交通教育理論篇

講演記録「現代交通社会の貧困~高速文明における欲求 と消費、そして依存~」

09.9.8 山本 純氏 「交通教育研究会」会報10号(2008.2.)に掲載

この報告は、2007年9月8日に「かでる2・7」で開催された「スローライフ交通教育の会」の公開講座の山本講話の記録です。会報への掲載にあたって、話し言葉の冗長さと曖昧さ、また誤りについて加筆修正し、レジュメに添って節分けしました。また、割愛した部分を一部、加筆しました。聞き取りにくかったであろう記録テープから、丁寧にテープ起こしをして頂いた筒井美香さんに、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

1 はじめに

 皆さん、こんにちは。札幌学院大学商学部の山本と申します。私は、大学で交通論という科目を担当しております。現代の様々な交通問題を学生とともに考え、あるいはまた教えるということをしているのですが、実は専門は交通の中でもごく一部でして、地域物流というものを研究しています。

 例えば、高速道路ができて、それが地域の経済・社会にどういう影響を及ぼすのか、地域のトラック産業にどんな影響を及ぼすのかなど、そんなことを研究しておりまして、交通事故の問題というのは、必ずしも自分の専門分野ではありません。

 最近の研究テーマは、天然ガス・パイプラインの問題です。皆さんご承知のように、北海道は勇払で天然ガスが生産されていますが、それをパイプラインで札幌まで輸送しています。あるいは、サハリンで石油・天然ガス開発を進めていますが、パイプラインを使って日本や中国に持ってくる計画があるだとか、極東やヨーロッパにどう流通させるのかとか、そんなエネルギーの流通問題と、地球温暖化の問題の絡みで、日本ではパイプラインが欧米諸国のようには普及していないのですが、なぜ、普及しなかったのか、それが物流や環境問題とどう関わっているのか、などというような研究をしています。

 そういう畑違いの人間が、交通事故に関する話を、しかもこういう場でするというのは、正直場違いな感じもしますし、先の報告の高石さんのお話を伺っていると、本当に胸が詰まるのですが、そこで私が何かお役に立てるような話ができるのか、ということを考えてしまったりもします。

 そういうわけで、十分に皆さんのご参考になるような話をできないかもしれませんが、前田先生から、交通事故の問題を考える上では、今の交通社会の背景について、とりわけ「社会」というものをどのように捉えていけばよいのか、そういう視点での考察も大事だろうということで、そういう観点で話をして欲しいという要請でしたので、少しお時間を頂き、配布のレジュメに沿って、話をさせて頂きます。

2 報告の経緯と問題の所在

 「現代交通社会の貧困~高速文明における欲求と消費、そして依存~」というテーマで、経済学での議論とか、社会学での議論とか、また現代文明批判とか、そうした話をしますが、決して難しいことを話すわけではなく、私なりの解釈も含めて、今の社会をどう捉えていけばいいのか、社会のどこにこういう問題を引き起こす要因があるのか、そういう話をします。

 これは自動車交通事故だけではなくて、例えば鉄道事故、2年前にJR西日本の非常に大きな事故がありましたけれど、あれは単に若い運転手の運転ミスによる事故というのではなくて、実は経営の問題なのですね。JR西日本がどのように若い運転手を育てていたのか、彼らにどう労働をさせて、どう管理していたのか、どういう教育をしていたのか、そういうところから生じている問題であって、今日の社会の中の企業における人事管理の問題から、若い運転手が追いつめられた結果、ああいう事故を引き起こしてしまったと言えます。

 そういう産業上の、あるいは経営上の様々な問題が、実は根っこのところで絡んでいて、そういう観点で今の日本社会のあり様というものを、どういう風に考えていけばいいのかということを中心にお話させて頂きたいと思います。

 ただ、そうではあっても、なぜ私がこういう問題に関心をもって、こういう会での報告を引き受けたのかということを、最初に少し話します。

 レジュメの 1.はじめに で、「18歳からの教養ゼミナール、家田編」とありますが、実はこういう教科書を札幌学院大の教員と北海道教育大、小樽商大、北海学園大の先生も入って、今の若い学生、特に1・2年生に、大学に入ってまず初めに何を教えなければならないか、どんな問題を考えてもらわなければならないかという観点で、1、2年生向けの教養の教科書を作りました。こういう本がなかなか無かったのです。

 現代の様々な問題を、教養として考え、身につけていかなければならない。どんな問題があるかというと、私が担当したのは自動車事故の問題の章です。お手元に、チャプター12 という「クルマ社会を考える」という抜き刷を用意しましたが、これが私の書いた章です。これは、後ほどお帰りになってからちょっとお読み頂ければありがたいと思います。その他に、今日の様々な社会問題があります。例えば、「過労死」の問題、あるいは若い人でなかなか働く意欲がなくて就職活動をしないということで「働く」ということはどういうことかというテーマ。それから、「セクシャルハラスメント」の問題とか、特に受動喫煙の問題が注目されていますから「タバコの健康問題」、また「NGO」、「市民運動」、「ジェンダー」の問題とか、あるいは「人権問題」、地球規模の「環境問題」とか、そういう様々な社会問題について、今の人間が、人間というか若い人を含めて我々が、今きちんと考えておかなければならない問題が、幾つかあるだろうと考えたのです。

 そういう問題を、各学部で専門的に勉強する、つまり経済学部だから経済の勉強をするとか、法学部だから法律の勉強をするとか、そういうことにはならないのだと考えているのです。先ほどの高石さんのお話の中から一つ挙げれば、日本の司法制度の問題、特に裁判官がどうしてそういう意識を持って、そういう判決を下すのかといった問題がありましたが、それは単純に法律とか法学の問題として考えるのではなくて、もっと広く社会の問題ということを考えながら、そういう背景の知識を持って専門の勉強に入っていくということをしないといけないのではないか。そうでないと、大学で何を勉強したのか、教養のある人間とは何なのかというのが分からないまま卒業していくのではないか。もちろん、法学がそういう観点での議論もしたり、研究もしたりする分野であることは違いないのですが、大学を出て専門知識だけは持っていても、人間として社会に出てちゃんと考え、やっていけるのか、そこが今問題となっているのです。

 今の大学教育の問題は、専門教育に特化して、専門知識はあっても、人間的な感性とか社会の問題を十分に理解していない、一部には、そういう人間を育ててしまっているのではないかということで、そういう反省の意味もあって、こういう教科書作りをしながら議論をしてきました。

 その時に、私もある経験があって、この議論に参加しました。若者の自動車事故が増えていますが、大学でもそのことが問題になっております。私どもの大学で、8年ほど前だったと思いますが、商学部で3人の一年生の学生が重大な事故を起こしました。それは、明け方の5時くらいまでカラオケで歌って、まだ眠くないからちょっとドライブでもしようと言って、ドライブに行ったのです。免許取り立ての3人です。それで12号線をものすごいスピードを出して、私どもの大学の近くにあるお店に突っ込んだ。3人とも即死でした。その時に、大学の近くで会館を借りてお通夜をして、私も出席したのですが、どの学生も札幌市内ではなくて道外や離れたところから来ていたのですが、親御さんや兄弟も駆けつけてきていて、その悲しみといったら本当になかったです。

 それから、私のゼミの学生で被害者と加害者になるという両方の事故を経験しました。一人は、二部の学生だったのですが、バイク通学をしていて、ちょうど4年生で就職をどうしようという話をしていた頃で、そういう相談を受けたりしていた学生ですが、それが、授業が終わってバイクで帰る時に、大学の小路から12号線に出た時に乗用車に撥ねられて、亡くなりました。その学生は、私も病院に行ったのですが、3ヶ月くらい意識不明の状態が続いて、先ほど高石さんのお話がありましたが、本当に私が見た時にも、ただ寝ているだけのような感じがしました。でも、結局そのまま亡くなられて、彼は一人っ子だったと思いますが、4年まで大学に通わせて、さあこれからという時で、その時の親御さんの嘆き悲みようといったら、それはすごかったとクラブ顧問の先生から聞きました。

 それからもう一人、加害者となった事故は、彼が大学を卒業してずっと後のことだったのですが、私のゼミのOBです。神戸出身で、北海道が好きで、交通が好きで、北海道の大学に来て交通論を勉強したいということで、私のゼミを履修して勉強し、卒業して、北海道の企業に就職できました。ある時、その友人から、彼も私のゼミの出身者の一人なのですが、電話がありまして、「実は何々君が事故を起こしました」と。それは、旭川に自動車で営業に出ていて、その帰りに人を撥ねてしまった事故です。今でも私はよく分からないのですが、彼はその時どうしたかというと、やはり気が動転したのでしょう、その場から逃げてしまったのです。札幌の近くまで走ってきて、そこで初めて会社に電話して上司に話したのです。それで、上司が「何をしているんだ、すぐに戻って被害者のことを救うとか、警察に電話するとか、救急車を呼ぶとかしなさい」と言って、そう言われて初めて我に返って、現場に戻ったということです。だけど、もう遅い。ちょっとでも離れたら、それはもう轢逃げになりますから、その彼は轢逃げ犯ということで捕まって、旭川にしばらく収監されていました。

 その後、その友人からまた電話があって、私は非常に苦しんだのですが、減刑の嘆願書の署名を頼まれたのです。先ほどお話がありましたが、それは飲酒運転とは違いますから、高石さんの事故や、福岡の事故とか、あれもひどいですが、ああいうケースとは違うと思うのですが、嘆願書に署名をしてくれないかと言ってきました。私はその時、すごく悩みました。署名するべきかどうか。教え子ですから署名したいという思いと、加害者ですし轢逃げということで、被害者のことを考えれば署名はできないのではないかと悩んだのです。事故の状況も、私はよく分かっていません。ただ連絡を、そういう電話で受けているだけですから。それで、本人に会いたいということで、その本人を担当している弁護士のところに連絡したのですが、その時は「どういう状況になるか分からないし、どこに収監されるのかもまだわからない状況なので」と言われて、結局、会えずじまいになりました。

 その後、お父さんからお手紙を頂きました。実家は神戸の長田区です。阪神大震災の少し後にその事故が起きたのですが、そのこともあって、なおかつ自分の息子が事故を起こしたということで、大変なご心労だったのではないかと思いました。そして、その手紙には、未だに忘れることができませんが、「大学で学問をしながらこんなことになって本当に申し訳ない。先生はさぞお怒りでしょう。もう情けなくて。」ということが書かれてありました。

 そこで大事なことは、この「学問をする」とは何かということです。これは、我々の教科書の「教養」ということも同じなのですが、日本人は、というより日本の社会全体は、一般的に言ってですが、少し勘違いしているのではないかと思えるようなところがあって、「学問をしている」とか「教養がある」ということはどういうことかと言うと、知識の豊富な人を「学問のある人」、「教養がある人」と言うところがあります。「色々なことをたくさん知っていますね、あの人は。」だから、あの人は教養がありますね、ということになる。学問があるというのも同じです。「大学を出ました」、「色々なことを勉強しました」、「専門的なことを知っています」、だから学問があると言うのですが、そうではない。

 色々な知識を豊富に持っていても学問していない教養の無い人もいる。学問とか教養というのはそういうことではなくて、私が言っているのは、態度なんです。「学問とは人格の陶冶である」という言葉がありますが、人間の態度が問題で、人は色々な知識を身につけていくのですが、その身につけた知識の中から、自分はどういう態度で生きていくのか、どういう人間でなければいけないのか、どういう行動をするのか、つまり知識を自分の人間的な成長の血肉とするということが大事なのです。

 先ほどの高石さんの話に出てきました、100円玉三枚を仏前に放り投げて「これでアイスキャンディーでも買ってやれ」というのは、まさに教養の無い人の態度だと言えるのです。その人が、たとえどんなに社会的な地位が高かったとしても、また色々な知識を持っていたとしても、そういう態度をとったとすれば、それは人間として教養があるとは言えないし、学問しているとも言えない。大事なことは、人としてどういう態度を取るか、取らないかです。

 その卒業生のお父さんが、手紙の中で「学問をしたはずなのに」と言って嘆いた事というのは、自分は苦労して息子を大学に送って学問をさせたと思っていたはずなのに、それは何かというと、交通事故を起こしたという事もあるでしょうが、それ以上に、その時なぜ逃げるという行動をとったのかということだったと思うのです。事故を起こしてしまったとしても、そこで逃げないで、被害者を救護し、それに対応して何とかできなかったのか、そういう行動をとらないで轢逃げ犯になってしまったということに、おそらく相当嘆き苦しんだのではないかと思うのです。そのことが、手に取るように分かる手紙でした。

 そして、最後にこういうことも書かれてありました。それでも、自分、そのお父さんですが、自分に対しても情けないと言っていたのですが、「やはり、その子の親である。親だから、もし子どもが罪を償って、もう一度人生をやり直せるのであれば、やり直させてやりたい」と書いておられました。

 それで、私は署名をしました。その学生のことをよく知っているもう一人の教員にも頼んで、署名をして送ったのですが、それが本当によかったことなのかどうかは、自分でも未だに分かりません。その後、裁判や示談が済んだのか、出てきた時にやはり私のところに電話をかけてきて、もうほとんど泣きながらですが、「申し訳ありません、神戸に帰ります。」と言っていました。私はほとんど言葉をかけられなかったです。「起こしてしまったことだから、とにかく罪を償いながら、一生十字架を背負わざるを得ないけれど、それで頑張って生きていくしかないだろう」ということくらいしか言えませんでした。

 本当にその時は、自分のゼミの学生が被害者で亡くなるという事故があったり、あるいは大学全体としてもそういう事故があったり、加害者になるという事故も重なったりして、この交通社会、さらには自動車社会というものを、どのように考えればいいのかという問題意識をもち悩みました。そういう意味では、皆さんと同じような立場で考えてきたという面もあるかもしれません。それで自動車交通事故の問題については、学生に今、考えさせるのが絶対に必要だということで、そのための1章の担当を引き受けたわけです。

 とは言え、大学の教科書という場合に、色々な実態を説明して、事故件数がこうですとか、政策がどうですとか、先ほど保険の話が出ましたが、これはホフマン方式と言って、経済というのはすべて金に換算していきますから、それがどれだけ非人間的なことかというのはずいぶん前から批判されているのですが、未だにそういう形でしか経済や社会が動いていかないというのは残念なのですが、そういう事故実態や社会実態があって、「今、大変です」、「だから運転に注意しましょう」、「皆さん車を持ったら運転に注意してください」という議論をするだけではしょうがないと、我々は考えました。そういうことを、先ほど言った教養とか、本当の意味での学問、自分の態度としてどういう生き方をしていくのか、社会とどう関わるのかということを併せて考えさせる上では、それだけでは足りないだろうということで、もう少し内容を考えて書かなければいけないという議論になりました。

 それで私なりに考えたことを書いたのが、この本の12章になるのですが、それがたまたま前田先生の目にとまって、非常に理解しやすいので、是非この話をして欲しいということで、ここでお話させていただくことになったのです。

 レジュメのはじめにのところで、この公開講座の北海道新聞の記事の前田先生のコメントをそのまま引用させてもらいましたが、要するに、これまでの交通教育というのは安全技能教育が中心で、安全技能教育は幼稚園の頃からやられています。私には、子供が5人おりますが、上は大学生から下は小学生まで小中高大と全部揃っていて、上の大学生2人は自動車免許をもっています。事故を起こさないか、毎日のように心配です。小学生の子供には、学校に行く時にも遊びに行く時にも、必ず「車に気をつけなさい」と言います。そういう中で、自分もそういう気持ちを常に持たざるを得ない、また子供達にもそういう環境の中で生活していくことを、いわば強制している社会というのは、本当に息が詰まるような社会です。幼稚園の頃から、事故に遭わないようにと教えられる。しかも、最近は安全教育として自分から身を守る、車が悪いのではなくて自分が事故に遭うのも悪いのだから、それを避けなくてはダメですよと言う。交通ルールを守らせるという点では、確かにそれも大事なことなのですが、このような安全技能教育だけでは済まなくて、やはり社会の仕組みとか、社会のあり様の問題も考えていかないと、事故というものは無くならないのではないかと思うのです。

 レジュメ2.のところですが、事故を防止するためには安全技能教育、注意喚起、あるいは啓蒙活動があります。啓蒙で色々な問題を考えさせて注意する、安全な交通行動をするような人間になって下さいということ、その教育方法を改善していく、これらの努力は必要ですし、ずっと続けて行かなくてはならない。しかし、それだけでは足りないことも実はあると思うのです。

 では、他に何を考えなければいけないのか。2.の2)にありますように、「事故は運転者のミスである → 人間というのはミスを起こすものである → だから仕方がない → だから注意しましょう」ということでは、やはり済まされないものがある。そこで、色々な技術を開発して解決するということもありますし、運転者の意識を変えていく努力をするということもあります。技術の問題とか意識の問題とかありますが、さらに社会の問題と書きましたが、社会のあり様の問題というのが一つあるのではないか。根本的な解決の道のりというのはなかなか難しいのですが、それでもやはり、こういう会もそうでしょうけれど、少しでも何か前進するためには、一人でも多くの人が色々なことを考えて、今の社会というものをどう考え、解決に向けての様々な努力をしていくということが必要であると思います。

 そういう中で、様々な対応の仕方があるのですが、私に与えられた役割というのは、今日の「クルマ社会」について理解すること、つまり、交通における自動車というものを、単なる移動手段としての自動車、移動の機械として考えるのではなく、「社会的にある意味づけされた自動車という商品」ということを、それをカタカナで「クルマ社会」と表現しているのですが、そういう意味で、それがどういうことなのかというのを考えていきたいと思います。

 クルマを大量に消費する社会、今やほとんどの人が乗っているし、大学生までもが自分で自分の車を所有して乗るような時代ですから、そうやって沢山のクルマを消費する社会というのはいったいどういう社会なのか、ということですね。その中にどのようにして、交通事故も含めて色々な問題を生起させることがあるのかということを考えていきたいと思います。

 特に、マイカーの問題を中心にしますが、そうすると、どうしてもこういう議論になってしまうのですが、「消費社会」というもの、現代では「大衆消費社会」と言われ、皆さんもよく聞く言葉だと思うのですが、それがどういう意味を持っているのかということを考えていきたいと思います。

 それからもう一つ、個人的なことで申し訳ないのですが、このようなものを皆さんにお見せしていいのかどうかちょっと分からないのですが、ある重要な指摘が含まれておりますので、午前中に私宛に来たメールをここで紹介します。ある大学職員からの事務連絡のメールでして、今日は大学に行かないで直接こちらに来たものですから、メールでのやりとりとなったのです。たまたまその職員が、今日私がここで話をするというのをこの会のホームページで知って、事務連絡の際に話を加えていました。

 その職員は江別市に住んでいる人で、こういうことが書かれています。「先週、江別市大麻で起きた悲しい事故ですが、自転車に乗った買い物帰りの主婦がトレーラーに撥ねられ、巻き込まれて転倒、その後、後続車に轢かれて亡くなられた」と書いています。先ほど、池田先生が、紹介された事故と同じ事故のことだと思います。それで、その後の文章ですが、「おそらく、これはトレーラーの運転手の注意ミスで仕方がないでは済まされない」と言っています。注意ミスの事故として、もちろん運転手に責任があるのですが、ただトレーラーの運転手も、「会社として輸送効率を最優先で仕事をさせられて、労働強化されているのではないか」と言っている。今、社会全体に蔓延している「疲れ」というものがありますが、それはもう競争、競争、そして規制緩和して競争すれば効率がよくなるという考え方の元でやっている。そういう中で、人々は疲れ切って仕事をしている。そんな社会的風潮の中で「人間が疲労やストレスを蓄積していった状態では、やはりいい仕事はできない。ましてやクルマの運転では余計に危険で、そのためにはきちんと休息を取って、そういう競争社会の中ではない形で、物流というものを担当する産業としてやっていかなければいけないのではないか」ということが書かれてあります。

 大量の人や物資を迅速に運ばなければならない社会で、あまりに効率を優先して、どの運送会社も競争の中で、運転手が大変な労働条件の中にあるということもあるのではないか。それでこういう悲惨な事故が絶えないのではないかと指摘しているのです。ちょうど今日の議論と関わる部分ですが、その下に、さらに「今の日本の交通環境自体がクルマを運転する人間の自覚や注意だけではとうてい事故を避けられない状況にあるのではないか」と書かれています。

 つまり、効率を求める社会、競争を促進して、とにかくスピードを上げて仕事を処理していくことが良い社会、そういう社会の中にいて、我々はこういう事故に遭ったり、疲れて、それこそストレスをためて「過労死」なんて言葉を誰もが簡単に使うような社会になってきたりというのは、やはりおかしな社会のあり様なのではないかと言わざるを得ないのです。

 もちろん、先ほどの高石さんのようなケースの場合は、一方的にドライバーの、それこそ自覚の問題というか、飲酒運転もそうですし、福岡の事故もそうですが、全然違う質の問題としてかなり大きな問題を抱えているのですが、一方では、こういう色々な事故の中で社会のあり様、あるいは経済のあり様というものを考えないと、なかなか解決に結びつかない問題もあるのだろうということです。

3「ゆたかな社会論」と「公」・「私」の社会的バランス

 今日は、そのような産業の話ではなくて、むしろマイカー、人々の車の利用ということについてのお話を中心にさせていただきたいと思います。

 レジュメの2ページ以降、大きく言って3つポイントがあります。一つは経済学でどのような議論がされているのかということ。これはジョン・ガルブレイスというアメリカの経済学者の議論を紹介しながら考えます。もう一つは、現代文明批判という観点で、これはこの学者に対する批判も非常に強いのですが、イヴァン・イリイチという人の考え方を紹介しながら考えます。最後に、今の消費社会というのをどう考えるかという点について、社会学の中の一つの見解、フランスの社会学者のジャン・ボードリヤールという人の議論を紹介しながら、今の日本社会のクルマ消費というのはどういうことかということを、考えたいと思います。

 これら学者の著作自体は皆、難解ですが、特に最後の社会学者の著作などはなかなか難解で、社会学が専門ではない私などは完全に理解しているとは言えないかもしれませんが、彼らが言わんとしていることは、実は簡単なことです。どうも大学の教員の話というのは字ばっかりで分かりにくいと言われるかもしれませんが、決してそういう先入観を持たずに、皆さんの生活の周りのこと、あるいは自分の消費ということを少し考えながら聞いていただけると、なるほどと思われることが結構あると思います。

 最初のガルブレイスの議論というのは、レジュメに豊かな社会論と公・私の社会的バランスとありますが、何で自動車事故は減らないのかという問題についての、一つの経済学的な見方を提供しています。道路整備、きちんと道路を整備して欲しいと、先ほどの高石さんのお話の最後にもありましたが、その点に関して、なぜ、今の社会では事故が起こらないようなきちんとした道路整備がなされないのか、これだけ自動車交通が発達しているにもかかわらず、何でそういう風にならないのかという問題を、ガルブレイスは次のように議論しています。

 今、豊かな社会ですよね? ありとあらゆる物があります。我々は、その物を消費して生きています。スーパーに行けば、何も不足することなく大量の物が並んでいます。非常に豊かな社会に生きているわけですが、今、それを我々は当たり前のように考えている。

 実は、そういう豊かな社会というのは一体何なのかということを考えたとき、これは、物の生産を重視している社会、つまり物をどれだけ生産し消費したか、我々がどれだけクルマを生産し使ったか、ということで計られる社会のことだと言うのです。どれだけ沢山おいしい物を食べたか、食べる分には自ずと限界がありますが、それでも食べ過ぎて、フィットネスクラブに行って、わざわざお金を払って運動してカロリーを消費しなければいけないという、本末転倒な状況がある種ブームとなっておりますが、それだけ沢山の物を生産して、それを我々が沢山消費していくというのが「豊かな社会」である、というふうにガルブレイスは捉えています。

 実は、こうした社会には大きな問題があって、それは何かというと、「生産量が豊かさの指標になっている」と言うのですが、その中で「依存効果」が発生するということを言っています。わかりにくい難しい言葉を使っていますが、これは何かと言うと「欲望は、欲望を満足させる過程に依存する」と言うことなのです。

 我々人間というのは様々な欲望を持っていて、その欲望や欲求があるから、色々な物を消費して生きていくわけです。ところがその欲望というのは無限に増えてくる。それは、人間とは欲深い存在で、無限に欲望を膨らませるのが人間なのだということが前提としてあるのですが、その欲望が、ではどうやって膨らまされるのかというと、これは企業が欲望を作り出していると言うのです。企業の広告とか宣伝によってです。

 今、テレビをつければ盛んに様々な広告が私達の目に入ってきます。「これを買いなさい」、「この商品はいい商品だ」と。クルマの広告も同じです。「いいクルマができました」、「非常に質の高いクルマです」、「スピードも出ます」、「かっこいいしスタイルもいい」、「だからこれを買いなさい」と、数十秒あるいは数分間の中に、そうしたメッセージを組み込んで我々に訴えかけてくる。我々は、そのテレビのコマーシャル、あるいはそれ以外の様々なコマーシャルや広告宣伝を見聞きして欲望を膨らませていく。次はあれが欲しい、こういうクルマが欲しいと。

 あるいは、これは傾向としてはっきりしていますが、スーパーに行って商品を選ぶときにどういう基準で選ぶかというと、価格の問題を置いておくと、それは知っているか知らないかなのです。同じ商品が並んでいて、片方が聞いたこともない会社の製品、もう片方が有名なブランド品、よくコマーシャルに出ている製品、こういう効果がありますよということを知っている製品であれば、やはりそちらに手を伸ばしてしまう。無名な企業の商品がどんなに良くても、なぜかそれを知らない限りなかなか手を出さない。そういう形で我々は消費をしていくということで、その消費欲望を満足させる過程というのは、すなわち物の生産のことです。我々の欲望は、生産に依存しているというわけですね。

 物を生産する企業がそれを売るために、消費者の欲望をかき立てて売っていく。そうやって経済は拡大していき、どんどん余分な物を生産して、経済成長していくというのが、彼の豊かな社会の見方となっているのです。

 例えば、自動車を例にとると、自動車というのは単なる移動手段です。最低限、安全に走って、曲がって、止まるという機械であればいいわけです。しかし、それだけでは自動車会社は儲からないから、次から次へと生産して、次から次へとスタイルを変えてそれを売り込んでいく、消費者が次から次へと買っていく。それによって消費者は豊かであるというふうに感じるし、企業も利益を上げていくことができると言うのです。

 自動車会社という民間部門が、そうやってどんどん生産を増大させていくと、それに関わる他の民間部門というのも、やはり成長して増大していきます。つまり、自動車会社が発展すれば、それは当然、例えば車を作るための機械産業だとか、ガソリンを作るための石油産業だとか、また様々な部品を作る化学メーカー、ガラスメーカー、タイヤメーカーだとか、そういう会社が同じように発展していく。それは何で発展していくのかというと、儲けなくてはいけないからです。民間企業は利益を上げなくては存続できませんから、自動車メーカーからこういう技術水準の、こういう品質の物を出してくださいと要求されたら、関連企業はそれについていかないといけない。だから、自分の産業の技術開発をして、より良い物を作っていく。そうやって産業技術というのは発展していくわけですね。それで、より高度な商品が作られていく。

 企業は、それぞれが利益を上げて生き残らなければならないという一点で結ばれていて、民間の経済というのはうまくいき、バランスを持って発展していくのですが、これが公共部門となるとそうはいかなくなる。ガルブレイスは、それが豊かな社会の問題だと言うのです。

 公共部門とは何かというと、自動車交通の発展というのは、自動車メーカーや機械メーカー、石油・化学メーカーだとか、それらがあればいいだけではなくて、実は、道路や信号システムの整備だとか、先ほど話に出ましたが、安全に通行できる道路を造るとか、あるいは警察行政、救急医療も必要ですし、駐車場も必要でしょう。駐車場は民間でもありますが、足りなければ公共の駐車場を造るという、そういう公共的なサービスの投資というのも必ず必要になってきます。

 民間部門があまりに物を多く生産して、そこの中だけでどんどん肥大化していくと、公共部門というのは金が足りなくなって、なかなか同じようにバランスを持って発展することができない。その公共の部分と私的生産の部分のアンバランスの問題として、公共部門が遅れることで、様々な事故が発生すると見ることができるのです。

 先ほど、講座が始まる前に、どなたかが話していたのを耳にしたのですが、「行政というのは、事故が起こってから、初めて何かをする」とおっしゃっていました。まさに、そのことで、それは事態の進行に遅れるという事なのです。事故があって初めて、この道路構造は危ないから、予算を付けてこういうふうに道路を改良しましょうとか、あるいはこういうクルマを造らないでこういうふうにしましょうとか、そのための技術開発を行政として支援していきましょうとか、規制しましょうとか、そういうことをやるのですが、必ず遅れを伴っている。

 「豊な社会」とは、必然的にその遅れを伴うことになる社会だから、それを何とかバランスさせないと、自動車交通事故を含めて、色々な問題は解決できないだろうと言っているわけです。

 そのためには何があるかというと、一つは、これもやはり経済学者の考え方ですが、例えば、自動車の売上税のような税金を高くして、それは不必要にクルマを買わせないだとか、消費を少し抑えさせるという意味もありますが、その税金を財源にして道路整備に充てるということが挙げられます。今は、ガソリン税で道路整備されています。道路はもう十分整備されたので税金を下げろという議論もありますが、まだまだ十分だとは思えないですね。もちろん無駄な投資はいけませんが、十分に整備されているのだったら、こんなに事故は起きないだろうと思うのですが、そのような議論があります。

 それに関連して、自動車の社会的費用という考え方もあります。自動車の消費には、事故だとか大気汚染だとか、エネルギーの浪費だとか、様々な問題が発生します。そうした問題を解決するには、事故防止のための環境づくり、低公害エンジンの技術開発、道路環境整備、公共交通体系の充実などが必要となってきますが、それにも多くの費用がかかります。それら全ての費用を自動車利用者が払っているかというと、そうではないという議論があります。例えば、宇沢弘文という経済学者がこの議論をして有名ですが、彼の試算では、1970年代ですけれど、自動車一台当たりの社会的費用は、年間200万円とされていました。ニューヨークでは、一台当たり年間360万円であるという試算も紹介されています。それだけの費用を負担しつつ自動車を所有できる人は、今の日本にどれだけいるでしょうか。

 経済学では、こうした費用負担という点で、ある物の消費を、需要と供給の関係でコントロールしようと考えますが、さらに、様々な規制によるコントロール、最近の自動車のアクティブセーフティやパッシブセーフティといった技術的な解決への模索、また安全教育や消費者教育を通じての消費者の主体的な行動、つまり自分の物の消費に関する批判的・社会的視点を形成させることなどが、今の社会での問題解決の道として挙げられます。

4自律的移動と産業社会の問題

次に、もう少し別な見方は無いのかということで、非常に興味深い議論がありますので、それを紹介します。レジュメの4.の自律的移動と産業社会の問題というところですが、イヴァン・イリイチという学者で、この人は現代文明批判を展開していますが、交通だけではなくて、例えば学校・教育制度だとか、行政・官僚制度だとか、色々な現代の、特に先進国で生じている様々な問題について、批判的に議論をしています。学校の先生方はよく知っていると思いますが、学校教育というのはダメだと言う、つまり今日のような産業社会において制度化された教育体系、その中に組み込まれた今日の学校制度というものの中では、人は教育できないと言います。そういう批判までしていますので、たぶん教育者の方だったら知っていると思うのですが、彼に対する批判も強くあります。

 そのイリイチが、交通の問題を議論しています。どういう議論をしているかというと、我々は交通というと、やはり自動車とか鉄道、航空機や船舶をイメージします。それが交通だと思うのですが、そうではないと言っています。つまり、それらは交通の一面にすぎないのです。実は、交通とは2つあげられると言います。レジュメに書いているように、「自律的移動」と「運輸」に分けられる。自律的移動とは何かと言うと、「新陳代謝エネルギーの利用」と分かりにくいことを書いていますが、これは単純な話で、人間や動物の動力、つまり動物の新陳代謝エネルギーですね、そのエネルギーを使って移動するということ、つまりただ歩くということです。人間が自分の力でこぐ自転車も挙げられます。あるいは家畜に乗って移動する、家畜に物を運ばせる。そういう自律的、自ら律することのできる移動というものを、まず考えます。次に、「運輸」というのは何かというと、これは機械によって移動することです。つまり、機械的な交通手段の利用です。これは化石燃料を使うということで、ガソリンを使ってエンジンを回して、高速に移動する。エネルギーの利用の仕方という視点で、そういうものに分けています。

 イリイチが、何でこんな議論をするかというと、この「運輸」を享受して高速な移動をする人というのは、世界の6分の1ぐらいしかいないということに着目しているからです。今では、中国やインドも、ものすごく経済成長していて、マイカーブームが到来していますから、そういう国の人達も機械を使うようになってくる。イリイチが議論した時には、ごく一部の先進国の、全世界60億近くいる人口の6分の1の人々だけが膨大なエネルギーを使って高速に移動して、豊かな生活を送っていた。残りの6分の5の人達は何をやっていたかというと、自分で歩くか、自分の肩に担いで運ぶか、リアカーを引くか、家畜に荷物を乗せて運ぶか、あるいは自転車で移動するとか、そういう生活をしている。だから、そこから出発しないとだめだということなのです。

 そこで、運輸というもの、つまり機械によって移動するということが出てくるとどういうことになるかというと、「運輸産業」という産業が登場してくるのです。これは産業社会とか資本主義社会とは何かという議論になるのですが、つまり機械で高速に移動して大量に様々な人や物を運ぶ、生産力の高い交通サービスを提供する産業が登場するというわけです。

 色々な物が機械によって大量に生産されるようになると、産業社会というものが発展するのですが、そうした産業によって構成される社会というのは、ある一つの特徴を持ちます。それは何かというと、その産業社会の、例えば生産性とか効率性というものが時間の関数によって測られる社会になることです。つまり、時間を重視すること、どれだけ短い時間にどれだけ多く生産したかという考え方が中心になる社会が作られてくる。

 「生産性」というのは、ある一定の時間でどれだけの物を生産できるかということであり、「生産性を上げる」ということは、同一時間内でどれだけ生産量を増やすことができるかということと同じ意味になります。例えば、1時間でクルマ10台生産するのと、同じ1時間で、技術開発して機械のスピードを上げて100台生産するのとどちらが生産的かというと、100台生産した方がいいのですね。その方が効率的だということになります。

 そういう考え方がベースにありますから、これはもう速度をとにかく上げていくという社会になります。速度が速いことは良いことだと考える社会です。今、スローライフということが言われ始めて、最後に少しその話をしますが、「遅い」というのは、今の社会では非常に否定的な言葉ですね。「何のろのろやっているのだ」と言われた時、「何で、そのスピードではいけないのか?」ということは言えない。遅いことは悪いこと、早いことは良いことだという観念が、社会的に作られている。そうすると速度が速い、時間を少しでも有効に使う、あるいは効率的に使う、また短い時間の中で色々なことをしていく、早くやって時間を空けて、その時間を使って他のことをやるという、そういうことを優先していくという価値観が社会全体の中に形成されてきます。

 そうなるとどうなるか。我々は本来、機械を何のために作ったかというと、自分たちの労働を機械にやらせて、自分たちは楽になるために機械を作ったのですね。ところが、そういう社会、つまり産業社会においては、その機械のスピードにあわせて自分たちが働かなければならなくなる。これはもう、みなさんご存じだと思いますが、チャップリンの「モダンタイムス」という映画を見たことがあるかと思いますが、工場の生産ラインのところでチャップリン扮する労働者が一生懸命に働いていて、どんどんスピードを上げられていく。それでもうてんてこ舞いになっていって、最後は疲れて倒れてしまうというシーンがあります。今の社会というのはちょうどそういうものであって、チャップリンというのはただ単に喜劇を作ったというのではなくて、彼はもう立派な哲学者ですから、そういう社会の様々な問題、世相というのを反映して、現代社会というのを批判する意味であの映画を作っています。そういう形で、我々は本来、機械を使ってより豊かな生活、よりゆとりを持った時間を過ごして、それこそ家族と過ごしたりとか、絵を描いたり見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりとか、本来の豊な人間的活動をする上での時間的余裕を確保するはずだったのですが、どんどんそういうのが切り詰められて、とにかく忙しく働く。急げ、急げと言われ、この社会では時間が価値を持ちますから、「時は金なり」という言葉がありますね、一時の猶予も許されない、もったいないから何かをしろ、動いていろ、働いていろという形になってくる。

 そうすると、レジュメの3ページに移りますが、運輸に支配された生活時間、生活空間が構成されるということで、そういう機械のスピード、クルマのスピード、飛行機のスピードに合わせて、我々は生きて行かなくてはならないということになるのです。そのような社会で、我々は非常に疲れたりとか、人間的な理性や情緒が失われてきたりしてくる。レジュメに人間性の喪失と書きましたけれど、先の高石さんのお話を聞くと、まさにそういう人間性が失われているような状況が社会の中に作られているということで、高速文明が精神病理を引き起こすということを、イリイチの議論から考えることができるのです。

 では、他律的な運輸の支配からの解放は可能かということで、結局どういう結論になるかというと、人間の動くペースで構成される生活空間と生活時間の構築、つまり、本来、人間には人間が生きていく上でのペースというのがあるはずなのです。人が生活するのに相応しいスピードがある。それを機械によって異常なまでに高めてしまっているから、それに対応できなくなっているのです。どんなに早く社会が変化していっても、もちろん平気な人、対応できる能力のある人もいるかもしれませんが、今の社会状況を見た時に、多くの人々が疲れ切っているのではないか、そういうスピードを少し変えないといけないのではないかという議論があるのです。

 ただ、今の自分達の生活を変えることは本当に可能なのか、ではどういう社会を構成すればいいのかというと、これはなかなか色々な議論があって難しいことです。そういう社会背景というのも実はあるのではないか、この考え方が正しいかどうかというのは、様々な議論があってまだ明確ではありませんが、そうだとしても、こういう考え方も一つ参考にしながら、自分たちの生活を振り返った時に、異常な他律的な速度に合わせられて無理をしていないか、疲れていないか、そこで本来の人間として色々なものを失っていないかということを、少し考え直すということは必要なのではないかと思います。

5 自動車という製品=「クルマ」

 次に、「自動車という製品」というテーマで、なぜカタカナで「クルマ社会」と表現したのかということを、少しお話ししたいと思います。

 「自動車という製品」という場合、この製品というのは何か。我々は、無意識に製品という言葉を使っています。「これは、何処どこの会社が作った製品だ」などと。この製品の定義に、「人々のニーズや欲求を満足させる市場提供物のことである」というものがあります。市場に出す、つまりマーケットに提供する物だと。これはフィリップ・コトラーという有名なアメリカのマーケティング学者が言った定義なのですが、その中で「ニーズ」は欲求と書いてある。ニーズも欲求も同じではないかということになるのですが、実はちょっと違うという。そこの認識を持つということは大事だということで、この定義を紹介しました。

 ニーズというのは人間の基本的な要件、それを満たして消費して生きていく、つまり食べ物がなければ人は生きていけないということで、食料品に対するニーズというのが当然あるのです。しかし、それ以外に欲求というものもあるということです。これも少し分かりにくいかもしれないですが、マーケターというのはマーケティングをする人で、広告宣伝をしたり、どうやって市場に会社の製品を売っていくかということを考えたりする人ですが、こういうことがコトラーの本に書かれています。「マーケターは、ベンツを買えば社会的地位を高められるというニーズが満たされるとの「考え方」をプロモーションするかもしれないが、社会的地位というニーズを生み出してはいない」と。つまり、企業でマーケティングをする人が色々な広告宣伝をして、まあベンツを買いなさいと、それは高級車です、従ってベンツを買ったら自分はハイクラスな人間である、そういう所得を持っている人間であるという考え、というよりイメージですね、それをプロモーションするだけであって、本当にその人の社会的地位、立派な人であるということを作り出すわけではないということなのです。それらは、もともと別な話なのですね。

 ところが、実は今はそれらが混同している社会、混乱して分からなくなっている社会になっているということを言いたいのです。

 それで正当なニーズというのは何なのか、そもそもあり得るのかということですが、それはもう結論に入ってしまうのですが、これはやはりあるのだろうと思います。欲求は社会によって作り出されるのです。だから、ニーズと欲求の違いはどこで区別できるのか、どこまでが正当なニーズ、または必要なニーズで、どこから先が余計なニーズなのか、先ほどガルブレイスが「余分な欲求を生みだしていく」と言っていると言いましたが、何がその余分なものなのか、例えば、見せびらかしの消費、ただ単に「隣の家がいいクルマを買ったから、うちも買おう」と言って買うという、そういう欲求ではなくて、人間の基本的欲求とそういう不必要な欲求とをどこで見分けるのかということが問題になってくる。そんなものは見分けられないと言う人もいる。それは主観的なもので、難しいのだと。ただ欲求というのは、コトラーも、人間が暮らしている社会によって決まるというふうに言っています。私も、そうだと思うのです。ですから社会によって決まる以上、今はどういう社会で、我々はどういう社会を作り上げていこうとしているのか、その中で色々な欲求というのが出てくるわけで、それを、どういうふうに考えなくてはいけないのかというとが重要となってくるのです。

 社会ですから、多数の人間が集まって成り立っているわけです。そこで、協働して生きている。この講座に集まっている人達も、私を含めて、全然関係ない人間ですけれど、関係無いように見えるけれど、社会というものはそういうものじゃない。どこかで必ず繋がっているのです。学校の教員であれば、皆さんのお子さんが学校に行けば教員と接触し関係を持ちますし、その教員も生きていく上で色々な物を買います。だから、例えばここに自動車メーカーの方がいたら、その自動車会社から自動車を買ったりして、そういう色々な協業の網の目の中で関係して、社会が成り立っているわけです。

 そうすると、当然、そういう人々の集合ですから、様々な人々も関係の無い様に見えるけど必ず繋がりがあって、その「他者同士の関係性」というものが出てくる。そういう関係性の中で色々な人が集まって暮らすのですから、その関係の中で最低限のニーズとして互いに安全な社会の中で暮らすことができる、あるいは、暮らしたいというニーズが出てきて、これは当然あるべきニーズだと思うのです。

 だから争いの無い社会、戦争をやめろということは全くその通りで、争いが無く、安全で事故に遭わないで、それぞれがそれぞれの生活を全うできるという社会、そういうニーズというのが基本にあって、それがあらゆる生活の前提となっている。だから、人に迷惑をかけてはいけないわけだし、クルマを運転する時は、当然、細心の注意を払って人を怪我させないように、あるいは自分も事故にあって傷つかないようにする。それは、家族を抱えているにせよ、一人で生活しているにせよ、まさにそういう問題が出てくるわけです。そこから基本的なニーズが出てきて、行動における責任とか、他者との関係の維持ということ、これは社会ということですから、そういうものが発生するわけです。

 今、日本は自由社会でありますが、何をしてもいいという社会ではない。つまり、人を押しのけてクルマでスピードを出して走ってもいいという社会ではなくて、やはり、そういう社会の人々の基本的ニーズを理解し、社会のルールを守りながら、皆が生きていくということを考えていかなければならないのです。ここで「公共」の問題とか「共生社会」という問題が出てくるわけですが、その議論をさらにしていく時間もないので、ここでは、そういう問題があるということに留めておきたいと思います。

6「消費社会」論

 次に、レジュメ4ページの「消費社会」の問題に進みたいと思います。

 これまで述べてきたような社会状況の中で、先ほど言ったガルブレイスやイリイチのような学者が、問題提起をしました。一つは、生産、つまり物を大量に生産する企業、主に大企業ですけれど、それがどんどん人々の欲望を膨らませて物を売っているのではないかという問題。もう一つは、産業が登場してくると、時間で効率性を計るという社会、効率的であるというのは良いことで、何でも効率的にスピードを上げるということが社会の中心になっているという問題です。特に、イリイチのこの思想は、ミヒャエル・エンデの「モモ」という児童文学があまりにも有名ですが、時間貯蓄銀行というのがあって、そこから来る「灰色の男達」が大人からどんどん時間を奪っていって、時間に追われるだけの社会になって、そこから本来の人間性を取り戻そうと努力する少女の冒険物語ですが、その児童文学を読んでいただければ分かると思います。このミヒャエル・エンデという人は、日本では児童文学、特にファンタジー小説家として有名ですが、一方で哲学者ですから、そういう物語の中で資本主義社会の問題というのを論じたわけです。

 ここで、皆さんにお考え頂きたいこと、もちろん私自身も含めて、自分たちの消費生活を考えていく上で、重要な議論があります。難解な本ですが、1970年に書かれた「消費社会の神話と構造」という本の中で、ジャン・ボードリヤールという社会学者が、こういうことを書いています。このように一部だけ引用すると、様々な誤解を招く恐れがあるので迷ったのですが、あくまでも逆説的な表現として書かれているということで読んでください。「おそらく自動車は、日常的な、そして、長い目で見れば個人的でもあり、社会的でもある、浪費の特権的場の一つであろう。」そこで、何でそういう風に言えるのかという理由がいくつか書かれているのですが、「より深い理由は、事故によって生じる板金やメカニックや人命の、眼を見張らせるような集団的犠牲にある。..交通事故、それは消費社会でもっとも美しい巨大なハプニングであり、消費社会は交通事故によってモノと生命の儀式的破壊のうちにあり余る豊かさの存在を証明してみせるのだ」と。

 これには非常に深い意味があって、これだけで見ると何か変なことを言っているというふうに思われるかもしれませんが、痛烈な今の消費社会批判、特に自動車社会、クルマを巡っての批判だと言うことです。それはどういうことかということを、簡単に、私なりの理解を通して、お話させて頂きます。

 ボードリヤールは、この本の中で、先ほど紹介したガルブレイスを批判しています。ガルブレイスの見方というのは、きわめて一面的だと言うのです。つまり、社会を生産の面でしか見ていない。簡単に言うと、大企業が悪いということ、大企業は広告や宣伝で消費者の見栄とか見せびらかしの欲望を膨らませて、それで物を売りつけているだけだと言っている。それで儲けている大企業が悪いというのですね。果たして、そう単純に大企業だけが悪いと言えるのかという問題です。

 それからもう一つ、ガルブレイスの議論で前提になっていることは、人間というのは無限に欲望を膨らませていくものだという点です。広告や宣伝で刺激を受けたら、次にこれを買いたい、次はあれを買いたいと欲望を膨らませ、どんどん消費が増える。もっといい物が欲しいと。この間、ある経済ニュースで、セコハンの市場がものすごく急拡大しているというのがありました。そこでは、とても安い値段で高級家具が売られていると。それは、定価で買った人がすぐに飽きて、そういうところに流しているのです。それで、また新しい家具を買う。あと100円ショップなんていうのも、すごいですね。100円で安いからといって、どんどん買って、どんどん使い捨てて消費している。そういう消費社会の中で、ただ単に供給側の企業が悪いのか、そして人間は本当に、ただ欲望を膨らませるだけの存在なのか。

 そこでは、なぜ人間は欲望を膨らませるのかという問に、何も答えていないのです。なぜ、人間の欲望は無限大なのですか。そうすると、もともと人間とはそういうものだからという話になるのです。それは、何も説明してないことと同じです。なぜ、人間は限りなく欲望を膨らませていくのかということを説明できない限りダメだということで、ガルブレイスも、やはり彼の議論は一面的であるし、社会に対する考えが足りないのではないかと、かなり強烈な批判をしています。

 では、ボードリヤールはどう社会を捉えているのかというと、そういう生産の問題ではなくて、もちろん生産の問題もあるのですが、そうではなくて、彼は消費という面から社会を捉え直したのです。その消費、特に大衆消費社会というものを捉えるのですが、これは何かと言うと、消費の面から社会の構造的な問題として認識しなくてはいけないというのです。

 消費というのは均一化していくものだと言います。大衆消費社会というのは、だんだん産業が発展して、技術も発展して、色々な物が大量に生産されて豊かな社会になっていくと、皆が同じような物を消費できる社会になるということです。だから現代では、誰もがカラーテレビを持っているし、洗濯機も持っている。少し前までは、そうではなかった。私の子供の頃、カラーテレビが普及し始めたのは中学生になったばかりの頃ですし、小学校生の頃に、ようやく白黒テレビが各家庭に普及したという、そういう時代でした。テレビも、最初はお金持ちが持つことができただけで、なかなか見られない。少し普及が始まっても、最初に買った人の家に行って、近所の人たちが集まってテレビを見ていたという時代もあったのですが、社会が発展して経済が発展していくと、皆が持つようになる。そして、今では誰もが高度な技術による大画面テレビを買えるようになってきました。それが消費の均一化ということです。誰もが同じような物を所有して、同じように物を消費して暮らすことができる。これは、ある意味平等な社会であると言えます。

 しかし、大衆社会というのは、そういう中で人々がどんどん均一化していく、同じようになっていくということです。誰もが同じ物を消費して、同じように考え、同じようにテレビを見て、同じような情報を仕入れて、同じように行動する。ですから、逆に世論操作が可能になるとか、様々な大衆社会の問題というのも議論されるようになってくるのですが、その中で豊かさを感じるということはどういうことかというと、ボードリヤールは次のように言っているのです。豊かさは差別そのものの関数である、と。

 つまり、差別があって初めて人は豊かであると感じることができる。今では、皆クルマを持っていますね。それはそれでいいです。しかし、それで満足するかというとそうではない。自分が豊かであるかどうかということを考えるとき、あの人の持っている車と自分の持っている車は違うということから、自分は豊かか、そうでないかと感じることができる。最初、クルマがない時代には、皆クルマを持っていなくて、自分だけがクルマを持っている。その時、自分は豊かであると感じる。ところが、だんだん自動車産業が発展して経済成長が実現し、皆がクルマを持つようになると、同じクルマを持っていたのでは豊かさを感じられなくなる。そういう状況で、皆が軽自動車を持っている、その中で自分は1000cc.のクルマを買ったとなれば、自分はそれで豊かだと思える。さらに皆がカローラを買えるようになった、その時、実は自分はクラウンを持っているとなると、自分は他の人より豊かであるとこういうことを意識するようになる。つまり、そういう差別があって感じられる感情が、「豊かさ」を感じられるもとになっている。

 そういう差別の中で初めて豊かさということが意識されて、これを「差異化」と呼んでいるのですが、人と区別することによって、人間は、人間として自分が今の時代に生きている自分であるということを意識するようになると言うわけです。

 そうすると、今の物があふれた社会の中で、それを消費という観点で考えると、自分の存在が物の消費によって左右されるということになります。今、述べたように、人と違う物を持っている、より高価な物を持っているとかで。だから、製品が多様化していくのです。消費社会では、人と違う物を持ちたいという欲求が消費者の中に生まれるから、企業は様々な物を生産し、色々な機能をつけたりして販売する。ですから、クルマなんていうものは、前にも言ったように、安全に走って、止まって、曲がることができれば、つまりそこそこ安全に移動ができれば良いだけの話ですが、そういう単なる移動手段ではダメだということで、その差異化をどんどん生み出していくわけです。

 人間はその「差異化」の部分を消費して、人と違うという、つまり均一化された大衆の中の一人で、誰が誰なのかわからないという状態の中の自分ではなくて、持っている物によって人と違いますよ、ということを示して生きている、そういう存在だと言うのです。そこに、欲求が無限に増大していく理由を見いだすことができるのだと。

 皆、均一で同じ物を持つようになれば、違う物を持ちたいという、差異化された欲望が出てくるのです。もう少し高級な物を持ちたいとか、そういうふうになっていくわけです。

 そうすると、普通、人間が作っている社会の中での人と人との関係というものは、あの人はどういう人なのですかとか、ああいう考えを持っているからこういう人なのですということで、他者を意識することで成り立つのですが、消費社会では、そうではなくて、人と物との関係でそれを示そうとするようになる。

 つまり、何を持っているかが問題になってくる。どういう人間かではなくて、何を買って何を消費している人間か、何を所有している人間かで見るのです。どんな服を着ている人か、3万円のスーツを着ている人か10万円のスーツを着ている人か、どんなクルマを持っている人か、カローラに乗っている人かクラウンに乗っている人か、あるいはベンツに乗っている人か。それによって差異化をはかって、人間は自分の社会における位置というものを確認しようとする。

 そういう社会がさらに進むと、「記号化」されると表現されるのですが、イメージがつくられるのです。社会の中でそういうイメージがつくられる。つまりベンツを持っている人というのは、お医者さんや大企業の重役、あるいは会社の社長さんというようなイメージが社会的につくられる。つまり、それだけの所得があるということで、そういうイメージがつくり上げられると、今度は、自分がそういうイメージの中で、そういうふうに見られたいということで、そういうイメージの中に自分を組み込んでいくということを人間はする。そのために物を買い、消費するようになるのです。

 だから、「どういう人間であるか、ないか」ということは関係なくて、「どういう物を消費しているか、していないか」で見られますから、そういうふうに見られたいと思えば、そういう物を買い消費するということをするようになっていくということです。

 実は、それは消費社会の問題で、その中で消費者としての人間はどんどんイメージを膨らませ、その膨らませたイメージの中で消費をしていくということをやっており、それが記号化されると言うことですが、結局、消費社会というのは単なる見せかけの社会であると言う。この意味では、社会において人間対人間の関係が無くなって、人間対物の関係でしか見えなくなって、単なる見せかけの豊かさ、あるいは、そういうふうに見られたいということで、一生懸命に消費する社会になっているわけです。苦労してローンを組んでより高い物を買って、それで支払いに追われてということになると、無意識のうちに強制されたイメージだけの消費、そういううつろな人間関係の中で、人間が社会の中で疎外されていく、おおよそボードリヤールは、このようなことを言って、消費社会のあり様の問題というのを議論しています。

 こうして、ボードリヤールの言葉で言えば、資本主義の基本的問題というのは、「生産の合理化」と「利潤の獲得」という問題ではなくて、今日の潜在的に無限な生産力とその生産物を売りさばく必要との間の矛盾であり、その生産力の「全面的処分力」として「消費力」が生産されるということなのです。

 今の社会では、自由な選択のもとでの消費が「豊であると」ことの証明であり、それが望ましい社会のあり方と意識されているけれど、それは単なる「神話」にすぎないと言います。消費社会にあっては、見せかけの豊かさ、強制されたイメージだけのモノの消費、そしてうつろな人間関係の中に生きているだけだと言うのです。こうして、消費ということから出てくる社会構造的な問題だから、ボードリヤールは、人間の意識を変えて消費社会の問題を解決するだとか、主体的に我々が自分の消費生活を考え直して解決するとかはあり得ないと言います。そんなことはできない、つまり、このような消費社会の中で生きてしまっているのだから、人はそんなことを意識して変わるということは無いのだと言う。

 だから、全く新しい社会を構成しないとダメだと言うのですが、ではどういう社会が構想されるのかというと、少なくとも、この本の中には指し示されていない。そこで、それをどういうふうに考えていくかということが大事であり、それは今、様々な議論があって、私も勉強の途中です。今後とも、考えていかなければならないと思っています。

7 むすびにかえて~議論のための素材として~

 最後に、今後の議論のために少し参考になるかと思い、消費社会の問題も含めて、二つの話題を提供します。

 一つは、レジュメの最後にある、日本経済新聞につい先日掲載された、興味深いと思った記事です。「20代クルマは買わない、酒も飲まない」という記事がありますが、酒を飲まないしクルマも買わないとなれば、飲酒運転事故も無くなってくるかなと思いたくなるのですが、これは実は、今の消費社会に変化が現れているということで、日本経済新聞が調査して、20代の若者に消費意識の変化があるということが書かれています。

 本当にそうなのかということはまだ分からないですし、これから色々と調査とか研究が進んで、若い人がどんな意識を持っているのかということが議論されると思いますが、確かに、私も学生を見ていると昔ほどクルマの話をしなくなりました。昔はクルマの話ばかり。その代わり今は携帯の話ばかりで、携帯ばかりいじっているということで、ただ携帯に関心が移っただけだと言えなくもないのですが、貯蓄には熱心だということで、意外と堅実な生活をし始めている。

 クルマについても、クルマを所有することで自分はクラスが上だとか、あるいは、豊かな生活をしているというような意識もない。必要な時に使えればいいじゃないかということで、別に興味はないと。酒だって、そんな体を悪くするまで飲む必要は無いというふうに思い始めている。私には耳が痛い話なのですが、かなり健全な思考が出てきているということですね。

 それから、「過去最高の舞台裏」という記事ですが、何が最高かというと、今、トヨタが純利益2兆円ですかね、世界最大の自動車会社になったと盛んに報道されていますが、この過去最高というのは、自動車会社の利益や生産台数のことではなくて、日本の自動車販売台数が減っているということです。これは、人口が減少していくということもあるのでしょうが、実は耐用年数が非常に伸びているということが書いてあります。

 1996年に9.3年だった耐用年数が、2006年には11.1年にまで伸びたと。これは20年くらい前までは、日本の自動車耐用年数は、確か7.5年くらいだったと思います。その当時、ヨーロッパのボルボという会社のクルマが、平均耐用年数14年と言われていて、平均的に15年近く乗っていて、それでようやくクルマを買い換えると言われていました。今の日本のクルマは本当に良くできていて、乗っている人は分かると思うのですが、ちゃんと整備していれば、20年とか走行距離で20万キロなんて、軽くもつ機械なのです。普通に運転して整備していればもつわけですから、一生に一、二回買えば十分、一、二台で過ごせるわけです。それでも日本では、次から次へと買い換えて、少し前までは、2年おきにマイナーチェンジをして、少し変えて新しいクルマを市場に投入していました。4年経って、今は5年でしょうか、それは車検制度や下取り・ファイナンス制度と合わせているのですが、フルモデルチェンジしてまた新しいクルマを市場に投入して、買い換えるということをやってきました。

 ところが記事では、近年、その平均年数が伸びてきているとあり、その後に何が書いてあるかというと、カーシェアリングの話が書いてある。これは所有するということの意識が変わってきたということです。今までは、クルマは自分の車として所有することで、それが一つのステータスになったり、豊かな消費をしているということの証明になったりしていたのですが、今はそうではない。クルマは別に持たなくていい。使える時に使えれば十分だし、リーズナブルに使えるならそれに越したことはないというのだそうです。

 これは、クルマ自体を私的な所有物ではなくて、社会的な共通消費手段として所有する、社会的に所有するという消費の「社会化」の現れと言えます。だから、この動きが今後、ますます加速していくと、恐らく少しずつですが、社会が変わっていくのかなと私は考えるのです。

 札幌でカーシェアリングを最初に事業化したのは、桑園駅の近くにあるロータス・スガワラという自動車整備会社で、そこの菅原社長さんという方が、ウィンドカーという会社を立ち上げ、これはなかなか先見の明があったと思いますが、早くからカーシェアリング事業をやり始めていました。広域の北海道では、共同で所有して、好きな時に使えるというシステムを作るというのはなかなか難しいだろうと思うのですが、東京ではずいぶん増加していて、クルマを持たない人が増えてきているようです。

 そういう中で、クルマが自己を物との関係で表そうとするための差異化としての物の消費とか、見せびらかしの消費とかではなくて、本当に社会にとって必要な移動手段、その個人にとって必要な移動手段として認識されて、社会的に所有されて、必要な時にだけ使えれば良いというふうに人々の意識が変わってくれば、これはずいぶんと消費社会の問題、あるいは、クルマによる問題というのを変えていくのではないかと思うのです。その辺が、少し社会的傾向として出てきているのではないかと感じました。そういう意味で、私自身とても興味を持ち、今日この記事を参考にと持ってきました。

 それからもう一つ、先ほどの効率優先主義に問題があるのではないかという私の大学の職員がメールで寄せてくれた意見ですが、大事な点を指摘しているということで紹介させて頂いたのですが、そういうことを考えると、例えばイリイチの議論も考え合わせていくと、今、議論されていることに「スロー社会」についての議論があります。

 これは近年スロー・フードというものが知られるようになりましたが、極端に産業主義的なファストフードに対抗して、食の面で、効率性だけを追求してやっていくのではなくて、スロー・フードでいきましょうということですね。イタリアのブラという小さな町から起こった運動ですが、地域の食の伝統を守ることから、もっとゆっくりと、フェア・トレードで地元の産物を使って、きちんと調理をして、自分たちで盛りつける、楽しんで時間をかけてゆっくり食事をする、それが健全な地域生活、また人間の生活あり方ではないかと言うのです。

 5分や10分で飯をかきこんで、さあすぐに次の仕事へと、そういう生活を強制されている人もこの世の中に沢山います。だからそういう人達も含めて、どういうふうにスローな社会というのを構築していくかというと、これはこれでなかなか難しいのですが、そう言う意味では、あらゆることをもう少しスピードダウンする必要があると考えるのです。レジュメに書いたように経済成長、とにかく成長がなければだめだという、スピードをあげる、消費のスピード、開発のスピード、社会変化のスピード、交通のスピード、働くことのスピードなど、あらゆるスピードを速めています。

 人間が成長する上でも、早く、早くと子供に接している。日本では昔から「這えば立て、立てば歩めの親心」と言いますが、これは子どもの成長を心待ちにする親の心境を表現したものですが、ようやく這うようになったら、すぐに立ちなさいと言う。ようやく立てるようになったら、すぐに歩きなさいと言う。そうやって、とにかく急げ、急げと急き立てる。小学校に入ったら中学受験のことを考えなさい、中学受験の次は高校受験だ、次は大学受験だと、そうしないと良い会社に入れない、そうしないと大変よと、何でも急いで、少しでも時間があったら受験勉強をしなさいといって子供を追い立てている社会というのが、今の日本社会ではないでしょうか。

 そういう教育の問題も含めて、生活とか競争とか効率追求、技術開発もとにかく早すぎる。スピードが速すぎて疲れる。疲れた顔を見せると嫌な顔をされる。疲れている人間というのは良くないというイメージがある。

 こうした議論は、辻信一さんの「スロー・イズ・ビューティフル」という本にあります。これは以前、作曲家の山本直純さんが出演し話題となった、チョコレート会社のテレビコマーシャルの中の「大きいことはいいことだ」というキャッチ・コピーが、日本の高度経済成長の時代観念をよく表しており、「大きいことはいいことだ」、「早いことはいいことだ」と言って、大規模化し、大量生産して大量消費して、スピードをどんどん上げていった暮らしを我々はしてきたのですが、そうではないと、そのアンチテーゼとして「スロー・イズ・ビューティフル」という題でこの本が書かれています。他にもそういう思想を論ずる人は大勢いますが、このスロー・イズ・ビューティフル、もう少しゆっくりしていいのではないかと、私も思うのです。

 でも、そんなにゆっくりして本当に今の経済が成り立つのか、食っていけるのかという議論ももちろん出てくると思います。現実問題として、一部の人々はそういう生活を実践できるでしょうが、では、皆が本当に実践できるかというと、社会としては、これはまた非常に大きな、複雑な問題があると思います。なかなか難しい問題だと思いますが、そういう事を考えながらも、少し自分の生活を見直すというだけでも違うのではないかと思うのです。

 少しスローダウンする、10%スローダウンするだけでもずいぶんと社会が違ってくるのではないかと考えます。そういう意味では、辻さんの「遅さとしての文化」というサブタイトルをもつこの本は、非常に面白い本で、心情的にはよく分かるし、同感するところが多々あります。

 もう時間もだいぶ経ちましたので、私の話はこれで終わりとさせていただきます。長時間にわたりご清聴いただき、どうもありがとうございました。

(やまもと じゅん)

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