交通教育理論篇

「わが国における交通教育の動向と展望」 斉藤 基雄

01.1.28. 齊藤基雄氏
2000.11.11. 交通教育研究会発足記念講演

交通教育研究会主催 講演学習会 2000年11月11日 (於:札幌市)

わが国における交通教育の動向と展望

 皆様こんばんは。私は、クルマ社会を問い直す会の副代表で、現在大学院にて交通論を専攻し、そのなかで特に交通安全施策の動向とこれが国民の交通手段選択にもたらす影響、そして交通安全施策の評価手法について、主に研究をしております。

 本日は、本来ならば週末、せっかくのお休みのことと思われるところ、皆様方にお越しいただきまして、誠にありがとうございました。今回は、交通教育研究会の旗揚げとして、クルマ依存社会に便宜を図る方向で進んでいる、学校現場での「交通安全教育」や「交通教育」といった類の教育の動向と展望について、このような教育方法にかねてから問題意識を抱いてまいりました私のほうから、せめて拙い話でもお耳にしていただければと思い、こちらまでまいりました。

Ⅰ.交通教育の問題に関心を持つようになったきっかけ

 それでははじめに、私がなぜ、交通教育の問題に関心を持つようになったのかについて、お話したいと思います。この問題に関心を持つようになったきっかけは、今から15年も前、1985年に日本消費者連盟から刊行されました『地球はそもそも歩行者天国』というブックレットです。この本は、交通遺児育英会の奨学金を受けられている大学生で東京・日野市の育英会学生寮である「心塾」に入居しておられる方々で組織されている「交通遺児学生の会」が執筆・編集なさったものです。これが刊行されたのは、わが国の交通界において公共交通のあり方、特にその「公共性」をめぐる議論が、当時の国鉄「分割・民営化」の是非に関連して盛んになった頃であります。幼少の頃から鉄道を中心に公共交通機関を日常生活や旅行の手段として愛用してまいりました私としましては、都市圏・過疎地を問わず、モータリゼーションの急激な進行で公共交通の利用がますます困難になる状況を見るにつけ、単なる趣味的な見地ではなく、斜陽化が進む公共交通の今後の動向を非常に案じるようになり、新聞紙上である日「クルマ世代の若者がモータリゼーションと公共交通衰退のことについて訴えている」とこの本を紹介した記事を目にして、早速版元に申し込みました。

 私がこの本を読んで衝撃を受けた点は、鉄道やバスの衰退とクルマ依存社会の絶対化が交通事故や環境破壊といった形で人々の生存を脅かし、「交通安全教育の充実」を口実にした学校現場へのバイクをはじめとする自動車教育の導入がモータリゼーションのさらなる拡大を手助けしようとしていることが問題提起されていることであります。私は、この本を知るまで「交通安全教育」というものはあくまでも児童・生徒に対して安全な道路の歩き方や自転車の乗り方を教える程度のものであり、仮にバイクの乗り方が教えられるとしても、まさか「クルマの日常性や必然性」といったライフ・スタイルの面にまで触れられることはなかろう、とたかをくくっておりました。しかし、私はその後、学校現場にバイクや車の運転のための教育を推進する研究者の著作を読んだところ、後で紹介するように、モータリゼーションに追随、もしくはこれをさらに発展させる方向での教育の必要性が主張されている点を繰り返し目にして、このままでは次代を担う青少年の交通手段の選択がクルマ一辺倒の方向に誘導され、この人たちがやがて社会の中枢を担うようになればクルマ、特に自家用車以外の交通手段を利用する自由はなくなるのではないか、と危機感を抱くようになりました。

 以来、私は「交通安全教育」や「交通教育」といった類の教育の動向が将来の国民の交通手段選択に及ぼす影響について、じっくり腰を据えて研究したいと思い、大学の学部卒業後に暫く勤めていた会社を辞めまして、3年前の97年に大学院に入り、交通政策という視点から、交通安全施策の研究をするに至ったわけです。

Ⅱ.交通教育の推移と現状について

「交通安全教育」と「交通教育」

 さて、ここでは「交通安全教育」と「交通教育」の2つの言葉をあげさせていただきましたが、この二つはいったい、どのように違うのでしょう。現在、両者の違いにおいて、特に定義づけられた資料はありませんので、いくつかの専門書にかかれている内容から私が類推してまとめた意味づけによりますと、次のように解釈できるものと考えられます。「交通安全教育」とは、道路交通において「安全を確保するために自分や他者の身を守る術」に、「交通教育」とは、上の範囲に加えて人々と交通手段との関わり方、つまりわれわれの社会における交通手段の選択に、それぞれ言及されるものであり、前者が"ミクロ的"であるならば、後者は"マクロ的"といったほうがよいでしょう。

 もちろん、わが国ではどちらであれ、クルマ依存社会が絶えず不変であるかもしくは拡大することを前提に、「他者を思いやるドライバーを育てるためには幼少期から継続的に運転のための諸訓練が必要である」という視点で教育が進められる傾向にあり、この分野で国民一般に向けて流れている情報の方向性は、どちらも何ら変わるものではないのが実情です。後でも触れますが、クルマの運転がいくら、本来は短期間の教習だけで上達しないはずのものといえども、「免許取得率の高さ」という結果論を振りかざして、価値観の成熟していない幼少期から「大人になったら"皆が"運転する」と公教育の場で決めつける発想で、問題は解決できるのでしょうか。私はこれから、この手の発想を「国民皆免許主義」と呼ぶことにしますが、本日は学校現場、特に高校においてこのような発想、すなわちバイクや車の免許取得に向けての指導や取得後の技能教育など、これらを総称した「運転者教育」(driver education)が米国やドイツ等、もちろんこれらの国々では全部の高校でなされているというわけではありませんが、これらの教育を推進しているところに見習って導入されつつある現状とその問題点、そしてこれに対する展望について、論じていきたいと思います。そのため、ここで論じる「交通教育」とは、狭義の「交通安全教育」も含めることとさせていただきます。

交通教育の動向

 高校の教育現場に自動車の運転に関する科目を取り入れようという動きは、実は最近に始まったことではありません。わが国では今から何と半世紀近くも前の1955年、交通経済学の大御所といわれております、今は既に亡くなられた今野源八郎氏の著書で、東京大学出版会から出されました『道路交通政策』という本から、最初の主張が発見できます。この部分を読み上げますと、次のような内容となります。

第3章 我国自動車交通政策の課題

第2項 自動車化政策 Ⅰ 基本政策】から4 自家用車普及政策(本文第125頁)

 「可及的多数の国民が自動車を所有すること、そして最高の自動車人口 maximum car population をもつことが一国の交通政策上望ましく、国民各自が自らの交通機関を有することは、各自が最も能率的に活動し得る交通条件であろう。この観点から、前述の如き大衆車の大量供給政策と共に、次の一連の自動車普及政策を採らなければならない。(A)高率自動車税の低減、特に一定の大衆車税の減免政策、(B)自動車保険の普及と料率の減免を計る政策、(C)自動車月賦販売の低利金融政策、(D)自動車運転教習普及のため、自動車学校設置の奨励、高校体育教育実習中に運転技術習得を含ましめる(アメリカの若干の州は自動車運転学習科目を必修科目としている)等モーター・スポーツの奨励政策、(E)自家用運転免許証の簡易交附政策、(F)自動車取締法規の簡素化政策」

 この時点でもう既に、高校への「運転者教育」導入を主張する論者の本音はやはり、"安全意識の普及"よりもモータリゼーションの拡張にあったことが、明らかに見て取れます。なお、今野源八郎氏はその後、1974年に本田技研が「国際交通安全学会」を発足させたときに初代会長に就任し、さらに、モータリゼーションへの早期からの習熟を指向した交通安全教育に関する数々の著作を集めた、住友海上福祉財団の交通安全シリーズで審査委員長を務められるなど、モータリゼーション普及のための「交通教育」の推進を一貫して支えてきた人物であります。

 今野氏の論文の暫く後、政府では1971年に、当時の総理府の交通安全対策室が『アメリカにおける交通安全教育の現状について』という報告書を発表します。この報告書は現在、東京・平河町の日本都市センター会館内にある「防災専門図書館」で閲覧可能ですが、内容は、米国の高校における「運転者教育」の概要とその実施状況についての調査報告書です。つまり、この時点で政府も既に「運転者教育」の先進国とされる米国に調査団を派遣し、わが国の高校現場での実用可能性について本気で研究しはじめていたことが、ここからうかがえます。

 しかしながら1970年代後半に入ると、全国各地でいわゆる「暴走族」が多発してその取締りが困難となってから、各地の高校ではバイクの「三ない運動」、つまり生徒に対して免許を取らせない、車両を買わせない、運転させない、といったことがPTAを中心にして盛んになってまいります。その後、「三ない運動」を徹底させるべく、バイクや車の安全運転に関する指導をしない高校がやがてふえることとなったため、高校の交通教育をめぐる問題は、「三ない運動」の是非と深く関連づけられていくようになったのです。そこで、ここからは「三ない運動」と交通教育の動向に関する推移を、暫くみてみたいと思います。

 そもそも、法律でない「校則」によって、生徒のバイクの免許取得や車両購入・運転を禁止してきたこの種の運動は、1970年から愛知県の数校で始まった「四ない運動」が最初といわれております。この「四ない」とは、「三ない」に「車に乗せてもらわない」を加えたものであり、実際はこのような愛知県の例に限らず、運動内容は地域によって各々細かく異なっておりました。全県単位で始まったのは、翌71年の島根県「三ない運動」とされており、これらは当初、いわゆる「第一次交通戦争」のもとでの生徒数の増加を背景に、交通事故の防止を主な目的として発足したものでした。その後、先に申し上げました1970年代後半からの「暴走族」の社会問題化により、これらの運動は「生徒の暴走族化」を防止することに焦点を移され、1981年になると、この手の運動を導入する都道府県は、31府県に達したわけです。なかでも、湘南海岸などの「暴走族多発地帯」を抱える神奈川県では、「三ない」に「車に乗せてもらわない」と「親は子どもの要求に負けない」を加えた「四プラス一ない運動」が1980年に発足し、これは「三ない運動」の強化版として教育関係者の注目を浴びました。この「四プラス一ない」を考案した当時の神奈川県高校PTA連合会、小島幸生会長は後に、自らが副会長を務めていた全国高等学校PTA連合会において、「三ない運動」の類の運動を全国的に組織するため、決議文をまとめあげました。これが、1982年8月の全国高校PTA連合会による「三ない運動」全国決議であり、以降1997年まで、運動が全国的に展開されるに至ったのです。

 全国高P連は、82年の最初の決議文当時、「青少年の命を守りかつ親の責任を促す立場から、生徒に対するバイクの免許取得および運転の禁止、やむを得ず運転する場合の学校長とPTA会長との協議による許可、原付免許試験における技能検定導入や、原付の構造上最高速度の引き上げへの政府に対する要求」を展開し、以上の運動でも効果がみられない場合に「自動二輪免許取得年齢の満18歳以上への引き上げ」を付帯事項として掲げておりました。その後、87年の大会で「免許年齢の引き上げ」要求が削除されてから、運動の形骸化が急速に進みます。

 一方、もともと高校への「運転者教育」導入を指向してきた政府は、1988年以降のいわゆる「第二次交通戦争」における若者の運転中における交通死の増加で「三ない運動」の効果が疑われるにつれて、高校にバイク実技指導を導入し、ゆくゆくは免許取得のための交通教育を体系化しようという動きが出てまいりました。まず、文部省は1989年7月に国体第24号の通達「二輪車の事故防止に関する総合対策について」を発表し、高校における二輪車の安全指導の普及推進を掲げた後、同年9月には、高校の正課授業に運転免許取得科目を導入する構想を発表しました。この構想によりますと、学科教習を高校内で行い、技能教習を既存の自動車教習所に委託する形式が掲げられております。素人目にみれば、このような施策を進めると既存の教習所の仕事が減るだろうから、教習所業界はこのような構想にはまさか賛成しないだろうといわれることはあります。しかし見方を変えれば、この構想によって、ただでさえ少子化により教習人口が激減している現状では、教習生の奪い合いのために使われる宣伝費の削減と、教習指導員の雇用安定という視点から、過当競争による教習所業界の共倒れ防止のメリットも容易に予測可能であり、実際、全日本指定自動車教習所協会のホームページでは、高校での「運転者教育」の推進を訴えるメッセージを見ることができます。文部省はその後、1994年から、各都道府県に1校ずつの「二輪車研究指定校」を設置し、高校でのバイク実技指導を教育現場で実用化する研究を推進してきました。96年6月には「交通安全教育指導者中央研修会」で、免許取得後の継続的な運転実技指導は学校教育で推進されるのが望ましいという報告が発表され、やがて次にあげる総務庁と共同歩調をとるに至っているのです。

 さて、その総務庁では、1993年10月に「免許取得前の若者に対する交通安全教育の在り方に対する検討会」が発足しました。このとき、検討会委員は総務庁のほか、警察庁、文部省、神奈川・愛知・岡山の教育委員会代表、全国高P連、全国高等学校校長会、学識経験者らの17人で構成されましたが、学識経験者のなかに、モータリゼーションの拡大に批判的な人物は一人もみられませんでした。こうした状況にあって最終報告書は95年3月に発表され、免許取得に向けた交通安全教育の高校での推進が打ち出されました。

 その間、「三ない運動」を推進してきたPTAの動きには、足並みの乱れがみられます。まず神奈川県では、1988年に県立津久井浜高校において、二輪愛好者であった当時の校長が「四プラス一ない運動」を独自に破って、免許を取得した生徒を県警の実技講習会に参加させました。これが一時的であれ、死傷件数の減少という効果をあげ、マスコミ各社から好感をもって迎えられたため、神奈川県高P連と県当局はついに、1990年4月に「四プラス一ない」を廃止して「かながわ新運動」に転換しました。この「かながわ新運動」とは、次のような内容のものであります。この運動を記した県通達である「神奈川県教育長通知高第10号」によりますと、高校生は「車社会の一員」であると規定された上で、生徒に対する免許取得や運転への規制の全面的撤廃、免許取得者に対する県警の実技講習会「ヤングライダースクール」への参加促進、学校での交通安全教育の体系化推進、そして生徒の免許取得実態の把握等がうたわれております。このような神奈川県の動きに対して、全国高P連はもはや、異を唱えるほどの力量を失っておりました。まず、この年の8月に大会で「地域の実情に応じた運動」を付帯決議として採択し、続いて92年の大会で「学校の立地条件等の特別な理由で正しく処置されたものに対する許可」という項目を決議文に追加するといったように、全国一律でのバイク禁止を断念するわけです。その後、94年5月に福島県でバイクを運転中の高校生が生徒指導教員の取締りの車に追われて逃走中に事故死するといった事件が問題になると、ついに高P連も運動の見直しを図らざるを得なくなりました。この年の9月18日、当時の高P連会長、木本由孝氏は『毎日新聞』の紙上で、個人的見解としながらも「三ない運動」全国決議の廃止を容認しました。その影響を受けて97年8月の大会では、「三ない運動」は全国決議文から宣言文に格下げされ、文中では地域の実情による高校への「運転者教育」受け入れが掲げられるなど、ついに実質上その役割を終えたわけです。

 これにより、高校への「運転者教育」導入の条件はほぼ整い、政府では1998年9月22日、国家公安委員会により「交通安全教育指針」が告示されます。内容は、いわゆる「国民皆免許」のもとでの幼児から高齢者に至る、運転適性の向上を中心とした交通安全指導の強化ですが、高校生の場合、「二輪車の運転者及び自転車の利用者として安全に道路を通行するために必要な技能及び知識を習得させるとともに、交通社会の一員として責任を持って行動することができるよう健全な社会人を育成することを目的とする」ことが目的とされ、内容もこれまでより具体的かつ細分化されたものとなっております。

 そして本年4月、文部省の「二輪車研究指定校」制度は総務庁との共同事業となり、新たに「四輪」もその範囲に加えられ、各都道府県に1校ずつだった指定校も、名称が「モデル校」と変えられて複数以上の高校に拡大されました。

交通教育をめぐる学説

 では、そこまでして「クルマの運転のため」に発達してきた学校の交通教育は、どのような推移で今日に至ったのでしょうか。このような施策を支えてきた学説について、ここでみてみたいと思います。

 高校への「運転者教育」導入を推進してきた勢力として、大きく三つがあげられます。

 一つは、交通心理学や交通工学、自動車工学等の研究者によるものです。この動きの特徴は、幼児期から生涯にわたり、すべての国民に対して、安全運転に必要な能力、例えば、危険回避に必要な反射神経の訓練とか、自動車の運動特性の理解など、危険感受性の育成や、運転者に求められるマナーなど他者に対する安全意識の涵養、そして道路交通法などを体系的かつ継続的に習得させることによって、クルマ社会に順応できる「よき交通社会人」を育てようというものであり、1980年に交通心理学者の長山泰久氏が論文「交通教育の体系化」を発表して以来、行政の交通安全施策に強い影響力を与えてきております。このような教育プログラムのもとで、幼児や児童、高齢者など、従来「交通弱者」とみなされてきた人々は、単に自動車事故の被害者としての「歩行者」にとどまらず、幼児や児童には「未来のドライバー」として、高齢者には可能な限りの運転の継続を目的として、「ドライバーのための」教育が進められていくのです。つまり、モータリゼーションへの際限なき依存を前提として、交通安全教育の目的と内容が現在、再編されつつあるのです。

 第二は、教育法研究者や日本弁護士連合会など、司法の側による動きです。これは、現在の道路交通法で認められた免許取得を高校が禁止し、生徒の課外生活にまで校則が立ち入る管理教育は「子どもの権利」に対する侵害であり、学校でバイクや車の安全な乗り方を教えるのがむしろ教育的である、という考え方です。この考え方はあくまでも司法の立場なので、例えば満16歳から二輪免許が取得できる現在の免許制度が妥当かどうかなどという議論は当然、無視されるわけです。したがって「運転者教育」のあり方については、現行法の領域内で教習所ができる部分と学校ができる部分を最大限に引き出そう、という発想が司法関係者の主流となっております。

 第三は、モータリゼーションを推進する側の交通経済学者によるものです。高校への「運転者教育」の導入をもともと提唱してきたのは、先に今野源八郎氏のところで指摘してきたようにこの領域の人々であり、例えば1990年代以降でも、角本良平氏の「都市を結ぶ」(交通新聞社"JREAST"1992年12月号)7頁や、澤喜司郎氏の「交通弱者対策をめぐる諸問題」(山口大学経済学会『山口経済学雑誌』第43巻5号、1995年5月)31頁などがその例としてあげられ、ここでは、クルマ社会の今日、高校生のバイクや車による通学を普及させることによって、通学需要だけのために補助金を用いて公共交通を維持するといった無駄を、できれば都市部も含めて早急に解消すべし、ということが主張されています。

 さて、ここで注目してみたいのは、なぜ「交通心理学者」や「教育学者」に負けず劣らず、モータリゼーション推進側の「交通経済学者」がとりわけ、このような「教育」を熱心に支援してきたか、つまりそこまでしてモータリゼーションの絶対化に邁進してきたのかであります。私なりに考えた結果、「自動車産業が下請工業を中心とする各種製造業の雇用を創出し、市場経済を活性化させた結果、国民生活が豊かになった」という"通説"のほかに、次の結論が導かれると思います。

 だれもが免許を取得し、車両を所有することによって、

  1. 人々は公共交通の有無に関係なく、比較的自由に居住場所を選択できる。
  2. 企業は自動車が走れる道路の沿線であれば、どこにでも事業所を立地できる。
  3. 「みんなが」クルマを使える前提に立って、公共施設の立地も無秩序に拡散する。
  4. その結果、公共交通が盛んだった時代よりも、取引可能な土地の面積が広がる。

 以上の要素が相乗効果をもたらすことによって、

  1. 雇用される側にとって、選択できる職種・就業先・就業時間の幅が広がる。
  2. 雇用する側にとって、労働者の居住地域・就業時間が比較的自由に選択できる。
  3. 企業が生産する商品の原材料の仕入先が、比較的自由に選択できる。
  4. 企業が生産した商品の販売先(配送先)も、比較的自由に選択できる。

 つまり、「一人残らず」クルマ社会に参加できるということは、生産要素(原料、設備、労働力)の"切り貼り"がそれだけ容易になるということなのです。なるほど、経済学でいう「資源の有効配分」とは、たとえそれが近代経済学であれマルクス経済学であれ、労働需要と商品需要、そして以上に伴って生じる交通需要と、各々の供給側との一致が円滑になされることであり、そこでは「売れ残り」や「品不足」が同時にない社会がすべて望ましい、すなわち「需給均衡最優先主義」ということになるわけです。ここで近代経済学かマルクス経済学かの違いは、単に生産手段が私有か共有ないしは公有かの違いにすぎず、そうした視点から考えれば、わが国の"交通安全施策"で度々キーワードとされる「交通の円滑化」は、「経済活動の円滑化」と解釈できることになるのです。

 従って、いくら公共交通がクルマにくらべて「資源を浪費しない」といっても、経済学の概念に照らし合わせれば、輸送サービスの「売れ残り」が生じやすい公共交通、とりわけ営業範囲が軌道に制約されるために集客力に限度がある鉄道は、今日のスプロール化された生活空間を"与件"とした場合、「資源の無駄使い」と解釈され、その縮小・廃止が各地で推進されることになるわけです。このような状況のもとではやはり、自分の移動手段をできる限り自分自身で確保するのが望ましく、当然、そうした方法に合わせた教育が求められるようになるのしょう。

 例えば、大学教育では現在、政府が「交通安全論」の類の講座を普及させる事業を推進していますが、この事業は将来的に、幼・保・小・中・高の教育現場における「運転者教育」プログラムの体系化のために、これらの教育現場で「交通安全教育」や「自動車教習」等を専門に指導できる教員の育成を目指すものであり、モデル校の大学では主として、交通心理学者や交通経済学者が中心となって講座の運営がなされているところが多いです。

 そのような教育デザインのもと、高校ではどのようにして教えられるのでしょうか。今あげさせていただいた状況を如実に反映している高校向け交通教育の副読本として、西山啓氏が書かれた『交通安全』(一橋出版、1994年)の一節を紹介しましょう。

【「もしもこの世から、くるまがなくなったとしたら」から(本文第6~7頁)】

 「①くるまの便利さと楽しさ
では、くるまの数を減らすことは可能であるか、となると、言うのはやさしいが、実際にはきわめてむずかしい問題が山積みされている。その最も大きな理由は、くるまのもつ、door to door(家の戸口から戸口へ)という便利さにある。くるま以外にも、列車・電車・船・飛行機等々、私たちの身の回りには、人や物資を運ぶ交通機関がある。そして、くるま以上に高速のものもあれば、くるま以上に運搬能力のすぐれたものもある。

 それにもかかわらず、くるま、特にマイカーと呼ばれる自家用車が増えるのは、door to doorの便利さと、いつでも思いついたとき、どこへでも出かけられるという気やすさがあるからである。同じ自動車でも、バスなどの公共交通機関となると、自分の都合勝手ばかりを言ってはいられず、発車時刻などに制約されるから、つい敬遠するようになる。
 一度この便利さの味を知ると、なかなかそれをやめることができないのが、人情ではあるまいか。

 くるまという機械は、それを操作する者の意志どおりに動く。ハンドルを右に切れば右に方向をかえ、左に切れば左に曲がってくれる。アクセルをふめば、それに応じてスピードが上がり、決して怠けたり、言うことをきかなかったりはしない。何事もままにならない今の世のなかで、自分の命令に忠実な僕(しもべ)として、運転する者に仕えてくれる。だから、くるまは、他のどんな機械よりも、操作する人が、操作すること自体に満足と充実感を覚えるものであると言える。

 ドライビング(四輪車の運転)やライディング(二輪車の運転)それ自体が趣味の一つとなっているのもそのためであろう。
 このように考えると、くるまはすでに、私たちにとっては家具や日曜道具のような必需品であるばかりでなく、私たちの精神衛生さえもコントロールしてくれる「心の友」と言っても差し支えないのではあるまいか。気晴らしにドライブに出かけたり、気持ちが落ち込んだとき、ムシャクシャしたとき、二輪車を駆って山野を走ると気分がスカーッとする……といった話も、決して根拠のないことではない」

【「おわりに」(本文第80頁)から】

 「高校生諸君は、ほどなく運転免許証を手にして、くるま社会の一員となる日がくる。免許証を手にするということは、見方によれば、交通戦争の召集令状を手にすることとも言えるかも知れない」

 なるほど、この本では「交通戦争の召集令状」という言葉が使われています。これから「交通戦争の徴兵制をやるぞ」という雰囲気が、この本から伝わってきませんでしょうか。それだけ、クルマの運転のための交通教育は、モータリゼーションの低年齢化によるさらなる拡張と結びついていると、考えざるを得ません。

 こうした動きに対して、モータリゼーションを批判する側の人たちからは、総論のなかで問題意識が提起された著作もありますが、交通教育のあり方について詳細に批評したものは、最初にあげさせていただいた『地球はそもそも歩行者天国』以来、わが国では残念ながら、特に目立ったものがみられません。その原因はいくつか考えられますが、私はおおよそ次の通りになるものと思われます。一つは、モータリゼーションを批判する側の交通教育に対する関心が、青少年のクルマ社会へのアクセス云々よりも、「ドライバーへの教育」vs「歩行者への教育」といった二項対立的な視点に高く置かれており、そのために「ドライバーへの教育」を優先する立場から高校での「運転者教育」を肯定的にみてしまって鵜呑みにされる方が少なくないこと、二つは、交通教育の動向に影響を与える研究分野である交通心理学や教育学の分野に、モータリゼーションを疑問視する研究者が皆無といってよいほどいないことではないでしょうか。なるほど、これでは高校の「運転者教育」に反対する勢力は今や、マスコミにもほとんど紹介されるはずがありません。

 「少年の暴走行為への理解」とやらのために地方の公共の足が本当になくなってもよいのか、という問題を考えた場合、モータリゼーション批判派の奮起は、もっと望まれてしかるべきでしょう。

本当の問題点は何か

 このようにして、高校への運転者教育のあり方が「三ない運動」と結びつけられてしまいましたが、では「三ない運動」に代わるべきは本当に運転者教育の導入なのか、ここでじっくり考えてみたいと思います。

 まず、「多くの若者はクルマに夢中になるから、これらの人々のクルマに対する興味や関心を封じてはならない」という説についてです。確かに、現在「クルマに夢中になる若者」が大多数であるのは事実です。そのため、若者のクルマに対する興味や関心を一時的に封じても、かえって反発が強くなるだけで事故防止に何の効果もない、という考え方には一見、説得力があるでしょう。しかし、この発想は、若者の交通行動の分析には確かに必要であっても、これが一般論にすりかえられた場合、先に述べたように結局は、クルマの運転を習得させるために早期から便宜を図れという論理に安易につながり、逆にクルマを交通手段として選択しない層にとっては、不利な条件が押しつけられるのではないでしょうか。

 それから、先の「交通教育をめぐる学説」のところで、高校での「運転者教育」を支持する司法関係者の動きについて触れましたが、彼らが依拠するところの「現在の道路交通法」が定めた原付や自動二輪の免許年齢など、免許の取得条件に、本当に問題はないのでしょうか。原付の場合は路上検定がなくペーパーテストだけで合格ができ、技能指導は試験場で合格後に形だけの実施であり、自動二輪の場合には技能検定はあるものの、路上ではなされないといった状況は、1960年の現行道路交通法が制定されて以来、全く変わっていません。そのような状況のなかで、今日の原付では、1960年当時の125cc~250ccの「中型自動二輪」に相当する7.5馬力の車種が販売されているにもかかわらず、満16歳以上という免許年齢はそのままなのです。先の『地球はそもそも歩行者天国』では、この点を問題にして、免許年齢の引き上げを主張していましたが、このような問題提起は現在、ほとんど忘れ去られようとしているのです。1980年代に西欧諸国で始まった二輪免許年齢の見直しは、90年代に入って韓国や台湾など、アジア各国にも波及していきますが、わが国はただひとり、この種の議論が盛んになされたことがありません。真に交通死をなくすためには路上における安全水準がどの程度要求されるのか、という立法論を十分に取り入れた制度設計も、これから検討されるべきではないでしょうか。しかしながら、これは後で述べますが、わが国には自動車の運転免許制度のあり方について、批判的に研究されている方がほとんどおらず、こうした検討のためには、かなり長いスパンで人材を育成しなければならないという重い負担が、残念ですがどうしても避けられません。

 それでも「安全意識の高度かつ広範な普及」が本当に必要ならば、この後で論じるように「交通利用者」である各人の興味・適性に最大限に配慮して、それぞれの実情に合った教育機関・手段を用意するのが妥当ではないでしょうか。

「かながわ新運動」は本当に成功したか

 さて、高校での「運転者教育」を目指す運動として全国的に注目されております「かながわ新運動」ですが、本当に成功したのでしょうか。ここでは、別紙として皆様に配布させていただきました「神奈川県『四プラス一ない運動』と『かながわ新運動』での交通統計比較」をご覧いただきたいと思います。

(【別紙】について…「別紙」すなわち統計比較についての表・グラフは、当方がPCを導入する以前の別のワープロでつくったため、既に印刷済みのものをコピーして当日に配布しました。そのため、当文書には表・グラフが入っておりませんので、どうかご了承願います。「別紙」をお持ちでない方でご入用の場合、当方にお問い合わせいただければ、これをお送りしますので、よろしくお願い申し上げます)

 「新運動」以後、高校年齢層の免許取得率は減少傾向にありますが、減少の原因がたとえ何であるにしても、教育を重点的に受ける対象であるはずの免許取得者人口あたりの事故率が上昇傾向にある点で、この運動はどう見ても、成功したとはいえないと思いますが、皆様いかがお感じでしょうか。

 こうしたことから考えて、高校への「運転者教育」については、ひたすらその導入を目指すのではなく、教育が学校の内外にもたらす効果を慎重に検討し、そのためにはもっとこれに批判的な勢力による関心の拡大を通じて、施策へのチェック機能を強化することもますます、必要ではないでしょうか。

Ⅲ.今後の展望――皆様にお願いしたいこと

崩壊しつつある「交通弱者」像にどのように対処するか

 クルマ社会を批判するにあたってよく使われる言葉が「交通弱者の存在」であります。そもそも、「交通弱者」の定義って何でしょうか。実は、わが国ではそれぞれの交通論者によって、「交通弱者」の意味する範囲が異なるのです。狭義の「弱者」とは、道路交通において「強者」である「ドライバー」や「ライダー」に対する「歩行者」や「自転車利用者」の意味であり、特にクルマをよけるための反射神経や体力が比較的弱く、歩行速度の遅い幼児・児童・高齢者・身体障害者などがよくあげられます。そして広義の「弱者」としては、自動車を自ら購入・運転できないために公共交通を利用せざるを得ない人々が、よくあげられております。ご参考までに、わが国においてモータリゼーション批判の元祖の一人といわれております、亡くなられた湯川利和さんは、1974年に勁草書房から刊行された著書『現代の生活空間論(下巻)』のなかの「交通貧困階層問題と都市計画」という部分で、「交通貧困階層」という定義を使って、次のように説明なさっておりました。その定義は、「付添いなしの独自の移動において輸送サービスを必要とする年齢に達しているが“自動車を運転できないか、自動車をいちばんに使えず、しかも適切な公共輸送サービスを条件にかなった費用で利用できないために移動を制限されている”」人々とされておりまして、どちらかといえば広義の意味で交通弱者問題が捉えられているわけであります。しかしながら、モータリゼーションのはるかに進んだ今日、狭義の意味であれ広義の意味であれ、「交通弱者」とみなされてきた人々の存在そのものが、大きな変革の波を受けつつあります。例えば、中古車屋の店先をご覧になればわかると思いますが、今や車検期限直前の軽トラックということであれば、北海道では相場がどのようになっているか知りませんが、私の見た範囲、少なくとも本州では10万円以内で簡単に手に入るかと思います。つまり、この値段でクルマが手に入るようであれば、使い方によっては短いサイクルの買い替えでも、バスの定期代より安上がりになるわけです。特に過疎地やいわゆる「地方都市」などで、一日に2~3往復しか来ないバスに5万~6万円の定期代を払うのにくらべれば、思い立ったらいつでも使える軽トラックに8万円ほどのお金を出して燃料や保険料等、諸経費をつけてもどちらが得か。勝負がもう決まったようなものです。

 そのような状況だからこそ、若い頃に運転免許を取得した人々が高齢者になっても、ハンドルを手放したくないのでしょう。狭義の意味で「交通弱者」のことを考えた場合に歩行環境が危険だから歩きにくいのであれば、あるいは広義の意味で考えた場合に公共交通へのアクセスが遠いのであれば、多少の無理をしてもクルマを所有しつづけたほうがよいと、高齢者自身が考えるようになってきているのです。例えば、高齢者の運転免許保有率の推移を見てみますと、総務庁『交通安全白書』の統計では、60~64歳の場合、88年は男性が70.4%で女性が11.4%、97年は男性が82.3%で女性が28.9%であり、65~69歳の場合、88年は男性が58.8%で女性が4.0%、97年は男性が76.0%で女性が17.2%と、高齢者女性の免許保有率の上昇が目立ちます。70歳以上の場合は、88年では「70歳以上」という区分だったのが97年では「70~74歳」と「75歳以上」の2つに分けて集計されているため、今回は残念ながら正確な数値を用いて比較できなかったのですが、参考までに区分が同じ94年と97年を比較してみますと、70~74歳の場合、94年は男性が56.4%で女性が3.4%、97年は男性が66.8%で女性が7.7%となっており、75歳以上の場合、94年は男性が25.7%で女性が0.4%、97年は男性が34.8%で女性が1.0%といった具合です。さすがにこの年齢層では、全般的に60歳台にくらべて免許保有率は下がり、現状ではまだ極めて少ないとはいえ、わずか3年間で女性の伸びが著しいことに注目すべきかと思います。若い頃に免許を取得した人がそのまま高齢者になるわけですから、年を経るごとに高齢運転者の比率がふえるのは当然のことでしょう。そのために、ひところは運転能力の低下した高齢者に対して免許証を返納するよう奨励する施策が有力だったこともありますが、現在は高齢者が可能な限り運転を続けられるようにすることを前提とした手法が支配的となりつつあります。例えば、1986年度からの第四次交通安全基本計画で「高齢者でも安全・快適に運転できる車両の研究開発」が打ち出されて以来、高齢者が運転中に見やすい道路標識の改良や、高齢運転者に対する実車を用いた参加・体験・実践型講習の推進など、高齢運転者の増加に何ら疑問を持たない傾向が、行政の側では強まってきています。

 さらに、身体障害者の移動についても、1981年度からの第三次交通安全基本計画で「身体障害者に配慮した運転免許試験場の整備」が打ち出されて以来、身障者に対する運転適正相談活動の推進、身障者向け車両の開発奨励など、障害者自身がハンドルを握ることを前提とした施策が目立ってきています。総理府『障害者白書』によりますと、1997年の統計では身障者で運転免許をお持ちの方は217,670人と数えられており、その数は今後さらに増大する見通しであるとのことです。もちろん、歩行に著しく負担のかかる身障者の方々の場合、最寄りの停留所や駅へのアクセスが困難な地点の間の移動では、やはりクルマの方が有利であり、むしろ今後もクルマが活用されるべき分野は、そうした方々の輸送にこそあると思われますが、逆にそのために公共交通におけるバリア・フリーが必要ないというのでは、これも問題ではないでしょうか。

 以上のように、比較的安い費用でだれもがクルマ社会に参加できる状況にあっては、そんなに歩行が危険なら、幼児・児童の送り迎えは親御さんのマイカーで、中学生の通学については自転車で賄える地域が多いとしても、高校生の通学にはバイクか、18歳はクルマで、そして身体障害者の移動には送迎か身障者用運転装置つきの車両で間に合わせればいいじゃないか、ということになるのでしょう。もちろん、それでも道路交通では狭義の「弱者」をいたわり、その安全を守る心こそ大切にしなければなりませんが、下手に「弱者」を強調すれば、「強者」になることのほうが簡単だとしてあしらわれるのがむしろ現実なのです。そうであれば、我々は次のような議論もできるのです。「交通弱者」を解消し、クルマを乗りこなせる人々をふやすことが、本当にあらゆる交通問題の解決になるのでしょうか。できるだけ多くの人々がクルマを運転できる社会が、本当に豊かな交通社会なのでしょうか。今の交通市場のあり方を放置すれば、やがて中古車市場が供給過多になり、ひょっとしたら自転車、それもママチャリ並みの値段でクルマを購入できる日が来ないとも限らないでしょう。おそらく既に個人どうしの売買ではそうなっているところもあると思いますが。

 「弱者」を声高に叫べば自分の首を絞めかねない今日、では我々はどのように、社会に対して問いかければよいのでしょうか。それは、自ら能動的に、ポジティブな意味で、人命・健康優先の市場ニーズへの変革を、最初はせめて問題意識を抱いた人たちからだけでもよいから、社会に訴え続けることが必要ではないでしょうか。つまり自ら「人命・環境優先」の交通社会を欲するニーズの確立に向けて、交通におけるグリーン・コンシューマリズムを発信する努力が求められると思います。

高校での「運転者教育」導入に教育現場はどう対応すべきか

 今後の動きですが、総務庁や文部省の進めている「モデル事業」が定着し、やがて正課授業に格上げされて全国に普及するであろうことを考えた場合、いや、現在でさえ、クルマの嫌いな生徒さんやモータリゼーションに疑問を持つ生徒さんが「運転のための授業」をボイコットしたいときに、教育現場ではどう対応すればよいのかを十分、考慮したほうがよいのではないでしょうか。このような事態で停学とか退学になった場合、それはかつての「三ない運動」において一部の高校が免許を取得した生徒に施した処遇と、ちょうど裏返しになるのですが、いま一つ考えてみる価値はあると思います。ただ、「モデル事業」による授業をボイコットすることは、交通戦争の徴兵制における「良心的兵役拒否」であると思いますので、同じ授業時間に奉仕活動や環境教育など、別のプログラムを選択できるようにするなどの配慮は、必要ではないでしょうか。百歩譲っても、民主主義を標榜する国において、みんながまったく同じ交通手段の選択をし、同じ交通行動をとるなどという発想は、おかしくありませんでしょうか。

 それでも将来的に「クルマの運転のための交通教育」の正課授業化がどうしても避けられないようであれば、他の交通機関の利用方法も習得することに便宜を図らなければ、不公平ではないでしょうか。例えば、最近は首都圏でさえ、大学を卒業したてのサラリーマンが初出張の際、時刻表の読み方や運賃計算のしかたはおろか、新幹線のチケットの買い方すら知らないことは、ちっとも珍しくないのです。なるほど、そのような人は、生まれてから物心のついたときにはレジャーなどの場合に家族ぐるみで自家用車を利用、小・中学校は徒歩通学、高校になってやっと親から定期券を買ってもらい電車通学、もちろん修学旅行のときは自分でチケットを買う必要はなし、やがて18歳の誕生日を迎えて運転免許を取ったらもちろんクルマしか乗らない。これでは時刻表の読み方も指定券の買い方もわかるはずがありません。このような状態を放置して、何が「交通教育」なのでしょうか。

 現実に交通手段にはいろいろな種類や利用方法があり、これは本来、各個人の価値判断に委ねられる分野なのです。私は、個人の価値判断や好みに委ねられるような分野に対しては、学校教育は介入すべきでないと思っています。ですから、政府が進めようとしている「クルマの運転」にしても、学校でやるべきは通常の理科や社会科などにおいて、生命の尊厳や環境への負荷など、利用したい人にもしたくない人にも共通の知識である部分のみに限定し、運転に特化した部分は既存の専門家に任せるよう、見直されるべきではないでしょうか。今までの教習所教育が不完全であったから、学校教育に自動車教習の下地をやらせるとは、責任転嫁も甚だしいと思います。それでもクルマの運転は本来簡単なものではないから、時間をかけて訓練を積み重ねるべきだとおっしゃるならば、その訓練を本来は専門家として安全運転の習熟に責任をもってきたはずの教習所により多く負わせるよう、なぜ議論をしないのでしょうか。それを考えれば、なぜそこまでして学校教育に「クルマの運転」のための指導を持ち込みたいのかについて、その本音は皆さんにも読み取っていただけるものと思います。

 では、今後どうすればよいのか。まず、たとえ「運転者教育」を実施している高校にあっても、交通に関する人々のライフ・スタイルには、いろいろなものがあることを生徒さんに教える必要があるのではないでしょうか。例えば、どうしてもクルマが必要な職業の場合はともかく、クルマが本当に必要かどうかさえ怪しい地域・場合で「この年で免許も持ってないの」なんて言葉は、明らかに不当な差別ではないでしょうか。「お茶くみ」という言葉・習慣が「セクシャル・ハラスメント」で問題になり、死語と化している現況になぞらえれば、このような会話は「トランスポーテーション・ハラスメント」といえるのではないでしょうか。免許を取らなかったからといって、クルマを持たなかったからといって、その人を蔑むようなことをしてはならないのを、教育現場でもはっきり教える必要があると思います。「人に危険に陥れるのがイヤ」「環境に負荷を与えない生活を追求したい」「鉄道やバスのほうが好きなのに、いつ廃止になるかわからずとても不安」あるいは「交通手段云々よりも、移動そのものに生活時間が費やされるのが疑問」等々、何でも良いのです。異なる価値観を持った人を差別してはいけない。これは、交通にも当てはまると思います。むしろこれからは、地球環境問題を考える立場から、環境教育の時間でモータリゼーションが人命や環境にもたらす害についても、積極的に取り扱う必要があると思います。また、社会科では、クルマの普及によって今、公共交通がどの程度、瀕死状態に置かれているのかについて、生徒さんにも考えていただく時間を確保する必要もあるのではないでしょうか。今や、鉄道やバスの需給調整規制の撤廃が進んでおり、私たちの交通社会をめぐる動きは急速に変化してきております。「交通教育」を進めるのであれば、私たちの利用する各種の交通手段・交通施設・交通サービス等がどのような状況に置かれているか、今後置かれようとしているかについても、考えることが必要であると思います。そこから、真に安全な交通を維持するためには何が必要か、おのずから導き出されるのではないでしょうか。

「歩行者への教育」か「ドライバーへの教育」か

 これは、クルマ社会に批判的な考えをお持ちの方に、私のほうから何度か申し上げてきた呼び掛けですが、よくいわれる「ドライバーへの教育」vs「歩行者への教育」論だけでは、もう遅いのです。単に「ドライバーへの教育」を口にすれば、これはモータリゼーション推進論者の手で、一台でも多くのクルマを売るために、一人でも多くのドライバーをふやすために、一日も早く、一日でも多く、運転免許を取らせるための教育を、学校現場に持ち込む論法に利用されるのが落ちです。今、真に必要な議論は、「ドライバーをどう教育するか」であり、その教育をいつから、どのような人々に向けてすべきかまで十分に見通し、特に問題意識を抱いた研究者には、代案を提示できる能力を身につけることが、これから求められるのではないでしょうか。

 加えて、「歩車分離」を強く主張した程度であっても、クルマ社会への画一化から逃れる自由は今や、目を覆いがたいほど取り戻せなくなりつつあるのです。「歩車分離」をすることによって、クルマの走りやすい道路がそれだけ多くなり、逆にモータリゼーションを拡大する側にとっては、格好の「免罪符」がふえるからです。

 「ドライバーへの教育」も「歩車分離」も必要です。しかし、これらは交通殺人を減らすための"手段"にすぎず、これを目標や目的にしてしまうと、かえってモータリゼーション拡大論がより正当化されるだけです。今、我々が脅かされようとしているのは、「ドライバーよりも歩行者の命を重視せよ」という論理以前に、このような問題意識をもつのにとても不可欠な、「モータリゼーションに参加しない自由(免許を取得しない自由、車両を所有・運転しない自由)」ではないでしょうか。このような基本的な自由すら奪われて、歩行者の権利を守る言論(もはや「議論」以前の次元さえ、脅かされつつある)など、どうして成り立つでしょうか。

 以上から、クルマ社会の根源的問題を真に理解するためには、ミクロ面でのクルマのもたらすリスク(例えば、クルマが人の命を瞬時にして奪う道具であるという点など)のみならず、マクロ面でのリスク(クルマ社会への依存が人間の経済観やライフスタイルを画一化し、これに異を唱える者を排除・差別・蹂躙する点)にも言及することが必要であると、私は感じております。ミクロ・マクロ双方の問題意識を総合すれば、「だれもが、どこにでも住み、どのような職種にも就業でき、あるいはどこにでも営業場所を構えることができる社会を守るために、人間の生命や健康、そしてライフ・スタイルの自由まで犠牲にしてしまう社会が本当によいのか」という見方もできるでしょう。

今後、どのような研究分野が発達すべきか

 さて、交通教育の効果を検証するために今後、具体的にどのような分野の研究が活躍すればよいのかについて、申し上げたいと思います。現在、交通教育の理論的根拠となっている学問は、交通心理学ですが、先に繰り返し述べさせていただきましたように、この分野は、安全運転のためのマナーや技能の向上の必要性を口実に、モータリゼーション低年齢化によるクルマ依存社会の拡大の方向へ、構造的に利用されやすい特質をもっているため、他の研究分野による交通教育への批判的アプローチも必要かと思われます。

 例えば欧米では、疫学という分野による交通統計の分析が、1970年代後半から盛んになりつつあります。その前に、皆さんは「疫学」という言葉をご存知でしょうか。「疫学」という言葉の意味は、「人間集団の健康と疾病にかかわる諸々の要因、諸々の条件の相互関係を、頻度と分布によって明らかにする医学の一方法論である」(青山英康編『今日の疫学』医学書院、1996年11月)とされておりまして、public health すなわちわが国では「公衆衛生学」と訳されている研究領域で、最も代表的な分析手法であります。

 疫学分析を用いて交通教育のもたらす効果を検証した有名な研究例として、米国のロバートソンやゼーダーによる、高校での「運転者教育」についての統計分析があげられます。このうち、1980年に「アメリカン・ジャーナル・オブ・パブリック・ヘルス」でロバートソン博士が発表した論文では、次の報告がなされておりますので、概要文をそのまま申し上げます。

 「1976年、コネチカット州は高校の『運転者教育』のための州予算を削除した。そして、9つの高校がカリキュラムからこの授業を廃止した。この調査研究は、地方予算を用いて『運転者教育』の課程を存続させたコミュニティの高校に比較して、同規模のコミュニティでこの課程を廃止した高校における、16~17歳ドライバーの全体としての免許取得状況について、こうした施策の効果を検証したものである。この課程を廃止したコミュニティでは、免許を取得しようとする16~17歳の生徒数に、かなりの減少がみられた。その結果、このコミュニティにおける16~17歳住民が関わる車両衝突件数も、大幅に減少した。高校の『運転者教育』がより早期の免許取得を大いに促し、16~17歳人口における車両衝突の推移がこれに追随しているという、以前に報告した調査の結果は、この次なる証拠によって裏づけられる」

 概要は以上ですが、この論文は、州予算削除の前後において、高校の「運転者教育」を廃止したコミュニティと存続したコミュニティの間で、高校で自動車の教習を受けた人、民間の自動車学校で教習を受けた人、そして家庭で教習を受けた人の車両衝突発生率が比較されたものであり、この研究から、高校の「運転者教育」が10代の若者における事故発生率上昇への関与度を高くした、という問題が報告されました。つまり、この研究において、自動車の運転はいったい、どのような実施主体によって、何歳から、どの程度の期間でなされるべきかが、問われたわけです。

 しかし、わが国の疫学では、public healthという言葉が「公衆衛生学」と訳されているせいか、本来は狭義の衛生学を指す欧米のhygieneとくらべて、両者の研究対象にあまり違いがみられないため、交通統計の分析と、交通外傷防止のための諸施策への評価は、あまり盛んでありません。それどころか、当の「疫学」の分野にさえ、交通事故問題を扱う必要はないと主張される研究者も、残念ながらいまだに大多数であるのが現状です。ですから、ここにお越しになっている高校の先生方に、お願いしたいのですが、これから大学に進もうとされる生徒さんで、福祉・介護・公衆衛生学・法医学などいわゆる「社会医学系」の分野に進みたい方に、この系統の学問でわが国ではほとんど手が染められていない分野があり、それは疫学統計を用いた交通安全施策の分析・評価であるということを、伝えていただければ非常によろしいかと存じます。「疫学」だけでありません。交通事故問題について、クルマ依存社会を問い直す側の研究者の数は、非常に足りません。交通経済学、交通地理学、交通心理学、交通工学、土木工学、都市工学など、交通に関する学術分野はわが国にもいろいろありますが、その領域に携わっている研究者たちは、その多くが現状のクルマ依存社会を所与とした議論のもと、修正されたクルマ社会を追求することで精一杯なのが実情です。

 先に申し上げたロバートソンは、エール大学公衆衛生学教室の教授です。そうしたことを考えれば、世界最大のクルマ社会である米国でさえ、モータリゼーションを批判する研究が大手の研究機関で堂々と自由にでき、なかには行政の施策に影響力を発揮する研究さえ発表可能であることが、彼の報告からうかがえます。むしろ、米国よりもクルマ依存がまだ進んでないはずの日本で、なぜそのような視点を持つ研究者が出てこないのでしょうか。例えば、わが国には自動車の運転免許制度のあり方について、批判的に研究されている方がほとんどいないことを先に述べましたが、本年4月現在の情報で、文部省国立情報学研究所の研究者・研究分野データベースであるNACSISを使って「免許制度」というキーワードを検索すると、出てくるのは「教員免許」「船舶免許」「放送事業免許」ばかりで、「運転免許」に関するものは皆無でした。キーワードを「免許」とした場合でさえ、「運転免許」に関する研究は、現行の免許制度の是非を問うものでなく、司法の立場から現行法の立場を肯定した上で法解釈を論ずる研究しか出てきませんでした。免許とクルマに関する議論が、このままワン・サイド・ゲームでよいのでしょうか。この問題に関心をお持ちになった生徒さんがもしいらっしゃれば、大学、さらに大学院に進まれて、自ら新しい研究分野を開拓するくらいの気概がほしいものです。

 それから、諸外国の交通安全施策と交通・運輸政策との相互関係について、より多くの研究者の手で解明されることも必要ではないでしょうか。例えば、ドイツの場合、交通政策では、ミュンヘンやフライブルクといった都市でLRT(新型路面電車)の活性化が華々しく伝えられる一方、交通安全施策になると、中学生に原付等二輪車の技能訓練が正課授業のなかで義務づけられる地域も少なくありません。これは、EMS計画といって、日本では「国民の自動車交通への参加計画」と訳されていますが、この施策は、ドイツ交通安全評議会(Deutscher Verkehrssicherheitsrat)が主催しているものです(蓮花一己「子どものための学校交通教育」、『国際交通安全学会誌』第22巻3号、1997年1月、31頁)。素人目にみると、一方で「公共交通の活性化」に尽力しながら、他方で「モータリゼーションの低年齢化」に勤しむような政策は、どう考えても矛盾しているように感じられます。もちろん、クルマの運転の技術が身についたからといって、全ての人が公共交通を利用しない、などということはないでしょう。しかし、クルマの所有・使用に関する便宜を多大に受けた人々が、いくら寛大な性格の持ち主であっても、自分の利用しない公共交通のために積極的に、例えば税金という形で出費できるでしょうか。このような教育を受けた人々が大人になって、社会の中枢を担うようになったときに、どのような交通政策を指向するのでしょうか。これこそ、研究する価値は大でしょう。

 市民運動が専門家でない一般の人々にとって手軽に取り組めることは、確かに重要です。しかし、我々の身にふりかかる政策側の本音を見抜くために、そして運動の展開にとって障害となる諸要素を除去するために、最初のうちは、せめて行政マンや教育者、関連学生(例えば交通心理学・交通経済学・交通工学・土木工学・都市工学などの受講生やゼミ生)の頭のほんの片隅に我々の考え方を置いていただく程度の影響力でもよいと思いますから、我々の側の活動にとって知識面で十分なバック・アップのできる専門家の育成とメディア・ルートの開発は、やはり急務ではないでしょうか。

Ⅳ.真の「交通の自由」のために

 最後に、先の「交通貧困階層」のところで取り上げました、湯川利和氏の1968年の代表作『マイカー亡国論』から、一節を紹介させていただきます(本文第77~78頁)。

【3 マイカー保有の強制】

 「ところでこのような公害を比較的伴わない低密度地域ではマイカー普及の課程で、すでにバスなどが漸次サービスを低下してゆくということが起こる。

 マイカー保有率が40%に達すれば、少なくとも40%だけ発車間隔などのサービスは低下する。

 なおもマイカーを保有していない人たちは、このサービス低下によって、たとえマイカーを保有することが家計にムリだとは知りつつも、あるいは運転するよりもぼんやりとリラックスしながら移動したいものだと思っていても、止むを得ずマイカーを買入れ、マイカー族の仲間入りをしたいと思うものがでてくる。

 かくて彼もマイカーを保有し、その分だけマイカーによる公共交通機関の掠奪に手を貸す……。そうすれば残りのものも、彼の撰択にならわざるを得なくなる……あとはなだれのごとく、マイカー保有家庭は増大してゆく。それは、初期には矛盾が少なく公共交通機関とくらべて良い乗り物だと思われたがために、保有されたかもしれない。それは真に自由な選択であったかもしれない。

 しかし、この『必需品化』課程でのマイカーの選択は、『真に自由な個人の意志』にゆだねられたものではなくなってくる。それは、他者の『自由』な選択の結果に強制されたものとなってくるのだ」

 この一節から、他者の自由を奪う性質の「自由」が本当に野放しにされてよいのか、私たちは考える必要があるのではないでしょうか。自由の尊さを、失ってからはじめてわかるようでは、もうおしまいです。「隗より始めよ」です。市場ニーズを生命・健康重視の方向に変えるために、市民運動の役割として、従来の多数派と異なる考えの存在を行政に認めさせる発想が、不可欠ではないかと考えます。

 それから、これは自動車問題に関する市民運動に携わっておられる一般の方々ではなく、これを支援する研究者の方々に申し上げたい点ですが、実は、現行の交通教育を問い直す研究体制の構築を、関東圏の「クルマ社会を問い直す会」会員で研究職についておられる何人かの方にこちらから呼び掛けたところ、「クルマ依存社会に疑問を持つ側の交通教育なんて、だれかが頑張ってくれていると思った」とか「お任せします。応援しています」といった回答しか、ほとんど返ってきませんでした。しかし、これでは本当に手遅れなのです。それぞれの研究者がご自分の研究分野だけで手一杯なのはよく理解できますが、クルマ社会に依存しないという自らのアイデンティティーを本当に今後も守りたいならば、このようなお気持ちが「職業研究者」の間にさえ集積するようでは、やがて自らの首を絞めるだけではないでしょうか。日本にも、ロバートソンやゼーダーのような研究者をつくるためには、一人一人が乏しい時間や労力であっても、目的実現のために説得力のある研究発表ができる体制を一日も早くつくるよう、問題意識を抱いた研究者はともに、力をあわせるべきではないでしょうか。

 これで、私の拙い話も終わらせていただきますが、本日の結びに、一言申し上げたいと思います。

 私は東京からここに、敢えて陸路で参りました。関東からこちらに来られる大多数の方は飛行機をお使いになりますし、私自身、鉄道の旅も空の旅も好きなほうですが、昨今の「安売り航空券」の如く、環境に負荷をかける割合の高い手段が安く簡単に手に入る、今日の市場のあり方に疑問を持ち、日帰りでない今回は往復、鉄道で参りました。地球環境や生命重視が叫ばれる時代、これにかなった財やサービスの入手が安定して得られる社会が、少しでも長く続いてほしい。これを交通社会への私の願いとして、話を終わらせていただきます。ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。

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