティブ・イメージで捉えることになる。これは、当時の「“暴走族”がもたらした二輪へのネガティブ・イメージによる、純粋な二輪愛好者の“悲哀”」といった時代背景を差し引いても、一人一人の価値観の多様性に反するのではないだろうか。
 「二、運転行動をめぐって」~「四、文化と交通について」では、総合して次の問題点を提起できる。

  1.  人間の知覚に個人差がある点を考慮した場合、運転適性に不向きな人にまで訓練(運転すること)を強いる方向をほのめかすのは、やめるべきではないか?
  2.  安全に運転できればよいのか? 完全無欠な「安全運転」など可能なのか?
  3.  人的要因を強調するあまり、訓練の必要性を早期からの運転技能の取得につなげる発想で、真に安全運転に必要な技能と意識がどれだけ定着するのか? 「運転者教育」の本場とされてきた米国において、ロバートソン報告書がいくつかの州においてカリキュラム削除をもたらした事実から考えて、再検討されるべきである。

 「五、交通教育の問題をめぐって」では、次の問題を提起できる。

  1.  「運転」を教える場所として、学校教育は本当にふさわしいのか?「“三ない”反対=“運転者教育”導入」では、あまりにも短絡的ではないだろうか?
  2.  「免許取得率の高さ」なる結果論を絶対化するあまり、クルマに関心のない人への運転技能取得を「安全」の名のもとにおいて、推奨してもよいのか?(「平和の尊さを知る教育が必要」を口実に、徴兵制を肯定するのと同じ発想ではないか?)。
  3.  例えば、「リスク認識を高めることが必要」だからといって、喫煙や覚醒剤、銃砲の使用を生徒に経験させることが“教育”といえるか? クルマ(二輪・四輪)の使用に関してそうした教育が奨励される根拠は、それが「生活必需品だから」ということになるが、クルマを「生活必需品」として評価するかどうかの判断は、百歩譲っても生徒の自己決定権に委ねられるべきではないのか?
  4.  クルマ利用を極力避け、環境面・健康面・エネルギー面で負荷の少ない交通手段に関心を持ち、その利用を日常の生活習慣とする人は、「よき交通社会人」でないのか?

3.この本を読む際の注意

 論理展開の手法という面でこの本を読む場合、これに反対する考え方を掲載せずに、著者が選択した特定の事象を「客観的事実」(ここでは「国民皆免許状況」)と称して意図的に繰り返す手法は、その段階で「客観」の手を離れ、著者の「主観」(自己主張)に転化する点に注意すべきであろう。そうした点に注意して精読すれば、自己責任原則にもとづく「交通手段の自己所有」を、この本の著者がたとえ、著書内に明記していなくとも、暗黙のうちに人々の交通政策選択の前提としていることに、読者は気づくであろう。

4.この本の理論が交通教育の「普遍的思想」となった理由

 この本に対する批判や反論は、次に挙げる『地球はそもそも歩行者天国』を除くと、その後、現在に至るまで皆無に等しい。理由として、以下のことが考えられる。

 第一に、二輪に対する社会的評価の変化である。「国鉄改革」やバス事業者における「退出規制緩和」を背景に、その後のクルマの普及率が全国的に上昇を続け、低所得層においては安売り原付や中古軽トラの入手が容易になり、さらに高齢層においても「寝たきり」や「認知症」でない人、すなわち自らの意志で「移動行為」のできる人の多くがクルマの所有と運転を手放さなくなったため、二輪の位置づけが「暴走族の遊び道具」や「一部のツーリング趣味者のためのもの」から、過疎地(特に非積雪地)を中心に「生活の足」として肯定的に受け入れられるようになった。

 第二に、地方交通を取り巻く上の要因により、「三ない運動」を全国決議文として推進してきた全国高等学校PTA連合会が1997年の全国大会(山形市で開催)において、同運動を「決議文」から、より拘束力の低い「宣言文」に格下げし、付帯決議として「地域の実情に応じた二輪車教育の導入」を掲げることになったため、同運動が実質的に放棄されたことである。

 第三に、1998年に警察庁から出された「交通安全教育指針」(平成10年9月国家公安委員会告示第15号)が高校現場に「免許取得のための安全指導」を要求したことをもって、高校における二輪教育がここで正式に「国策」の地位に登りつめたことである。

 第四に、先の第一の理由とも若干関連するが、高校年齢層の若者でクルマ好きの人たちが「暴走族」に何の関心ももたなくなったことである。『読売新聞』2005年1月27日付夕刊によると、2004年の一年間に全国の警察が確認した暴走行為の参加人員は、延べ93,438人であり、その前年に比べて31%も減少したということである。警察庁の分析には、未成年に関しては「上下関係の厳しい組織に嫌気を感じ離脱するものも多い」という指摘がある一方、ここ1、2年の間で平均年齢が30歳以上の集団の摘発がみられるほど、構成員が“高齢化”しているという。これは相対的にみて、若者と二輪を結びつけるイメージが社会的にネガティブなものでなくなったことを意味する。

 第五に、「脱クルマ系」運動の側においても、この本は意外と、肯定的に受け入れられることが多いのが現状である。理由は、いわゆる「脱クルマ系」市民運動従事者のほとんどが、「加害となる社会的・経済的状況をいかに減らすか」よりも「歩行者・弱者である子ども・高齢者としての怒り」といった視野に関心を集中させており、交通教育に関しては金太郎飴の如く「歩行者よりもドライバーを教育せよ」という語句を額面通りに受け取って、その内容(いつ、どこで、だれを、どのように……)もろくに吟味せぬまま、無批判に礼賛してきたため、それが免許取得を強制する要素をもつ交通教育であっても、これを批判するだけの「情報免疫力」を持ち合わせていない人の比率が少なくないからである。これは、「脱クルマ系」市民運動従事者の多くが大都市圏の、自ら加害者にならない権利(クルマ利用を強制されない権利)について、侵害される懸念が不要とされる地域に居住していることに関係しているものと推測できる。

わが国初のモータリゼーション批判交通教育論―『地球はそもそも歩行者天国』

1.この本の概要

 この本が刊行されたのは1985年であり、いわゆる「第二次交通戦争」で「三ない運動」に対する教育学者やマスコミ等を中心としたバッシングが盛んになった1989年よりも前の時期である。そのため、時代背景的には、二輪に対する市民一般のイメージが「暴走族」であり、生徒の「暴走族化」防止の観点から、「三ない運動」に関して地域住民の若干の賛成もあったことを、念頭に置く必要がある。

 編著者は「交通遺児学生の会」。これは、交通遺児学生寮「心塾」寮生有志による組織であるが、「心塾」寮生の活動が災害遺児救済を主目的とした「あしなが育英会」のボランティア活動にシフトして以来、現在、この会は実質的に活動停止状態である。なお、この本が依拠する学術分野は、先の『人間と交通社会』と異なり、特定されていない。

 この本は全部で6章構成となっている。第1章は「バイクは高校生の麻薬!?」。ここでは編著者が、生命の尊厳よりもスリルとスピードを好むバイク・車好きの高校生に対して、強く懸念している。そこで高校生自身が自らの運転で生命や健康を損ねないよう、二輪の「高校での安全教育」よりも、自動二輪免許年齢の満18歳以上への引き上げが必要であると主張し、そうした立場から、全国高等学校PTA連合会の「三ない運動」(当時)を支持している。

 第2章は「ダウン寸前の公共交通」。編著者は、当時の国鉄分割・民営化の是非をめぐって、ローカル公共交通を守る立場から、反対の意を表している。ここでは、環境やエネルギーといった問題の視点からも、クルマに依存しない交通体系を考える教育の必要性を説いている。

 第3章「交通遺児は怒っている」から第5章「車をとりまく諸問題」では、はじめに、交通遺児家庭の実態を知ることで、クルマ社会のもたらす問題点を認識できる教育が必要であるとしている(長山理論では、この点が欠落している)。そして、クルマの持つ負の側面(遊び場の喪失、交通外傷、騒音公害、大気汚染、生態系破壊、エネルギー浪費、これらがもたらす外部不経済など)についての認識を深めなければならないとの視点から、「クルマを減らす」が“原因療法”であるのに対し、「高校での安全教育」は“対症療法”にすぎないことを説いている。その上で、ロサンゼルスの市電網解体や第三世界への交通戦争輸出などを具体例として、自動車メーカーの市場拡大戦略に警戒することの必要性を提起している。

 第6章は「具体的提言」であり、モータリゼーションからの脱却に向けての行動提言と政策提言を通じて、脱クルマ型交通教育の方向性がここに記されている。

2.この本の論点・問題点

 渋滞性悪説にもとづく現在の俄か「脱クルマ論」とは全く異なり、真に生命や環境の尊重といった視点を明確化したこの本において、交通教育の変革を訴えた役割は積極的に評価されるべきであるが、残念ながらこの本の思想を能動的に評価する動きは、これまでわが国の「脱クルマ系」諸運動において、みられることは殆どなかった。以下に、想定される理由を提起しておきたい。

 まず、この本の冒頭において、バイク・クルマ好きの高校生への懸念が、安全や環境といった問題の「加害者」としてよりも、「運転する自分=交通被害者」としての側面から強調されている。そのため、「二輪や自動車のもつリスクを自ら、“危険である”と認識できるようにするため、運転者教育の学校での実施は必要」であるとか、「現行法で許された免許取得・車両所有を学校が取り締まるのには反対」といった、いわゆる「反管理教育」勢力や、これを支援してきた左派勢力からは、この本は実質的にタブーとされた。そのせいか、「脱クルマ系」の研究者や市民運動のうち、これら勢力とつながりの深い層において、この本の提起した問題が積極的に発展することはなかった。確かに、「管理教育」が生徒の能動的思考力を削ぐといった点は、非常に問題である。だからといって、生命や環境を毀損する社会・経済のしくみが単に「管理教育反対」の理由のみで許されてよいか、そして運転可能な人口の比率上昇ゆえに「クルマしか選択できない市場原理主義経済から逃れられない社会」が来ても、それでよいのかについて、法改正といった「立法」の視点から、少なくとも「脱クルマ系」研究者においては、議論が深められるべきではなかっただろうか。

 次に、上の問題と若干、関係があるかもしれないが、編著者自身において、この本の唱える交通教育を体系化できるほどのブレーン(職業研究者におけるこの本の支持者)を揃えなかったことは、やはり痛手であろう。この本の提起した「交通教育の偏向」は、現在でも未解決の状態であるほど重要な問題であるが、モータリゼーション批判派の交通研究者の大半がこの本の存在を知らずに今日まで推移してきたのは、これらの人々の交通教育問題への関心の薄さだけでなく、編著者および出版元の情報発信力および広報戦略の弱さにもよるものと分析できる。

 そして、これは先の長山本批評の4.の第五の理由にも関連するが、「脱クルマ系」運動の従事者において、この本はそれなりに普及はしたものの、それがこの本の提起する主張を積極的に支える力には到底、及ばなかったこともあげられる。現在の「脱クルマ系」運動従事者の間において、最も関心の高い問題は「歩行環境」に集中している。この本の訴えた問題は、次代を担う青少年の交通手段選択において「交通教育」が及ぼし得る影響である一方、実際の「脱クルマ系」運動の従事者層においては、運転免許政策や交通運輸政策の動向よりも、狭義の「歩行環境」にのみ関心範囲が完結する傾向が強いのが現状である。幼児・高齢者の「歩行環境」は確かに喫緊の課題であるが、単に「歩行環境」だけを考えるなら、モータリゼーション対応型の歩車分離道路網で“解決可能”とあしらわれるのが落ちである。「将来のわが国において入手可能な交通体系」の視点から、「脱クルマ系」諸運動の側においては、この本の扱う領域が一部年齢層の限られた問題に収まるものではないという認識を、改めて高める必要があるのではないだろうか。

 さらに、この本の第6章の「具体的提言」が脱クルマ型交通教育の方向性を打ち出したのは、確かに画期的であったが、その内容が問題提起の域にとどまり、長山本『人間と交通社会』の「交通教育の体系化」(同書335~360頁)に匹敵できるボリュームでなかったのは残念である。この本の制作経緯や時期から考えて、無理な要求をするのはよくないが、せめて続編で教育プログラムを具体化するなどの企画があれば、今ごろ、「クルマ利用を抑制する教育」がTFPの“一人勝ち”にならずに済んでいたことであろう。

 最後に、この本が、社会的合意形成の最も困難な「免許年齢の引き上げ」に焦点をおいてしまったことは、やはり「痛手」であるといえる。司法、すなわち警察による取締り手法への過度の依存は、「管理に対する反発」を好む人の比率が高まれば高まるほど、却ってその反対勢力に油を注ぐだけで終わりかねない。「最初に取り締まりありき」よりも、自発的な「クルマを選択しない」ライフスタイルの市民権再確立を通じてこそ、「三ない問題」が初めて「司法論」の手を離れて、「立法論」に到達できるようになり、その結果として免許年齢の引き上げが可能になるのではないだろうか。

まとめ

 両書を読み比べると、今後の論点は、早期からの危険察知能力や運転技能習得を旗印にした「高校での二輪(四輪)教育が、本当に「安全運転者の育成」に寄与しているのだろうか。仮に「運転技能の向上」や「事故率の減少」が達成されても、それでクルマ依存の拡大が許されるのは、果たしてよいことなのか。以上の二つに集約できると思われる。については、本会会員の総力をあげてのデータ収集・分析による実証、については、クルマがもたらしている交通外傷(交通事故)以外の諸々のリスクとその原因・性質と、異なるリスク間の相互関係について、さまざまな角度から吟味することが必要である。

 地域限定型の目的違いであるとはいえ、「過度のクルマ利用を問い直す」ことを旗印にする教育プログラムが、クルマ利用の視点で道路行政を支えてきた側から先に出てきたことに対して、「脱クルマ系」の研究者や市民運動の側は、これに恥を感じるとともに、危機感を高めなければならない。しかもこのプログラムが、「三ない問題」が交通教育全般に影響を及ぼしてきた歴史的経緯を全く無視していることに、注意する必要がある。

 「三ない問題」の議論抜きに、免許年齢前の高校生向け交通教育の手段・目標・目的が論じられることは本来、あり得ない。なぜなら、通学から雇用に至るまで包括的に、「国民皆免許」前提の交通政策がひとたび罷り通ってしまえば、「脱クルマ」交通体系の再生は絶望的に困難となるからである。この問題に「脱クルマ」の視点から真正面から取り組むことができるのは、わが国では本会だけである。今、本会が調査研究活動ならびに情報発信体制の構築を怠れば、「クルマ利用を問い直す教育」は、都市部限定の「渋滞解消のための脱クルマ論」に主導権を握られ、「脱クルマ」交通体系の再生が中途半端な形で終わってしまうおそれがあることを、われわれは肝に銘じるべきである。

 TFPが短期間でプログラムの実用化を進めることができたのは、複数研究者による集団研究・情報収集体制が機能していたからである。一方、もともとの「脱クルマ系」を標榜していた研究者の側においては、いまだに集団研究体制が出来上がっておらず、「一匹狼」や「特定の一人にお任せ」状態が続いているために、研究資源の集積とその活用に全く程遠い。

 以上の現況から、両書の精読を早期に終わらせ、上に掲げた二つの論点を本会の「基礎研究」として、一刻も早く集団研究体制を成立させることを視野に入れた組織の再構築が、本会の今後の課題である。

(2005年10月5日発行 会報6号所収)

-交通教育理論篇

© 2024 スローライフ交通教育の会