講話記録「命とクルマ・・・遺された親からのメッセージ」
2006/11/7 札幌平岡高校3学年(350人) 前田 敏章
1 11年目の命日
10月25日は11年目の命日でした。遺影が飾られた仏間は、今年も届けられたお花で一杯になりました。しかし、私たち家族にとって、命日は実はそれほど特別な日ではありません。世間の慣わしの「何回忌」もそうです。私たちにとっては毎日が「娘の日」なのです。娘のことを「思い出しますか」と聞かれることがありますが、私は「いいえ」と答えます。この11年、1日たりとも、いや一瞬も忘れたことなどありませんから、「思い出す」ということではないのです。
花を届けていただいた娘の高校時代のお友だちには次のような手紙を送りました。「千尋が天に召されてからもう11年が過ぎましたが、今も涙する毎日です。『通り魔殺人』的被害であり、非業の死との思いは強く、悪夢のような事件と千尋の無念を思わない日はありません」
私の朝の日課は犬の散歩です。犬は長女が友人からもらい受け、「サム」と名前をつけて可愛がっていた犬ですが、事件以来朝の散歩は私、夕方は妻に代わりました。今日も行きました。気持ちの良いはずの朝ですが、この11年、すがすがしい気持ちで散歩をしたことはただの一度もありません。芽吹きの春を迎えても、草木は生命をつないでいるのに娘は何故帰って来ないのかと辛くなり、秋の高い空を見ても、娘は見られないと思うと切ないのです。
2 伝えたいこと
遺された親として、皆さんにお伝えしたいことは次の三つです。一つは、本来、便利で快適なはずのクルマが、残念ながら今の社会では大変危険な使われ方をしており、多くの犠牲を出し続けています。この異常な「クルマ社会」、私は現代における最大の人権問題、社会的課題と考えていますが、これでよいのか問い直して欲しい。視点を被害の立場に置いて考え直して欲しいと言うことです。二つ目は、当たり前のことですが、「加害行為がなければ、被害はない」わけです。皆さんが運転する立場になったときに、絶対に加害者にならないためにはどうしたらよいか。もっと進めて、加害者を生まない社会を作るにはどうしたらよいか。このことを一緒にお考えいただきたいのです。そして最後に、命について改めて考えて欲しい。他人と自分の命を本当に大切にして欲しいこと。この三つです。
私の所属する「被害者の会」は、お互いの支援や交流も行いますが、犠牲を無駄にせず、交通事故被害を生まない社会をつくりたい、そのために被害者として何が出来るかということを常に考えて活動しています。体験を語ることもその一つですが、この世で一番大切な肉親を理不尽に奪われた私たちには、もはや何をもってしても癒されることも、心の平安を感じることもありません。会員の刑事裁判を傍聴することが度々ありますが、遺族の多くは、被告席の加害者に向かって「子どもを返せ」「夫を返せ」と振り絞るように叫びます。私たちの共通の願いは、「元の体で返して欲しい」のです。しかし、それは叶わぬ願いです。であれば、せめて「命を軽く扱って欲しくない」「犠牲を無にして欲しくない」と強く願うのです。私たち遺族がいつも繰り返すのは「命の尊厳」という言葉です。
3 被害の実相
時々「あの日」の娘との最期の会話が蘇り、涙が溢れます。「お父さん、寝坊したので散歩お願い」。ぺこりと頭を下げた仕草が忘れられません。千尋は列車通学をしながらも早起きして自分の犬を散歩させていました。
11年前の10月25日、夕方5時50分、娘は駅で友だちと別れ、自宅へ歩いて帰る途中、前方不注視のワゴン車に後ろから轢かれ即死させられたのです。
連絡を受け、人違いであることを祈りながら向かった病院での対面。それは、ベッドではありません。診察台に横たわり、ほんのり暖かさは残っていましたが、目を閉じ、頭と耳から血を流し、既に天国へ旅だった亡骸との対面でした。そのときの情景は今もまぶたに焼き付いて離れません。火葬されるときに妻が半狂乱になって娘の名を叫んだ様。小さな骨壺に納められ少し暖かく、あまりに軽くなった娘を抱いて火葬場からバスに乗ったときの悲しみ。その後の、現実が受け止められない茫然自失の日々。
ワゴン車を運転していたのは、35歳の看護婦で2児の母親、ごく普通の人です。加害者はその日、お金をおろすのに手数料のかからない6時までに銀行に着きたいと急いでおり、正確な時刻を知るためにカーラジオを操作したのです。スイッチを入れ、ボリュームを回したが音がでない、それで今度はカセット取り出しボタンを操作しました。その間全く前を見ず、風雨の中赤い傘をさした長女をブレーキもかけずはねたのです。衝撃でワゴン車の前部はへこみ、フロントガラスはクモの巣状に割れました。娘は頭と首を打ち5メートルほど飛ばされて即死でした。
現場には歩道はなく、道路脇は雨でぬかるみ、歩行者は道路の左端を通らざるを得ない場所でした。娘に過失がないことは裁判でも明らかにされました。
その日以来、私たち家族の生活は一変しました。私は心から楽しいと思ったり、感動することが出来なくなりました。家族キャンプや旅行など楽しかった思い出の全ては、その日を境に辛く、悔しい、無念の過去に変わってしまいました。アルバムや八ミリ、ビデオ、家族新聞など、もはや見ることができません。子を亡くした親は、未来も過去も失うのです。仕事もしなければなりませんから外見は平静を装います。しかし、娘の無念を思う度に胸が潰れそうに痛み、絶望と恨みの中で生きることの辛さに耐えきれない、抜け殻のような自分を意識します。
毎月の命日にはお寺の納骨堂で娘と会います。家族で行ったときは泣かないのですが、一人で誰もいない納骨堂で娘と向き合ったとき、「どうして娘がこんなところに」と今も泣き崩れてしまいます。毎年5月、迎えられなかった無念の誕生日には、ケーキを買い、ろうそくを立てます。今年は28本のろうそくでした。遺された親は死ぬまで子どもの年を数え続けます。
しかし、遺された私や家族がいくら辛く苦しくても、何の過失も無いのに、その未来とすべてを暴力的に奪われた当の娘の無念さには比べようがないといつも思い直します。毎日2回、手を合わせる仏前の遺影から、「なぜ私がこんな目に遭わなくてはならなかったの」「私がその未来を、その全てを奪われたこの犠牲は、報われているの」そのように問いかけられているような気が今もするからです。
私たち遺族は、早く子どものところへ行きたいという思いに駆られることがあります。しかしそれでは娘の犠牲は無駄になってしまいます。私たちは、互いに「生きることがたたかい」と励まし合い、心の中の亡き肉親とともに、犠牲を無駄にしないための活動、交通犯罪のない社会をつくるための活動をやり抜いて、天国でしっかり報告したい、そのように考えています。
4 交通犯罪
今私は何度か交通犯罪という言葉を使いましたが、皆さんは、犯罪というとどのような事件を連想されるでしょうか。おそらく、殺人や傷害、強盗などであり、交通犯罪という言葉には、馴染みがないと思います。私も娘をなくすまでは「やる気でやったのではない」から、他の凶器を用いての犯罪とは別物と軽く考えていました。
しかし、事件以来ずっと考え続けていることなのですが、どう考えても、娘の被害は「通り魔殺人」の被害と同じなのです。道路上で何の過失もないのに、何のいわれもない人に、一方的に命を奪われたのですから。
「事故った」という言葉がありますが、私たちがどうしても交通事故被害を軽く考えてしまう理由の一つは、物損で済む事故もあわせて「交通事故」とイメージするからではないかと思います。物損の場合は買い換えて元に戻ります。後で笑って話せることもあるわけです。しかし、人身事故の場合、もう元には戻せないのです。
物損と人身、結果には大きな差異がありますが、原因にあまり違いはありません。進行方向の安全確認を万全にせず、何とかなると不用意にクルマを走らせば、意図しなくても犯罪者となります。法廷では交差点も「犯行現場」と呼ばれるのです。
人身事故=交通犯罪で加害者となったらどうなるのか。まず逮捕され、警察で身柄を拘置されて取り調べを受けます。そして検察庁に書類送検され、起訴された場合には刑事裁判となり、被告席に立たされ、訊問など調べを受け判決を言い渡されるのです。刑事裁判後、損害賠償という民事責任を問われ、再び裁判にかけられることもあります。
そして、被害者からは一生恨まれ続けます。私は当初、現実が受け止められず、相手を思いやる言葉をかけたこともありました。しかし、事件から2週間ほど経ち、初めて前方不注視という事故原因が知らされて以来、憎しみは深まるばかりです。日本は法治国家ですから復讐したいとは思いません。そんなことをしても天国の娘は喜んでくれない。その理性はまだ残っています。
納得できないのは、違反運転で命を奪った加害者が、その重みに相当する罪を受けず、結果として娘の命があまりに軽く扱われていることです。加害者の刑は禁固1年でしたが、執行猶予3年がついたため、刑務所にも入らないで済んでいるのです。
このことを若い皆さんに告げるのはためらいがあるのですが、交通犯罪にあまりに寛容な「加害者天国」という実態があります。資料をご覧いただきたいのですが、例えば、交通犯罪に適用される刑法211条の「業務上過失致死罪」は、窃盗や詐欺罪の量刑の半分という軽い刑なのです。窃盗や詐欺罪の最高刑が懲役10年ですが、「業務上過失致死罪」は5年にすぎません。娘の加害者の禁固1年、執行猶予3年と言う刑は、例えば10万円相当のバイクを盗んだ罪よりも軽いということを後で知り、これでは娘は浮かばれないと怒りにふるえました。当時の裁判長も判決の際に、「ほんの数秒間のちょっとした不注意による、往々にして起こる事故だから」と不当な「理由」を述べました。
私は、本来「事故」という言葉は、運転に違反行為が全くなく、予期し得ない原因で起こった場合に限って使うべきと思います。違反行為を伴う交通犯罪は「未必の故意」による「交通殺人」「交通傷害罪」として厳しく裁かれるべきと考えています。
このような悲劇を生み続けている交通事故ですが、安全を皆望んでいるのにどうしてなくならないのでしょう。
5 クルマ優先社会
昨年1年間に生命・身体に被害を受けた犯罪(身体犯)の被害者数は120万8千人に及びますが、このうち交通事故(犯罪)による被害はどれくらいかおわかりでしょうか。何と96%(116万3504人)は、道路上の交通事故に関わる死傷です(うち死亡者数は6871人)。世界的には1年間で120万人が亡くなり、傷ついている人は5000万人と推定されています。
確かに、運転者の誰もが、故意に人を傷つけようとは思っていない。にもかかわらずどうしてこれほどの被害が出るのでしょう。
物質的豊かさや経済効率ばかりを優先する社会で、「自動車保険に入ることが責任をとること」「賠償すればよい」と、命がお金に替えられるかのような錯覚に陥っているようです。ことクルマに関しては、それが違反運転によるものであったとしても、「仕方のない事故」だから、「犠牲はやむを得ない」として軽く扱う病んだ社会~私はこれを人命軽視、人権無視の「クルマ優先社会」と呼んでいますが~が現実です。被害者の視点から本質を捉え、クルマ社会を正しく問い直すことなしに、この「負の連鎖」を断ちきることはできません。
若者の事故の多さもこのような社会風潮と無縁ではないと思います。若者が無批判にクルマ優先社会の虜となり、取り返しのつかない加害者となった例を紹介します。2003年4月、深川市で起きた事件です。19歳の短大生がスポーツカータイプの乗用車で100キロ以上の暴走運転でカーブを曲がりきれず、同乗していた短大生を死に至らしめました。遺族に告訴され、危険運転致死罪で裁かれた加害者は、「イニシャルD」の主人公に憧れており、物語にあるように公道でレースまがいの暴走運転を始めた矢先の事件でした。「イニシャルD」というのは、無免許運転で家業の豆腐屋の配達手伝いをする中で身につけたドリフトなど「ドライブテクニック」を駆使し、走り屋のヒーローになるという物語です。私は、無免許運転常習という設定で、公道で違法な暴走運転を繰り返す主人公が善に描かれ、社会から批判もされず若者に人気のゲームキャラクターになったり映画化もされたことを憂います。
皆さんには、「クルマ優先社会」の犠牲になって欲しくないのです。犠牲というのは、加害の立場に追いやられることも含めて言っていますが、そうではなく、この病んだ「クルマ社会」を根底から問い直し、真に安全で人間性豊かな社会を築いて欲しいのです。クルマを単純になくせということではありません。クルマの安全面での限界、法律や制度の問題を直視し、安全・快適に使うためにどうするかを考えて抜いて欲しいのです。
6 クルマの危険性と社会的規制
クルマが人を決して傷つけないスピードは、時速0.9キロ(歩く速さの4分の1)と言われます。質量が人の30倍(幼児の場合は100倍)ほどもある鉄のかたまりですから、その運動エネルギーは強大で、使い方を少しでも誤ると、「凶器」となります。さらに道路には、子ども、お年寄りなど生理的能力による「注意力」の限界をもつ人が共存しているのです。
このように危険なクルマですから、「マナー」という問題ではなく、罰則の強化や免許制度の厳格化、速度規制など社会的規制が必要です。その殺傷力から、巨大な斧のような凶器をつけて走っているようなものですから、直接人の命を預かるメスを握る外科医師、あるいは飛行機のパイロットなどと同じ行為です。パイロットが一杯くらい大丈夫とお酒を飲んで操縦桿を握るでしょうか。電車の機関士が私的に携帯電話で話ながら運転をするでしょうか。この意味でも、ほぼフリーパスで安易に与えられる現在の免許制度に大きな問題があると思っています。免許は「卓越した技術」「豊富な知識」「頑強な安全意識」を有する専門家(プロ)にだけに与えられるべきです。
ある飛行機のパイロットは、「すべての規定は、過去の貴重な犠牲の上に成り立っており、それを守らなければ、同じ犠牲を繰り返す」。と述べました。大切なことは、法律が作られた背景~この法律を守らなければ誰かがまたあの時のように傷つく~を考えること。それが法律を守る意味、遵法精神ではないでしょうか。
人が無意識にスピードを上げるのは「生命維持=生存競争=先行競争」が根底に有ると言われます。人より早く食料のあるところに行き着く行動というのが本能として刷り込まれているのです。そして事故を起こした半数が急いでいたという調査結果もあるそうです。この先急ぎ運転は、安全運転に欠かせない「進行方向空間距離」(車間距離もその一つ)を縮小するので危険極まりないのです。これを規制するのが法定速度という道交法です。
私たちの中には、規制とか「がまん」を否定する傾向があります。しかし、本能を規制、「がまん」して大脳の前頭葉=理性を発達させてきたのがヒトなのです。発達とはある意味「がまんする」ことであるとも言えます。「がまん」する力がないと知性は発達せず、凶暴な「切れやすい」人になります。大切なのは社会的適応性です。人類学者の養老孟司さんは、「利口、バカを何で測るかといえば、結局これは社会的適応性でしか測れない」(岩波新書、「バカの壁」)とも言っています。
7 クルマの認識を変えること
理性でクルマの認識を変えるべきと考えています。クルマは、暴走運転は論外ですが、無理な時間設定で少しでも速く着こうと考えたら、その時点で加害者となる危険に無限に近づきます。娘をひいた加害者は103円の振り込み手数料を節約しようと殊更に急ぎ、勝手に人はいないと思い込み、クルマを暴走する凶器に変えました。
クルマを凶器にしないために、「クルマというものは、速く格好良く走る物ではなく、雨風をしのいで、荷物を積んで、ドアからドアへ移動できる便利なもので、子ども、お年寄り、病気の人、障害を持った人にとって特に必要なもの」と考えてはどうでしょうか。とにかく、早く着こうとは一切考えず、対クルマは勿論ですが、歩行者、自転車、そして同乗者を護るため「安全確認」を二重三重に行いながらハンドルを握って下さい。スポーツとして楽しむのはサーキット場でしかできないのです。
自動車文明に対する価値観の問い直しがされた北欧の一部の都市では、歩行者、子ども、お年寄りの安全を第一に考えた街づくりが始まっています。現代の大きな課題である安全な社会づくりを、皆さん方若い力で担っていただきたいと思います。6 このような悲劇を生み続けている交通事故ですが、安全を皆望んでいるのにどうしてなくならないのでしょう。
8 遺された親からのメッセージ
娘を失って、子どもは親にとって何ものにも代え難い「宝」だということを思い知らされました。山上憶良が子を思う親の気持ちを詠んだ万葉集の歌があります。娘の無念を思う、張り裂けそうな悲嘆を説明することは到底出来ないのですが、事件以来いつも頭に浮かぶ句です。
「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」
(しろがねは銀でくがねは金、玉も美しいもの大切なものを指します)
天から与えられた命を全う出来ずに夭逝~若くして亡くなることですが~された時、この世で一番深い悲しみに陥るご両親がいます。若さが、その一途さで暴発し、自分や他人を危険な状況に置きそうな時があるかと思います。そのときは、もしものことがあった時のご両親と家族の嘆き、あなた方を心から大切に思ってくれている仲間の悲嘆、そして同時に相手の方にも嘆き悲しむご両親と友人たちがいるということを想像して下さい。
決して自転車でも無茶な乗り方をしないでください。安全運転を心がけているドライバーを加害者に追いやらないで下さい。運転する側になったら、クルマを暴走させないで下さい。他人と自分の命を本当に大切にして下さい。これが遺された親からのメッセージです。
講話「命とクルマ・・・遺された親からのメッセージ」を聞いて
~高校生の感想レポート~
北海道札幌平岡高校 (2008/11/25)3学年交通安全集会での講演後の感想文より
■講演を聴いて、改めて交通事故の恐ろしさと被害者側の悲しみを感じ、刑が軽すぎると感じました。普段、車はとても便利だし、事故なんか起こることないだろうと思いながら使っているのはたしかで、車が無くなると不便だと思っています。でも、誰もが被害者の立場にならないとわからないのだろうと思います。実際私も小学生の時に仲の良い友達を交通事故で亡くしました。その時は、身近な人の死を受け入れられず、ただ泣いてばかりでした。被害者には過失なんてないのに、どうして友達が死ななくてはいけないのか。今でもよく思い出します。その事故以来、速いスピードを出す車には乗れません。もし、どこからか人がとび出してきたらと思うと、とても怖いです。
車社会で生活していくうえで、事故を起こさないように心がけることはもちろん、被害にあわないように、周囲を気にして生活していかなければならないと強く感じました。(3年女子)
■今から10年以上前の娘の事故に対して、「忘れたことはないので、思い出すことはない」と言っていたことがとても印象的で、娘が死んだことを受け入れたくない気持ち、加害者の罪が軽く、納得出来ない想いを、「被害者の会」を結成し、事故ゼロへの活動に向けていることを、とてもすごいと思います。娘さんも、こんなに愛してくれる父親、家族、犬のサム、ボーイフレンドに出会えて幸せだと思います。
たった一つの命、大切で大事な命を軽い罪で終わらせてしまって良いのか、と疑問を抱きます。千尋さんだけの命だけではなく、未来に生まれてきたかもしれない孫のことまで考えているのにも驚いたし、当たり前のことだなとも感じました。
「おめでとう」が言えなくなった前田さん。娘の死が少しでも報われるように、これからも交通事故について「千尋さんの父」として「被害者の会の代表」として頑張って下さい。(3年女子)
■ 私はこの秋に同じ学校の2年生の男の子が事故にあうところを本当に目の前で目撃しました。幸いその男の子は命に別状はなく、今は元気だそうです。その時、男の子がもし助からなかったらとか、男の子の親の気持ちや加害者の人のこれからの人生、・・・沢山の事が頭の中でぐるぐるしていました。私は以前から母に「加害者にもなり得るんだよ」と教わっていて、そのことを改めて実感しました。
今日の講演で、先生の娘さんや他の方の話を聞いて涙が出てきました。私は今まで事故で近しい人を失った経験はありませんが、沢山の身近な人の死を見てきて、かけがえのない命を失うのは嫌だ、命を奪ってしまうのも嫌だ、と感じました。
「車を運転する(乗る)」ということは「誰かの死(命)」と隣あわせなのだと改めて知りました。そして罪が軽いということも。命はけっして軽いものではないはずなのに、軽く扱われてしまうのがショックでした。もし自分の身近な人が同じめに遭い、加害者の罪が軽いと知ったら言葉にもできないくらい怒り狂いまくり悔しい思いをするのではないかと考えました。そして加害者を恨まずにいられるのかとも。
私は免許を取得したいと思っていますが、取得して運転するとき、自分の腕に、自分の命と、いわば同乗者の命、そして見えない誰かの命がかかっているのだと思うと恐しくてしかたがありません。
先生にはこれからも活動を頑張っていってほしいです。私も今日のことを忘れずに、車と関わっていく以上、何重にも注意し、事故を起こさないように、遭わないようにしていきます。(3年女子)
■18歳になって免許を取れる歳になれたけど、最初は冬休みにすぐ取ろうと思っていたけど、講演を聴いて、この軽い考えではいけないと思いました。18歳で事故を起こしたとき、まだ未成年なので、自分だけでは責任を負うことができません。なので、自分で責任を負うことができる年齢になってからの方が免許をとるのにはふさわしいと思います。そして、私も実際に事故にあったことがありますが、前田さんは娘さんを亡くされてその心境聴いたとき、すごく胸が痛くなりました。やはり実際に被害にあってみないと事故の恐怖や悲しみは分かりません。そんなことを他人ごとのように思っている自分たちの気持ちに腹が立ちました。自分も含め、これから交通安全に対する意識を高め、誰も被害にあうことがなく、安心して車を運転したり、道を歩いたりできるような社会になってほしいと思いました。(3年男子)
■軽い気持ちで「車の免許がほしい」と言っていたけれど、そんな軽い気持ちで運転してはいけないと思った。前田さんの講演を聞いて、私はまだ親になっていないから、親の気持ちはわからないけれど、大切な家族を失った時、私は悲しみから立ち直ることができないと思う。
昨年の10月に私の妹が帰宅途中に車にはねられた。急いで現場に向かう時の、不安で、不安で震えが止まらなかったことを講演を聞いて思い出した。頭を打ったが、幸い異常もなく、足をけがしただけですんだ。ほんの少しの気のゆるみが多くの人を悲しませる。車はとても便利だけれど、もっと一人ひとりの車の運転、交通安全に対する意識を高く持ってほしい。そして、私も絶対被害者、加害者になりたくない。(3年女子)
■愛する娘を奪失われた話を生声で聴き、僕たちにはまだ親という立場ではないけれど、悲しみや、怒り、脱力感など伝わってきました。
もし、自分もそうなったらと考えても、何も言うことは出来ないです。普段、自転車を乗って過ごす身ですが、いつも、死角や車が出てきても反応できない所を通るときはブレーキをかけ、しっかりと確認しながら乗っています。小さな子どもが居るときは、スピードを緩めて安全にという風にしています。僕は前に友だちと自転車で競争していて、前を全く見ていなくて、気が付いたら歩行者が目の前にいて、急ブレーキをかけたけど、衝突してしまい、幸いタイヤがその人のかかとにぶつかりなにもけがは無かったのですが、それ以来、そのようなばかな真似はやめて、安全第一にと考えるようになりました。
人はいつも死と隣合わせです。“明日を生きる”為にも、一人一人が安全を意識していけば、死というものが遠くなるのではないかと思います。(3年男子)
■今日この講演を聴いて感じ、思ったことは、日々絶えず起こる交通事故の被害者、加害者になってしまうかもしれないということだ。たまにこういう事例などを耳にはさんだりする。その時は常に気を付けて居れば大丈夫と考えることもあるが、常に気を張っている事など不可能に近いものを感じてしまう。常に危険と隣り合わせにあるという感覚は、普段は忘れてしまっているに等しい。自動車、自転車、歩行者等の意識をうまく高めることがいかに大事かということを再認識した。
「イニシャルD」を例にした話があったが、そういうものに憧れを持つのはかまわないが、それはマンガの世界の話であって、現実の世界で行いもし失敗したらどうなるか、「もし」まで考えるとけっして行為には及ばないだろう、公道へモータースポーツを持ち込むな、サーキットでやれと、自分も思う。
事故をなくすためにスエーデンなど外国の制度を見習い、どんどん政策を行ってほしい。国をあげて取り組むべき事だ。(3年男子)
北海道岩見沢東高校 (2003/4/30)交通安全集会での講演後の感想文より
★3年女
毎年の交通安全講話より、とても心に残りました。以前に本でこの話を読んだことがありましたが、そのときは「悲劇の物語」程度にしか受け止めていなかった自分自身を恥ずかしく思います。実際に被害にあってしまった家族の想いがストレートに届きました。
交通事故で人を殺してしまっても死ななくてすむのは軽いと自分も思います。きっと計画的殺人で車でひき殺したらもっと重い罪なのでしょうけど、どっちも内容は変わらない気がします。また、ドロボウより交通事故の罪が軽いことを初めて知りました。人の命が軽視されすぎです。
被害者にならない努力は難しいので、加害者にならない努力をします。加害者さえいなければ、被害者もいなくなります。
★3年女
危険物取り扱い、劇毒物など、免許を取得する際はそう簡単とはいかない中で、運転免許は早ければ一月で取れるのは、本当にハードルが低いと思います。
今回の講話を聞いて思うことは、免許取得においては、プロフェッショナルになることを要求し、加害者となってしまった場合は、それ相応の刑罰をもって罪をつぐなうこと。
★3年女
私は、将来簡単に車を運転しようと思っていた。でも、車を運転するということは、いろいろな意味で軽く考えちゃいけないと今日思った。絶対に加害者になってはいけない。あたりまえだけど、本当にそうだ。多くのものを失うし、失わせてしまうからだ。また、命の大切さについても改めて深く考えた。今日聴いたことは、大人になって、免許を取っていく上でとても大事な話だった。加害者の罪、被害者の悲しさ。この講話はきっと忘れないだろうと思います。
★3年女
交通事故は、私にとってあまり身近に感じたことはありませんでした。しかし、今日の話を聞いてわずかながら、車社会における問題の現状がわかった気がします。
「交通事故死も殺人である」こう考えたことはありませんでした。私たちは事故だからしょうがない、といった浅はかな考えしか持っていないような気がします。私はこの「殺人」はもはや「無差別殺人」と似たものだと思います。ただ加害者が故意的にやったかやらないかで、本当に処分の仕方が変わってきます。
もっと厳しく処分すべきなのかもしれないが、この殺人者は故意にやったものではないので、被害者はもちろんですが、この殺人者も悲しい殺人者です。やはり、事故が起きる前に、もっともっと交通安全を意識しなければならないのでしょう。悲しい人々が増える前に。
★3年男
僕も車を運転する時が来ると思うので、前田さんが言っていたように、車はスピードを出すのではなく、病気の人やおじいちゃん、おばあちゃん、自分の親を乗せて、安全に運転したいと思います。今日は、本当にありがとうございました。
★3年男
話を聞いていて、ふとなぜか「戦争」という言葉が頭に浮かんできました。最近イラク戦争が世間をにぎわせていますが、その犠牲者の数はどれほどなのか知りませんが、交通事故死者数が年間1万人を超えるとあっては、これは人間と自動車の戦争ではないのか、と思えてきます。しかも一方的でエンドレスな。
免許の取得可能年齢を20歳に引き上げよう、という話がありましたが、車の売り上げにひびくためなのか可決されていません。確かに自動車がここまで日本を発展させてきた、と言っても過言ではないでしょう。ですから法が厳しくならないのだと思います。確かにこれはおかしいです。現代の社会のゆがみだと思います。
人間と自動車の戦争が終結する日を、日本だけでなく、世界で話し合うべきです。イラク戦争なんてやっている場合ではないと、今日の講話で感じました。
★3年女
私自身が法律関係の進路を考えていることもあり、欧米型の日本社会の交通事故(いってみれば自動車殺人)を裁く法律に異議をとなえたいと思いました。社会がこれほど変化しているのに、数十年間も基本的な部分は何一つ変わっていません。人権尊重をかかげつつも、表面上だけでは全く意味がないと思います。弱きを助け、強きをくじくみたいな、そんな法律になれば少しずつでも殺人被害者は減ってゆくのではないかと思います。しょせんこれは子どもの浅知恵ですが、「被害者の会」のみなさんならば、そんな社会を変えられるしょうし、私も頑張って勉強して、少しでも支えになれるのなら幸いです。
頑張って下さいという言葉は、きっと気休めにしかならないと思えるので、私は「一緒にがんばりましょう」と言いたいです。こんどHPにも行ってみようと思います。
※ つけたし。私が変わればよいと思うもの。
免許をとれる人・・・ここを根本的に改革すべき。ミシュランのレストラン調査みたいに、すみずみまで調べれば、誰にでも免許はとれなくなると思います。本当に安心できる人に!
★3年女
小学校の頃から、交通安全については何度も聞いてきましたが、今回のお話が一番心に残りました。本気で考えました。テレビで交通犯罪のニュースを見ても、今まで「関係ない」と思って何も感じないで見ていました。けれど一つ一つのそういった事件の裏には、遺族の方や、亡くなってしまった犠牲者の方の、悲痛な、言葉では言い切れないほどの思いがあると、改めて感じました。
今回のお話を聞いて、車を運転するということが、どれだけ責任のあることか、よくわかりました。ハンドルを握ったら、よそ見、電話、そういうことをした時点でもう立派な罪に値すると思いました。危険だとわかっているのに、そういう行為をすることは殺人の意志があると取れるような気がします。決して「事故」とは言えないと思います。
今回のお話を聞いて、命の重さを改めて実感しました。自分の命も、他人の命もどんな理由があっても大切にしなくてはならないと思いました。これから自分がハンドルを握るようになったときは、今日のことを想い出して、責任を持って運転したいと思います。
★3年男
たまに自転車に乗って急いでスピードを出してこいでいることがある。しかしこれからは、今日の講話を聞いた体験をいかして、遺された家族や、車を運転しているドライバーのことも考えながら走行していきたいと思います。将来ドライバーとして運転する時も、スピードをおさえて安全運転で走ることを心がけたいと思った。
★3年女
加害者になる可能性は、自分の努力次第で限りなくゼロにできるのだから、皆がそうすれば、それと比例して被害者の数だってゼロにできる。決してこれが不可能とは思いたくない。皆が気をつければ、交通事故で被害にあう無念を、大切な人を失う悲しみを、人の命を奪ってしまう罪悪を消すことができる。
どうすれば気を付けられるか。昔、誰かが言っていたのを思いだした。運転する前に、自分の家族を想え、と。自分が死んだ時に悲しんでくれる人がいるように、運転中すれ違う人全てにも、そう思ってくれる人がいるのだと思えば、絶対に軽い気持ちで運転などできないはずだ。私は、それができるようになって初めて、車を運転できるようになると思う。
★3年女
私は今17歳です。きっと千尋さんと同じ年です。でもまだまだ死にたくないと思っています。それが当たり前だとも思います。まして自分は何も悪くないのに一方的に殺されるなんて絶対嫌です。やりたいこともいっぱいあるし、大変なこともあるけど毎日が楽しいので、まだまだ生きたいです。
正直に言って先生がそれほど深く、時にはきつい言い方で加害者や、この車社会を言うのには驚きました。すごく辛いことで、話しにくいことなんだろう、とは思っていたけれど、びっくりしたというのがほんとです。だけど新聞の片すみにしか載らないこの事件が、いろいろな物事をいっぺんに変えたということをすごく感じました。
私は、加害者にはなりません。悲しむ人が一人でも減れば良いと思います。でもどこにでもいる子どもな私が世の中を変えるのはすごく難しそうです。でも何を出来るのか知りたいです。
★3年女
車は便利な道具です。しかし今のところ私は高校を卒業しても、自分で運転するつもりはありません。以前から考えていたことですが、今日改めてそう思いました。人の命をも奪ってしまう凶器にも変わり得るその道具を、自分の楽のために軽々しい気持ちで使うのは許されないことです。常に「自分が運転をする時には他人の命も関わっている」ということを忘れずにいられるドライバーでなくてはなりません。
交通事故が少しでも減るように願っています。そして自分も努力します。
★3年男
前田さんが話していたように、自動車も運転の技術だけではなく、人格的に優れている人だけが免許をとるべきだと思う。この意見に反対する人はいないだろう。
★3年女
今日交通安全講話を聞き、被害者側の立場だととてもつらいということがよりわかりました。交通事故は決してなくならないものではない。一人一人が常に命の尊さを思いながら車に乗ればなくなるものなので、これから先自分が運転免許をとった時にはそのようなことを忘れないような人になりたいと思いました。
これからの日本の法律は、加害者だけの立場ではなく被害者の立場にたっても考えていくべきと私も思います。
★3年女
農村道路にはよく歩道がない。あれは絶対におかしい。実際白線の内側を歩いていても、とても恐いです。後ろをいつも見ることは不可能だからです。順を追って考えてみると、歩行者が気を付けることは当然だが、運転する側が気を付けていないとどうにもならないと思う。車に人間が勝つわけがないのだから。今日の話を家族や彼氏にして、最悪の結果とならないよう日々心掛けようと思います。